光る源氏名のみこと 帚木01章01

2021-04-30

原文 読み 意味

光る源氏 名のみことことしう 言ひ消たれたまふ咎多かなるに いとど かかる好きごとどもを 末の世にも聞き伝へて 軽びたる名をや流さむと 忍びたまひける隠ろへごとをさへ 語り伝へけむ 人のもの言ひさがなさよ

02001/難易度:★★★

ひかる-げんじ な/のみ/ことことしういひけた/れ/たまふ/とが/おほか/なる/に いとど かかる/すきごと-ども/を すゑのよ/に/も/きき/つたへ/て かろび/たる/な/を/や/ながさ/む/と しのび/たまひ/ける/かくろへごと/を/さへ /かたり/つたへ/けむ ひと/の/ものいひ/さがなさ/よ

光源氏とはまあ、「名ばかりごたいそうだが…」と、つい言いよどんでしまう不始末が多いとのことなのに、「ますますもって、こんな色恋沙汰の数々を後の世にまで語り継がれて、軽はずみの名を流すことになっては」と、お隠しになっておられた秘密までも、語り伝えようとした人の、なんと口さがないことか。

文構造&係り受け

主語述語と大構造

  • のもの言ひさがなさよ 七次元構造

〈光る源氏〉 〈名〉のみことことしう 言ひ消たれたまふ〈咎〉多かなる いとど かかる好きごとども 〈[後の人]〉末の世にも聞き伝へて 軽びたる名をや流さむ 忍びたまひける隠ろへごとをさへ 語り伝へけむ〈人〉のもの言ひさがなさよ

助詞と係り受け

光る源氏 名のみことことしう 言ひ消たれたまふ咎多かなるに いとど かかる好きごとどもを 末の世にも聞き伝へて 軽びたる名をや流さむと 忍びたまひける隠ろへごとをさへ 語り伝へけむ 人のもの言ひさがなさよ

語り手は、光源氏よりやや後代の人。光源氏の不品行を語り伝えたのは、光源氏と同時代の人。

「名のみことことしう」「言ひ消たれたまふ」(並列)→「咎」
(音便は連用法が原則である。「名のみことことしう」は「言ひ消たれたまふ」や「咎」に掛けると考えるのが一般的な処し方であり、掛かる場所がない場合に中止法を考えるという手順だが、ここでは「名のみことことしう」が直説法による「咎」の例となっているので、言い換えと考える。音便の用法としては中止法であり、口を濁して後の言葉を飲み込んでいるのだ)


「いとど」→「軽びたる名をや流さむ」


「(かかる)好きごとどもを末の世にも聞き伝へて軽びたる名をや流さむと」→「忍びたまひける」

古語探訪

言ひ消たれ 02001:「非難する」ではなく、言葉を濁すの意味。

言いかけた言葉を途中でつぐむこと。「名のみことことしう」のウ音便の後の非難する語句を省略したこと。非難するのではない。貴人に対して直接悪口は言えない。名前ばかりたいそうだけどその実は…と言い濁しているのだ。宮中では、表だっては言葉を濁すだけですむが、その裏では秘密の隠し事まであげつらひ、後世にまで汚名が伝わっては

いとど 02001:係る場所、それが問題だ

ますますの意味。すでに「咎」は多いのに。「いとど」を心内語と取る説では「をや流さむ」にかける。「いとど」を心内語としない説では「語りつたへ」にかける。だが、これは論理が逆である。訳が決まってから、心内語に入れるか入れないかを決めているに過ぎず、この論法ではどちらが正しいか証明できない。なお、「忍びたまひける」にかける説もある。

かかる好きごとども 02001:語りか心内語か

「かかる」を語り手の言葉とすれば、この帖の後半から語られる空蝉・軒端荻・夕顔との恋愛を指すという、諸注釈の説明通りであろう。しかし、軒端荻はともかく、空蝉は光源氏が生涯大切にする女性であり、夕顔は喪ってしまうが、娘の玉鬘はやはり長きにわたり愛育するのだから、「好きごとども」の一言でまとめるには違和感がある。
「かかる」を光源氏の心内語と考えるとどうなるか。「かかる」は漠然と光源氏が経験した色恋沙汰全般を指すことになる。そのうち空蝉・軒端荻・夕顔などを語り手は取り上げたことになる。

名のみことごとしう 02001

光るという名前ばかりがご立派で実際の行動が伴っていない、名前負けしているとのこと。

咎 02001

欠点、粗。

多かなる 02001

「なる」は、伝聞。

名をや 02001

「や」は反語。「流さむ」の「む」と呼応する。

〈テキスト〉〈語り〉〈文脈〉の背景

光源氏の不品行 02001

「多かなるに」まで光源氏は不用意な行動が多かったようで、光るなんて名ばかりねと、同時代の人からはよく悪たれ口をたたかれることが度たびであったことを言う。

物語時間の流れ 02001

「語り伝へけむ」の「けむ」は、物語が今行われている時間を現在として、それより過去に起こったであろう事実を語り手が推測している。それに対して、「聞き伝へ…流さむ」の「む」は未来に起こるであろう仮定。そういう事態が起こってはどうしようという光源氏の心中を語り手がおもんぱかって述べているのである。従って、今物語っている時点と、光源氏の心内時間と、それをおもんぱかっている時間は同期しているおり、これがここでの時間の起点である現在を支配していることになる。これより前の出来事が過去であり、後の出来事が未来である。

〈テキスト〉を紡ぐ〈語り〉の技法

修飾語の大原則である「交差禁止」とは 02001

A「いとど」→「軽びたる名をや流さむ」 B「いとど」→「語り伝へけむ」

AとBどちらでも意味的にはかけられるが、「いとど」の直前「咎多かなるに」の接続助詞「に」が、「名をや流さむ」にかかることを考えると、「いとど」は同じく「名をや流さむ」にかかると考えるのが自然。さらに、Bの読みは「交差禁止」の規則に反する。

「光る源氏」→「と忍びたまひける」という係り受けがある。「いとど」は間に入っているので、外にかかることはできない。これを「交差禁止」と呼ぶことにする。「交差禁止」は和文に限らない一種の普遍文法であり、この法則がないとどこまでも係る先を探すことになり、決定できなくなってしまう。

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