はじめに

2021-01-1500 index

本文について

現代人は、文章を読んだり書いたりする際に、一文内で主述関係を完結し、修飾語と被修飾語を離さないよう訓練を受ける。一方、本来、古文には句読点がない。一文内で文を終わらせるという意識が希薄なのだろう、終止形は発達せず、言い切る代わりに連用形でうねうねと続いて行く。数ある古典の中でも、語り主導の源氏物語はその程度が甚だしい。加えて、話者の感想や背景説明がそこかしこに挟まれる。その結果、文をいくつか飛び越えて修飾関係が成り立つことも希ではない。句読点にさえぎられると、その関係が絶たれてしまう。多くの読みの可能性を失うのだ。

(例えば、古来難読の代表格である「はひ隠れぬるをり/帚木02-065」の「をり」。どのテキストもここで句点を打ち、本動詞と説明するが、意味が通らない。これは「身を隠してしまった折りに」の意味で、長い挿入文をはさんみ、数文後ろの「尼になりぬかし/02-068」にかければ、文意はつながる)

現代人とて、人と話をしたり頭の中でものごとを考える際には、文単位などに縛られない。意識の上でつながる限り、ひとまとまりと考えるもの。馴れてしまえば、句読点こそ煩わしくなろう。初めて源氏物語に接する人も、長く馴染んできた人も、原文を句読点から解放し、虚心坦懐、その語るところに耳を傾けてみてはどうか。

方法論

英語の場合、日本語に堪能なネイティブと話し合いをもつことで、原文と訳文の差を埋められるが、古文ではそれができない。いくら訳文を研いたところで、畢竟、ひとりよがりをまぬがれない。意味だけでは、正しさの判断はつかないのだ。ここに、文の構造を解析する必要が生まれる。英文解釈と同様、古文においても、文の構造を正しく捉えることが重要である。

実のところ、古文の構造は単純で、係り受け(主語述語をふくむ)を押さえるだけでよい。係り受けは正否の判断もつきやすく、手直しも容易。結果を蓄積し、共有できることも大きなメリットだ。ただし、上で見たように、語り手の意識に迫らなければ、修飾関係を見誤る危険性がある。文構造の決定因子は助詞だから、助詞に注意を払いながら、前後の文章を繰り返し唱え、係り受けを決めてゆく。武器はこれ切り。読み進めれば、使い方はおのずと身につこう。いざいざ、物語の世界に分け入ろう。

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