鈴虫の声の限りを 桐壺06章12

2021-05-14

原文 読み 意味

 鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
えも乗りやらず

01076/難易度:★☆☆

 すずむし/の/こゑ/の/かぎり/を/つくし/て/も/ながき/よ/あかず/ふる/なみだ/かな
え/も/のり-やら/ず

《鈴虫が羽を振り 声を限りに鳴くごとく長い秋の夜を泣き通しても 流れつづける涙ですこと》
どうにも車に乗り込めません。

文構造&係り受け

主語述語と大構造

  • 涙かな:三次元構造|えも乗りやらず 一次元構造

 〈鈴虫〉の 声の限りを尽くしても 長き夜あかずふる涙かな〈[命婦]〉えも乗りやらず

助詞と係り受け

 鈴虫の 声の限りを尽くしても 長き夜あかずふる涙かな えも乗りやらず

「あかず」:夜が「開かず」と涙が「飽かず」が掛詞


「ふる」:涙が降ると羽を振るが掛詞、鈴虫の鈴と振るが縁語

「声の限りを尽くしても」→「あかずふる」

鈴虫 声限り尽くし 長き夜あかふる涙かな え乗りやら

助詞:格助 接助 係助 副助 終助 間助 助動詞

助動詞の識別:ず ず

  • :打消・ず・連用形
  • :打消・ず・終止形(「なむありける」などの省略を考えるならば連用形)
敬語の区別:φ

鈴虫の 声の限りを尽くして も 長き夜あかずふる涙かな えも乗りやらず

尊敬語 謙譲語 丁寧語

古語探訪

鈴虫 01076

王朝文学に出る「鈴虫」は今日チンチロリンと鳴く松虫のことであり、今日リンリンと鳴く虫は松虫といったという教科書や古語辞典でよく見る通説は無意味である。まず、王朝文学には鈴虫・松虫が鳴くという描写はいくらもあるが、「チンチロリン」や「リンリン」と擬声語で表された表現はない。また、実際に虫を観察して、これが鈴虫で、これが松虫だと描き分けた文献もない。あくまで音声から、鈴虫だ、松虫だと音源を言い当てているに過ぎない。王朝人が残した鈴虫や松虫の擬声語が確認できない以上、今の「チンチロリン」と鳴き音を与えられる虫が、平安時代において松虫なのか鈴虫なのか全然違うのかは何も言えない。「リンリンリン」も同じである。想像が許されるなら、王朝人は虫の音に非常に敏感であったがゆえに、単一化に向かう擬声語化を嫌ったであろう。その時その時の虫の音を、その時その時の状況、気分に合わせて堪能したのではなかろうか。このように、もとの状態(平安時代の擬声語)がわからない以上、逆転を言い立てるのは意味がない(逆転したのであれば、もとの状態がわかることになり、あきらかな矛盾である)。可能性を言い出せば、逆転だけでなく、今と昔では松虫も鈴虫も全然違う第三第四の虫であったかも知れない。しかし、それは可能性だけの話で、そう考える根拠がないのだから、鈴虫は鈴虫のまま、松虫は松虫のままと考えるのが、矛盾が一番少なく自然である。なお、松虫の声を「リンリンリン」と表記した最初は室町時代の謡曲「松虫」とされる。それ以外の擬声語の文献は室町末から江戸初期の連歌俳諧である。そこでは松虫の鳴き音を「リンリン」にも「チンチロ」にも当てている。虫の音から擬声語を当てるのであって、擬声語から虫を特定するというベクトルはさらにずっと定型化が進んでからであろう。その時代から遡って、王朝文学の松虫鈴虫の擬声語を特定するのはあまりに無理であることはご理解いただけたかと思う。白石良夫著『古語の謎』(中公新書)を参考に、思うところを付け加えた。

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