それはある博士のも 帚木10章02

2021-03-29

原文 読み 意味

それは ある博士のもとに学問などしはべるとて まかり通ひしほどに 主人のむすめども多かりと聞きたまへて はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを 親聞きつけて 盃持て出でて わが両つの途歌ふを聴けとなむ 聞こえごちはべりしかど をさをさうちとけてもまからず かの親の心を憚りて さすがにかかづらひはべりしほどに いとあはれに思ひ後見 寝覚の語らひにも 身の才つき 朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず むべむべしく言ひまはしはべるに おのづからえまかり絶えで その者を師としてなむ わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば 今にその恩は忘れはべらねど なつかしき妻子とうち頼まむには 無才の人 なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに 恥づかしくなむ見えはべりし まいて君達の御ため はかばかしくしたたかなる御後見は 何にかせさせたまはむ はかなし 口惜し とかつ見つつも ただわが心につき 宿世の引く方はべるめれば 男しもなむ 仔細なきものははべめる と申せば 残りを言はせむとて さてさてをかしかりける女かな とすかいたまふを 心は得ながら 鼻のわたりをこづきて語りなす

02114/難易度:★☆☆

それ/は ある/はかせ/の/もと/に/がくもん/など/し/はべる/とて まかり/かよひ/し/ほど/に あるじ/の/むすめ-ども/おほかり/と/きき/たまへ/て はかなき/ついで/に/いひより/て/はべり/し/を おや/ききつけ/て さかづき/もて-いで/て わが/ふたつ/の/みち/うたふ/を/きけ/と/なむ きこエごち/はべり/しか/ど をさをさ/うちとけ/て/も/まから/ず かの/おや/の/こころ/を/はばかり/て さすがに/かかづらひ/はべり/し/ほど/に いと/あはれ/に/おもひ/うしろみ ねざめ/の/かたらひ/に/も み/の/ざえ/つき おほやけ/に/つかうまつる/べき/みちみちしき/こと/を/をしへ/て いと/きよげ/に/せうそこぶみ/に/も/かんな/と/いふ/もの/かき/まぜ/ず むべむべしく/いひまはし/はべる/に おのづから/え/まかり/たエ/で その/もの/を/し/と/し/て/なむ わづか/なる/こしをれぶみ/つくる/こと/など/ならひ/はべり/しか/ば いま/に/その/おん/は/わすれ/はべら/ね/ど なつかしき/さいし/と/うち-たのま/む/に/は むざい/の/ひと なまわろ/なら/む/ふるまひ/など/みエ/む/に はづかしく/なむ/みエ/はべり/し まいて/きむだち/の/おほむ-ため はかばかしく/したたか/なる/おほむ-うしろみ/は なに/に/か/せ/させ/たまは/む はかなし くちをし と/かつ/み/つつ/も ただ/わが/こころ/に/つき すくせ/の/ひく/かた/はべる/めれ/ば をのこ/しも/なむ しさい/なき/もの/は/はべ/める と/まうせ/ば のこり/を/いは/せ/む/とて さて/さて/をかしかり/ける/をむな/かな と/すかい/たまふ/を こころ/は/え/ながら はな/の/わたり/おこづき/て/かたり-なす

そのいきさつは、ある博士のもとに漢文学などをいたそうと通っていました時に、師である主人には娘がたくさんいると聞きおよびまして、ふとした機会に言いよりましたところ、親が聞きつけ杯を持ち出して、「わがふたつの途歌うを聴け」と訥々と諳んじになるのが聞こえて参りましたが、ろくすっぽ打ち解けた気分で出かけてもゆかず、親の心情を気遣ってさすがによしみは絶やさずいましたうちには、女がたいそう愛情深く世話をしますこと、寝覚めの床での睦言にも身に教養が備わるような話や朝廷にお仕えする上で心得るべき専門的な教学を教えるし、じつに清廉な筆遣いで寄越す消息文にも女文字など一字もまぜず理路整然とした言葉遣いをいたしますので、おのずと通うことも絶えないで、その者を師として下手な漢詩文を作ることを習い覚えましたゆえ、今にその学恩は忘れてはおりませぬが、心懐かしい妻として信頼するには、菲才の身では、至らない振る舞いなどいつ見破られるやもしれず気恥ずかしいくらい立派に見えすぎたのです。まして君達の御ためには、実務的でしっかり者のお世話役はどうしてなさることがありましょう。心から頼み切れないがっかりだと思いながらも、ただもう女が気に入り、前世からの縁に引かれる面があるように思われるものですから、男こそは仔細なき代物でしょう」と申すと、続きを言わせようとして「はてさておもしろい女だな」と、頭中将がいい気にさせておやりになるが、式部丞はおだてと心得ながら鼻のあたりを変にぴくつかせながら話の仕上げを行った。

大構造と係り受け

それは ある博士のもとに学問などしはべるとて まかり通ひしほどに 主人のむすめども多かりと聞きたまへて はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを 親聞きつけて 盃持て出でて わが両つの途歌ふを聴けとなむ 聞こえごちはべりしかど をさをさうちとけてもまからず かの親の心を憚りて さすがにかかづらひはべりしほどに いとあはれに思ひ後見 寝覚の語らひにも 身の才つき 朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず むべむべしく言ひまはしはべるに おのづからえまかり絶えで その者を師としてなむ わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば 今にその恩は忘れはべらねど なつかしき妻子とうち頼まむには 無才の人 なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに 恥づかしくなむ見えはべりし まいて君達の御ため はかばかしくしたたかなる御後見は 何にかせさせたまはむ はかなし 口惜し とかつ見つつも ただわが心につき 宿世の引く方はべるめれば 男しもなむ 仔細なきものははべめる と申せば 残りを言はせむとて さてさてをかしかりける女かな とすかいたまふを 心は得ながら 鼻のわたりをこづきて語りなす

◇ 「うちとけてもまからず/逆接)→「さすがにかかづらひはべりし」

古語探訪

主人のむすめども 02114

学問を身につけるために通った「博士」の娘たち。

はかなきついで 02114

「はかなき」は実を結びそうにない、結果が出ないと想像されるような。「ついで」は機会の意味だが、もともと順番を指す語。博士のもとに通う学生は多く、身分、年齢、席次などの順番から、自分の手に落ちることはないだろうと予想されたのだろう。

言ひ寄り 02114

求婚する。

盃 02114

婚礼の宴。博士家という固い家柄なので、娘がたくさんいても良縁に恵まれなかったのであろう。親が積極的に乗り出すわけだが、素直には飲ませてもらえない。そこは博士家の娘を娶ろうというのだから試験がある。

わが両つの途歌ふを聴け 02114

『白氏文集』「秦中吟」の「議婚」中の句「聴我歌両途」。今まさに、綺羅を着飾った十六歳の金持ちの娘が嫁ごうとしている。その家の納屋には二十歳の貧しい娘が良縁に恵まれずに住んでいる。酒樽が置かれ、祝宴にかけつけた人々になみなみと酒が注がれた。そこまでが「議婚」の前置きで、ここからが詩の本題。
四座且勿飲(四座しばらく飲むなかれ)、聴我歌両途(我が両つの途を歌ふ聴け)、
富家女易嫁(富家のむすめは嫁し易し)、嫁早軽其夫(嫁すこと早きもその夫を軽んず)、
貧家女難嫁(貧家のむすめは嫁し難し)、嫁晚孝其姑(嫁すこと遅きもその姑に孝たり)
聞君欲娶婦(聞く君婦を娶らんと欲すと)、娶婦意如何(婦を娶るの意はいかんや)

聞こえごちはべりしかど 02114

「聞こゆ」は、自動詞で「聞こえてくる」(「ゆ」は受け身、ないし自発)、他動詞で「申し上げる」(「言ふ」の謙譲語)。他動詞用法では、主体が娘の父親となり、藤式部丞に対して謙譲語を用いるのはおかしい。直前の「となむ」の後ろに「仰せらるる」等を補い、博士から命じられて、藤式部丞がくちづさんだと考えることもできるが、「聞君欲娶婦、娶婦意如何」という詩の内容と齟齬する。やはり、父が訥々と歌い出したのを、藤式部丞が耳にしたと考えるのがよいだろう。「聞こえ」は自動詞用法である。父である博士は、貧しさに耐えることを訓戒すると同時に、「婦を娶るの意はいかんや(娶婦意如)」と、藤式部丞に問い詰めたであろうとことがうかがえる。貧しくとも将来連れ添うことを誓わされたであろう。

をさをさ…ず 02114

めったにしない。父親の前で「娶婦意如何(婦を娶るの意はいかんや)」に対して答え、結婚の誓約をしておきながら。

まからず 02114

「罷る」は行くの謙譲語、博士に対する敬意。

かかづらひ 02114

関係が途切れないで続く状態。

ほどに 02114

時間の経過。気持ち的には消極的ながらも、父親との関係から通っているうちに。

寝覚の語らひ 02114

「語らひ」は情を交わす、むつびあう。起き抜けでまだ寝具を羽織って、ぼんやり夕べの情事を思い出しながら愛を語りあう、そういう時にも。

才 02114

漢学。

道々しきこと 02114

四書五経など出世のために必要な教学。主に公事。

きよげ 02114

整った端正な美。

仮名といふもの書きまぜず 02114

片仮名・平仮名を使わない、即ち漢文で書く。

消息文 02114

会って語らう時も、離れて手紙の中でも。

むべむべし 02114

なるほどそうだと得心できるような表現。主に私事であろうが、文章を書くときの手本となるような表現。

腰折文 02114

下手な漢詩文。

妻子 02114

漢文で妻を指す。

うち頼まむ 02114

安心してすっかり身をまかす。本妻として頼りにすること。

無才の人 02114

藤式部丞の自称。

なま悪ろ 02114

どことなく劣っていること。

見えむ 02114

女にそう見られる。「見え」は受け身。

見えはべりし 02114

思えました。「恥づかしく」は「見え」の内容。「見え」は自発。

はかばかし 02114

てきぱきと処理する。

したたかなる 02114

手抜かりがないこと。ともに実用的な能力。

はかなし 02114

妻として安心して頼る気になれない。

口惜し 02114

期待外れ。

心につき 02114

愛情がわく。

仔細なき 02114

込み入った事情がない。単純なこと。要するに漢才だの文章道といい、愛情がどうの宿世がどうの言っても、要するに性欲に負けたのだということ。

すかいたまふ 02114

その気にさせる。

心は得ながら 02114

(頭中将の囃し立てる言葉が、本気でなくおだてだと気づきながら。

をこづき 02114

ぴくつかせること。おだてられて得意になっている様子と、これに続くエピソードの核である、ふすべられた薬草のくさい臭いの前置きになっている。

語りなす 02114

器用に語る。思いつきを語るのではなく、話の構成をよく考えて話す。

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