いづれの御時にか  桐壺01章01

2021-04-07

時間のある方は「はじめに」を御覧下さい

原文 読み 意味

いづれの御時にか 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふ ありけり

01001/難易度:MAX

いづれ/の/おほむ-とき/に/か にようご/かうい/あまた/さぶらひ/たまひ/ける/なか/に いと/やむごとなき/きは/に/は/あら/ぬ/が すぐれて/ときめき/たまふ あり/けり

いづれの御代とも申しかねますが、女御更衣があまた宮仕えなさっているなかに、取り立てて高貴ではないお方が、今を時めき帝の寵愛をひと際お集めになっておられました。

文構造&係り受け

主語述語と大構造

  • に…ありけり 三次元構造

/いづれの御時にか/ 〈女御更衣〉あまたさぶらひたまひけるなか いとやむごとなき際にはあらぬ〈[更衣]〉が すぐれて時めきたまふ ありけり

助詞と係り受け

/いづれの御時にか/ 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなか いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふ ありけり

  • いづれの御時に(挿入)→結びは省略/省略語を考えるのがこの文を理解するポイント。
  • 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなか→いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふ/「なかに→ありけり」ではない。文の焦点は「あった・いた」ことではなく、身分不相応な「寵愛を得た」ことにある。
  • いとやむごとなき際にはあらぬすぐれて時めきたまふ/「が」は主格(同格説は採らない)。「あらぬ」は準体用法(「人」「かた」などを補う)
  • いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり/「時めきたまふ」は準体用法(「こと」などを補う)で「ありけり」の主格。

いづれ御時 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなか いとやむごとなき際あら すぐれて時めきたまふ ありけり

助詞:格助 接助 係助 副助 終助 間助 助動詞

助動詞の識別:に ける に ぬ けり

  • :断定・なり・連用形→結び省略
  • ける:呼び起こし・けり・連体形
  • :断定・なり・連用形
  • :打消・ず・連体形/準体言で後に「人」などの体言が省略
  • けり:呼び起こし・けり・終止形

「けり」も「き」も過去から今に至るベクトルである。すなわち、始点・持続・終点がある。両者の違いは、現在に作用が及ぶか、及ばずに途切れるかの違いである。つまり、終点の違いだ。これまで、行為が発生した時点(始点)で両者は比較されてきたが、その区別は必ずしも鮮明ではなかった。「けり」は時間・空間を隔てて現在にそれが持ち越されている。「き」は不在であり、現状と発生・持続していた状態とに対立構造が生じる。その結果として今と切り離された過去が浮かび上がるのである。従って、「き」「けり」が使い分けされるポイントは、今ここにあるか、ないかである。過去の行為につく(つまり時制)というより、話者の現状に対する認識を伝える法助動詞(would,should,mightなど)と考えたい。問題を「けり」に絞る。始点・持続・終点のいずれにポイントを置くかで、これまで「過去・伝聞過去」「時間経過」「詠嘆・気づき」などと説明されてきたが、同じ「けり」がどうして、過去にも詠嘆にもあり得るのか説明できなかった。遠くのものをずっと手元まで持ってくる、忘れていた感動を呼び覚ます、現在を始点に考えれば、これらは同じパターンであることが理解できよう。ここに立ち現れるのが「けり」であり、立ち現れないのが「き」である。現存・不在という区別であるが、文法用語としてはわかりやすく、「呼び起こし」としたいと思う。〈助動詞の識別〉における説明は学校文法に準拠するが、「けり」に関しては「呼び起こし」とした。

敬語の区別: さぶらふ たまふ たまふ

いづれの時にか 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふ ありけり

尊敬語 謙譲語 丁寧語

古語探訪

いづれの御時にか 01001:語り手の苦渋の選択から創出された物語の時空間

・「御時」の「御」は帝を指す。この国で時を支配できるのは天皇をおいてほかにない。以上が前提となり、「いづれの御時にか」は「どの帝の御代のことか」と解釈されてきた。しかし、これでは理屈が通らない。語り手の念頭には「光源氏の父」があるのであって、「どの帝」という問いが成立する余地などさらさらないのだ。さてまた、「いつの御治世であったか」という解釈がある。「時=帝の名前」という古代日本の鉄則に照らし合わせれば、これまた成立しえない問いであるのは明らかだ。whoに対しては父帝、whenに対しては父帝の在位中がその答えであり、語り手の意識にこれらを疑う隙間はない。
・細かいニュアンスになるが、「いづれ」とは複数の選択肢を想定し、あれか、これか、それかとひとつづつ当否を検討している時の表現。ここで探している候補はwhoやwhenではなく、howである。父帝をどのようにお呼びするのが適切であるか、あれこれ考えあぐねている。
・「にか」の「か」は、通例「疑問」とされている。それはそれで余韻があってよいが、「反語」ととらえ、きっぱり見つからないと宣言しているようにも思える。語り手の苦渋の決断をそこに見たいと思う。
・物語の最重要人物のひとりである父帝を言い表す言葉がないとは、いったいどういうことなのだろうか。これもまた帝の特殊性から生じる問題である。帝は古来、臣下に名を与える存在であって、名を与えられる存在ではない。具体的には、帝が生きている間は固有名がなく、亡くなった後に諱(いみな)という固有名が与えられるのだ。わたしたちが日本史で習う天皇名はすべて諱である(より正確には、諱には和名と漢名があり、通常知られているのは後者である漢風諡号(かんぷうしごう))。諡号を用いる方が、はっきりとした時間性を持ちやすい。しかし、作者はそれをよしとしなかった。固有名をつけてしまうと、いかに生き生きと描こうが、それは過ぎ去った出来事であり、すでに亡くなった人の話にしかならない。
・源氏物語の朗読を聞いた一条天皇は、紫式部に「日本紀の御局」とあだ名する。それは、この物語に日本書紀と同等の歴史性を読み取った最大級の褒め言葉であったが、作者は光源氏の口を通して、「日本紀などは ただかたそばぞかし これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」(歴史は物事の片面しか触れない、物語こそ物心両面を詳細に伝えるものなのだ)と、『蛍』の帖で語らせる。過去に時間を遡ることでは物語は死んでしまう。行く末がどうなるか五里霧中の中で、今現在生起している出来事として、語りの場に呼び出すことが物語ることなのだ。「けり:物語時間の現在性」を参照ください。
・帝に名をつけないことは、生きた物語を語るために必要であり、それが物語現在という虚構時間を創出し、さらにまた、息子に妻を寝取られる帝という、実社会であれば描き得ないタブーが許容される物語空間を生み出すことにつながった。
・補足 この帝について注釈や訳文などで、桐壺帝と称されることがあるが、上で述べたように源氏物語の原文にはない表現である。次の代の帝、次の次の代の帝もしかり。朱雀帝・冷泉帝などの呼び方は注釈者のものであって、原文にはない。朱雀院・冷泉院については、「物語時空の特殊性」をご参照ください。

時めき 01001:桐壺の房中術

「時」は好時節、「めく」は視覚・聴覚に訴える。全体として好時節が到来したようにはたからは見えるとの意味である。男性社会なら取り立てられて地位が上がるなど、後宮であれば帝の寵愛を集める、とある。自分を超える存在に取り立てられて、予期せぬ好運がもたらされるのである。ところが、地位の高くないこの更衣は、帝のおぼえを集めれば集めるほど、周囲の嫉妬にさいなまれてゆく。ついには皇子を生むという宮仕えする女房にとって最高の栄誉がもたらされると同時に、周囲への気遣いから精神を使い果たし、桐壺更衣は命を失う。好運と悲運がないまぜとなって、更衣に押し寄せるところに、ドラマ性が生じる。「桐壺の娼婦性」を参照ください。

けり 01001:物語時間の現在性

「き(過去の助動詞)」や「く(来)」と現存をあらわす「あり」が共存してできた助動詞。時間や距離を飛び越えて、今ここにという感覚。早い話が、捜し物が見つかった時に今も「あった」と言う。置き忘れた瞬間から見つけだした今の瞬間まで、事実としてはその場にありつづけたことを表し、感情としてはそれを再認識することで気持ちの高ぶりを覚えたことを表す。これが「ありけり」の古文から現代文に至るまで続く姿である。形は過去形「あった」であっても、意味するところは現在この場にあるのであり、この場に突き動かされた感動なのだ。すなわち、「けり」の原義は、時間的・空間的に隔たっていたものが、今この場に呼び起こすことにある。それが過去に思いを致せば「過去回想」となり、過去から続く今の状態であれば「継続」と呼ばれ、再認識に重点を置くなら「気づき」と名を冠され、和歌の用法では呼び覚まされた感動より「詠嘆」と銘打たれるのである。「けり」は「過去の助動詞」に分類され、「き」「く」に重心が置かれて説明されて来たが、むしろ「あり」にポイントがあろう。現存こそが「けり」の本質である。日本では歌が文学の中心にあった。言葉には言霊が宿る。男女が歌を交わし合うのは、相手の歌を口にすることで、歌に込められた言霊が体内に宿るからである。精神的に感応し合うことで、気持ちを高ぶらせてゆくのであろう。その作用と最も馴染む助動詞が「けり」である。和歌に「けり」が多用されることは理由あってのことだ。ただし、文法用語として〈現存〉はわかりにくいので、〈呼び起こし〉を用いる。
なお、「けり」の訳し方について。物語は現在進行すると説明しながら、過去形で訳す方が自然なことも多い。それは日本語の「た」は過去だけでなく、過去から現在に至る継続も表現できるからである。訳語がどうであれ、物語を読みながら、語りを聞きながら、その場に居合わすことができるのが「けり」を代表とする言葉の現存作用である。

女御 01001

帝の正妻候補。親王や大臣などの上流貴族の娘(三位以上)がなる。露顕(ところあらわし)の際に宣旨を受けるため、宣旨を受けない更衣よりも公的性格を帯びる。女御の中から正妻が一人ないし二人(皇后と中宮)選ばれる。皇后と中宮に優劣はない。

更衣 01001

大納言以下の中流貴族の娘(四位または五位)がつく位で、帝の正妻にはなれない。しかし、そうしたルールなどなきがごとくに、帝は中流の桐壺更衣を熱愛する。物語のこの時点では、皇后・中宮ともに空位であり、東宮も冊立されておらず、桐壺更衣が御子をもうけようものなら、正妻の地位があやういばかりか、更衣腹の御子が東宮に擁立されかねないと、女御たちは恐々としている。

あまた 01001

余りと同根。余るくらい多く。表舞台で日の目を見る女房と、裏舞台にいて日の目を見ない女房がいることを暗示させる。呪いなどの手を汚す仕事は、この裏舞台にいる女房たち。

やむごとなき 01001

止むことがないの原義で、この上なく高貴な。

際 01001

筋と筋の境目、それがはっきりしているのが「際立つ」。ここでは、区別がはっきりしている身分をいう。

すぐれて 01001

人に優れて。ひときわ。比較級で述べられているが、文脈上は最上級と考えてよく、一身に。

〈テキスト〉〈語り〉〈文脈〉の背景

省略を考える 01001

「いづれの御時にか」は文意から考えると、「ありけり」にかかるように思われる。しかし、係り助詞「か」の結びは連体形である。「ありける」でないから、ここに掛けることはできない。しかし、掛かるところがない語句があったのでは文は成立しないので、「か」の後ろに省略があると考えなることになる。ここまでが、この文の構造を考える第一段階。
通例、省略は、なるべく単純な表現を補うとものとされている。何でもかんでも補い出せば切りがないし、古文を作る能力のない我々現代人として、短いほど下手を打たずに済むという意識も働くのだ。ともあれ、「ありけむ」などが候補に上げられる。「どの帝の御代であったか」となどと訳されることが多いが、これでは文末の「ありけり」に掛けているのであって、省略を説明したことにならない。
ここからは日本語の論理の問題として考える。「(どの帝の御代であったか)定かでないが」を入れる解釈がある。この解釈が当たらないのは上で見た通りだ。人物ははっきりしているが、それを言い表すことができないのだった。このように、古文の省略を考える際には、現代語の論理で考えるのが秘訣である。

物語の成功の秘訣 01001

帝の匿名化は、歴史時間(すなわち歴代の帝の諡号リスト)に觝触しない(すなわち独立した)物語時間の成立に大きく寄与した。虚構時間が歴史時間と交わらないからこそ、女色に溺れ政治を投げ出す帝の姿を描くことが許された。帝の妻が寝取られるという皇統断絶の危機を、描くことを可能にした仕掛けもここにある。

物語時空の特殊性 01001

ここに帝四代七十有余年の大河ドラマが幕を切る。登場する帝は、上記で触れたように在位中はすべて固有名を持たない。主な呼び名を整理する。
初代:光源氏と一の宮の父 院号なし 死後は故院など
二代:初代の第一皇子 院号は朱雀院 死後は故院など
三代:初代の第十皇子であるが実父は光源氏 院号は冷泉院 生存中
四代:父は二代帝 在位中のため院号なし
天皇は譲位されると内裏から院という建物に移って余生を過ごす。その時、上皇を直接呼ぶ名はないので建物の名をもって呼ぶことになる、これが院号である。ただし、建物名が固有名となるためには、上皇と建物が一対一の対応がなければならない。ある建物を何代かの上皇が使用した場合、建物名では上皇を特定できないという問題が発生する。まさしく、歴史上、朱雀と冷泉というふたつの建物がそうであった。従って、物語の呼称である「朱雀院」「冷泉院」も、朱雀・冷泉の建物(後院という)を利用した上皇の一人というに過ぎない。すなわち、どの帝もどの院も生前も死後も、特定化につながる固有名を持たないのだ。語り手が入念に作り上げようとしている物語時空の特殊性が垣間見られる一面である。

桐壺更衣の娼婦性 01001

教室解釈は上のごときだが、本来あるべき自動詞の解釈ではなくなっている点、落ち着きが悪い。
明石入道が娘に、光源氏の出生を説明するくだりがある。
「[桐壺更衣を]宮仕へに出だしたまへりしに 国王すぐれて時めかしたまふこと 並びなかりけるほどに」(「須磨」)
「いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふ」(桐壺冒頭)
同じ内容を、片や自動詞「時めく」を使い、片や他動詞「時めかす」を使って、述べたことはあきらかであろう。整理する。
一、「時めく」:更衣が主体
二、「時めかす」:更衣が主体、帝は客体
後宮女性にとって一番大切なことは、帝の夜のつとめである。今宵の伽役に選んでもらうためには、性的魅力を高めておくことが必要だった。夜が明けても政治を投げ出し更衣を離さなかったなど、帝の尋常ならざる没入度合いからして、二人の性的相性はよほどよかった。つまるところ、
一、「時めく」:桐壺更衣は性的魅力が抜きん出て高かった
二、「時めかす」:帝を発情させる力が抜きん出て強かった
家格もさほどではなく後見もいない女性が、後宮の中で抜きん出る手段は、女としての魅力以外にない。蛾眉に顔作り水浴みする楊貴妃の姿がまさしく玄宗皇帝の情意をかき立てた。後宮の実情を思い描くならば、「時めく」には性的要素が多分に含まれることは論を俟たないと思うが、いかがか。
今、娼婦性として論じたが、娼婦は性交渉のたびに穢れてゆくわけではない。その都度、処女性を取り戻すからこそ、いつまでも魅力を保持しうるのだ。従って、娼婦性が主で、その中に処女性を持つと考える方が自然である。記号化すれば「娼婦性/処女性」とでもなろうか。この性情を受け継ぐのが夕顔である。また、桐壺更衣と瓜ふたつとされる藤壺は、光源氏にとって喪失した母性の対象とされるが、処女性の中に娼婦性を宿す「処女性/娼婦性」と考えるべきであろう。父帝と光源氏を虜にするのは、娼婦と聖女を行き来するからである。この弁でゆくと、元来聖女であった六条御息所は、反聖女性が強く出てしまうことで、光源氏を辟易させてしまう。すべての女性にはその両面を共有するであろうが、ことにこの三人は、性において光源氏を虜にして離さないのだ。

〈テキスト〉を紡ぐ〈語り〉の技法

挿入とは 01001

「いづれの御時にか」は、「述語がない」Aと考えるか、述語はあるが「省略されている」Bと考えるかで、読み方が変わる。Aの場合、ない述語を補うために、かかる先として述語を探すことになる。この場合は「ありけり」がかかる先となる。Bの場合、省略された述語Xを考える。「いづれの御時にか[X]」で文要素は完備されるので挿入であり、かかる先はない。

同格ってなんだ 01001

英語ではAとBが同格という時、BはAの言い換えである。しかし、国文法では、Aに対して追加説明したものを同格という。同格とは、Aが主格ならBも主格というように、文中の働き(格という)が同じであることから来た呼び名なのだろう。今挙げた二点が同格を考えるポイントとなる。
一、前が主情報、後が追加情報
二、文中で同じ格として働く
「いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふ/ありけり」
同格の場合:「(A+B)/ありけり」
A:「いとやむごとなき際にはあらぬ[人]が/ありけり」
B:「すぐれて時めきたまふ[人]/ありけり」
情報の重みは A=B または A>B
主格の場合:「AがB(する)[こと]/ありけり」
A:「いとやむごとなき際にはあらぬ[人]が」
B:「すぐれて時めきたまふ[こと]」
情報の重みは述語が重く A<B
「宮中にさして高貴でない女性がいた」という情報と、「宮中で帝の寵愛を独占する女性がいた」という情報の、どちらに重きをおいて読むかで〈同格説〉〈主格説〉が決まる。決して形だけで決められるものではない。

同格の訳「で」ってどこから 01001

同格は「…で~する人がいた」と訳す。この「で」は断定の「だ」の連用形。本来は「であり」という形だが、文末の「ありけり」にかかるため「あり」が欠落して「で」が残った。
源氏物語には「連体形+ありけり」が三例あり、いずれも「こういう人があった」と想起している時の表現である。
一、「この姫君の母北の方のはらから 世におちぶれて受領の北の方になりたまへる ありけり」(蓬生)
二、「この御後見どものなかに 重々しき御乳母のせうと 左中弁なる かの院の親しき人にて年ごろつかうまつる ありけり」(若菜上)「親しき人にて」は「近臣として」の意味。
想起とは、「こういう」事態を起こした「人があった」と思い出すこと。「人/ありけり」(存在文)+「~する」(事態)と考えられる。
一、「はらから/ありけり」(存在文)+「なりたまへる」(事態)
二、「御乳母のせうと/ありけり」(存在文)+「つかうまつる」(事態)
冒頭「際にはあらぬ[女性]が/ありけり」(存在文)+「時めきたまふ」(事態)
同格では「…の人で、~する人がいた」と訳す。
主格では「…の人が~することがあった」と訳す。(「…の人がいて、~した」)
結局のところ、存在に重きをおくか(「ありけり」の意味が強い)、事態の発生(「ありけり」は形式化)に重きをおくかにかかっている。

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