絵に描ける楊貴妃の 桐壺07章12

2021-04-18

原文 読み 意味

絵に描ける楊貴妃の容貌は いみじき絵師といへども 筆限りありければ いとにほひ少なし
(大液芙蓉未央柳も げに通ひたりし容貌を 唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ なつかしうらうたげなりしを思し出づるに 花鳥の色にも音にも よそふべき方ぞなき)

01092(93共通)/難易度:☆☆☆

ゑ/に/かけ/る/やうきひ/の/かたち/は いみじき/ゑし/と/いへ/ど/も ふで/かぎり/あり/けれ/ば いと/にほひ/すくなし
(たいえき-の-ふよう/びやう-の-やなぎ/も げに/かよひ/たり/し/かたち/を からめい/たる/よそひ/は/うるはしう/こそ/あり/けめ なつかしう/らうたげ/なり/し/を/おぼし-いづる/に はな/とり/の/いろ/に/も/ね/に/も よそふ/べき/かた/ぞ/なき)

絵に描かれた楊貴妃の容姿は、すぐれた絵師であっても、筆力には限界があるので、まことに生気に乏しい。
(太液池の芙蓉や未央宮の柳も、詩にいう通り楊貴妃の顔立ちを彷彿とさせるものの、唐風に装うのでは整った美を呈しこそすれ、親しみやすく愛らしかったあの方の姿や声を思い出しになられるにつけ、花の色や鳥の鳴き声に、なぞらえ得る所は見つからないのでした。)

文構造&係り受け

主語述語と大構造

  • は…少なし 二次元構造|方ぞなき 二次元構造

に描ける楊貴妃の容貌 いみじき絵師といへども 筆限りありければ いと〈にほひ〉少なし  | 大液芙蓉未央柳  げに通ひたりし容貌 唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ〈[帝]〉なつかしうらうたげなりしを思し出づる 花鳥の色にもにも よそふべき〈方〉ぞなき

助詞と係り受け(92・93共通)

絵に描ける楊貴妃の容貌は いみじき絵師といへども 筆限りありければ いとにほひ少なし
(大液芙蓉未央柳も げに通ひたりし容貌を 唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ なつかしうらうたげなりしを思し出づるに 花鳥の色にも音にも よそふべき方ぞなき)

「絵に描ける楊貴妃の容貌はいとにほひ少なし」「(大液芙蓉未央柳も)花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき/01093」(対句):亡き桐壺更衣の思い出は絵や花鳥で代替できないことをいう。これが結論。その他の部分は結論に至る理由づけ。


「大液芙蓉未央柳も」の「も」:「絵に描ける楊貴妃の容貌」と同様に。


「げに通ひたりし容貌を」→「唐めいたる装ひ(は)」:「装ひは」は転成名詞で「装ふのは」の意味で、長恨歌で楊貴妃の美しさになぞらえられる大液芙蓉未央柳の姿形を、中国風の様式美で描いたのでは、との意味になる。なお、別本「よそへ」(麦生本)は動詞句としている。


「花鳥の色にも音にも」:「大液芙蓉未央柳も」とその帰結である「もよそふべき方ぞなき」が離れてしまったので、「花鳥の色にも音にも」と言い換えた。

描け楊貴妃容貌 いみじき絵師いへども 筆限りありけれ いとにほひ少なし
大液芙蓉未央柳 げに通ひたり容貌 唐めいたる装ひうるはしうこそありけめ なつかしうらうたげなり思し出づる 花鳥 よそふべきなき

助詞:格助 接助 係助 副助 終助 間助 助動詞

助詞・助動詞の区別(92・93共通):る けれ たり し たる けめ し べき

  • :存続・り・連体形
  • けれ:呼び起こし・けり・已然形
  • たり:存続・たり・連用形
  • :過去・き・連体形
  • たる:存続・たり・連体形
  • けめ:呼び起こし・けり・已然形(「こそ」の結び)
  • :過去・き・連体形
  • べき:可能・べし・連体形
敬語の区別(92・93共通):思し出づ

絵に描ける楊貴妃の容貌は いみじき絵師といへども 筆限りありければ いとにほひ少なし
大液芙蓉未央柳も げに通ひたり し容貌を 唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ なつかしうらうたげなりし を思し出づるに 花鳥の色に も音に も よそふべき方ぞなき

尊敬語 謙譲語 丁寧語

古語探訪

絵に描ける 01092

「(亭子院の描かせたまひて伊勢貫之に詠ませたまへる)長恨歌の御絵/01083」

ありければ 01092

この「けり」は明らかに過去ではない。念押しのようなもので、これが独白になると詠嘆となるのだろう。そうであれば、詠嘆とは地続きの用法と考えるのがよいか。

にほひ 01092

周囲に発散する魅力。匂いに限らない。うるおい、質感などを言うのであろう。

大液芙蓉未央柳もげに通ひたりし容貌を 01093:長恨歌にいう楊貴妃に似た芙蓉柳

長恨歌の次の「大液芙蓉未央柳芙蓉如面柳如眉」を受ける。「げに」は長恨歌の詩句にある通り。大液池の芙蓉や未央宮の柳は、なるほど楊貴妃の顔立ちに通じるところがある。
ところで、「容貌」を更衣の容貌とし、「容貌を思し出づる」と考える解釈があるが、「大液芙蓉未央柳も」の行き場(係る先)がなくなってしまう。また「容貌」を「楊貴妃」とする解釈があるが、それでは「花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき」という帰結に至らない。ここは芙蓉・柳の容貌である。

唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ 01093

しかし、唐風の画風は整然とした美を呈するだろうが。「うるはし」は整然とした美。「なつかしうらうたげ」な桐壺のイメージにそぐわない。

なつかしうらうたげなりしを思し出づるに 01093

親しみやすく愛らしい様子を思い出されるにつけ。「なつかしう」は心が近づきやすい。「らうたげ」は可憐な。

花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき 01093

花の色にも鳥の声にもなぞられる箇所が見当たらない。「花の色」は「楊貴妃の容貌」「大液芙蓉」の言い換え、「鳥の音」は「未央柳」から「連理の枝」を連想し「比翼の翼」(「翼をならべ枝を交はさむ/01094」)へとつなげるための橋渡し。

〈テキスト〉〈語り〉〈文脈〉の背景

楊貴妃より蓮柳が上回る理由 01092・01093

楊貴妃を先に否定した後に、なぜ蓮や柳と比較されるのかよく飲み込めないところであろう。この箇所には作者の絵に対する認識が前提になっているため、知らずに読むとしっくり来ない。雨夜の品定めで語られる絵を見る心得(/02087と/02088)をこの場面に適用すると、楊貴妃はいくら美人でも、長恨歌屏風を描いた絵師は実際の楊貴妃を見ておらず、想像で描く絵筆には限界がある。一方、長恨歌で楊貴妃の美しさに譬えられている太液池の芙蓉や未央宮の柳は、蓮や柳を現実に模写できる点で、想像上の楊貴妃よりも真を描くことが可能だ。ただし、長恨歌屏風では太液池や未央宮という中国様式で描いてあるので、整然としすぎて(また絵師が実際に見た景色ではないので)、桐壺更衣の愛らしい姿と似つかぬものになっている。結局、長恨歌屏風はあくまで話の枕にしかならず、桐壺更衣の代替物にはならないという論法。楊貴妃を先に否定した後に、なぜ蓮や柳と比較されるのか、事情が飲み込めただろうか。

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