正しく読むとは

2020-03-21

源氏物語を正しく読むことが当サイトの狙いであり、そのために古文の構造を逐一解析した点に特徴がある。
通例、古文を読む際には、文の構造を意識することはない。意味を汲み取りながら先に先にと読み進め、文意が捕捉しづらくなると前後を読み返す、主語述語を確認するなどして、また読み進める。

多くの古典はこれで通用する。それは現代文と原文の構造に乖離が少ないからで、頭から訳し下ろすだけで原文の構造はおのずとわかるからだ。ところが、源氏物語はそうは行かない。語りという手法は、後から後から言葉を繰り出す、挿入を好む、文をまたいで修飾する。否、そもそも文なんてない。文という単位は近代出来であって、源氏物語に句読点なんてない。句読点と打つと打たないとでは、致命的な違いで出ることを先ず知ってほしい。普段読む文章は当然ながら句読点がある。一文内で修飾語は完結する。修飾語が文をまたぐなんて掟破りは出てこない。しかし、普段のおしゃべりに、文単位なんて意識しない。いちいち文を言い切りながら話をする人などない。思いついたフレーズを次々繰り出すだけ、たいていは言いさしのまま、言葉を継ぎ足し継ぎ足しするだけで、話が長くなると、何の話をしてたっけなんてことにもなる。文という単位がないのだから、修飾語が一文内で収まるなんてルールも、ここには成立するわけがない。源氏物語の本分がまさにこうなのだ。文単位で読み解くことに馴れた頭で読むから、文意を取り損なう。実のところ、こうした踏み外しは現代人に限らない。王朝文学が現代文でなくなった鎌倉時代の当初から、すでに源氏物語はすらすらと読める代物ではなくなった。これに対処する便法はただ一つ、意識的に原文の構造を読み取ろうと努める以外にない。

ちょっと横道に逸れるが、英文解釈と古文解釈を比較してみよう。両者に埋めることのできない決定的な違いがある。英文解釈では正しい意味を補足することが原理的には可能である。日本語のできるネイティヴを呼んできて、英語のできる日本人とで話し合いをする。すると徐々にでも理解に差を埋めることができる。最終的にはある一致を望むことも原理的には可能だろう。しかし、古文ではそうはいかない。ネイティヴを呼んでくることができない。古文解釈は現代人から古文への一方的な押しつけである。正しいかも知れないし間違っているかも知れない。それを確認するすべを原理的には持っていないのだ。意味レベルでの正しさは、現代語内で矛盾しないというに過ぎない。そこで大事になるのが、古文の構造を調べることだ。構造解析は時間こそかかるが、意味レベルに比較して、かなりの精度で客観的基準が作れる。間違った箇所を特定するのも優しい。訳文は百人いれば百人違いが出るが、文構造は一致させられる部分が大きいので、蓄積が可能となる。そのメリットは大きい。構造を踏まえた上でどう訳出するかは十人十色でいいが、先ずは構造解析をすることが大事なのだ。そのためには句読点の呪縛から逃れる努力が欠かせない。

2020-03-21

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