あまたの御方がたを 桐壺02章10

2021-04-18

原文 読み 意味

あまたの御方がたを過ぎさせたまひてひまなき御前渡りに 人の御心を尽くしたまふも げにことわりと見えたり

01016/難易度:★★★

あまた/の/おほむ-かたがた/を/すぎ/させ/たまひ/て/ひまなき/おほむ-まへわたり/に ひと/の/み-こころ/を/つくし/たまふ/も げに/ことわり/と/みエ/たり

あまたのご夫人方の局を通り過ぎて間断がない、そうした帝の使者のお通いに、女性達が心をすり減らしになるのも、まことにもっともだと思えました。

文構造&係り受け

主語述語と大構造

  • も…と見えたり 三次元構造

〈[帝]〉あまたの御方がたを過ぎさせたまひてひまなき御前渡り 〈人〉の御心を尽くしたまふ 〈[私=語り手]〉@ げにことわり @と見えたり

助詞と係り受け

あまたの御方がたを過ぎさせたまひてひまなき御前渡りに 人の御心を尽くしたまふも げに〈ことわり〉と見えたり

  • あまたの御方がたを過ぎさせたまひひまなし+御前渡り/理由→人の(主格)御心を尽くしたまふ+→げに〈ことわり〉(心内語)と見えたり

「人の」(主語)「(御心を)尽くしたまふ」(述語):「の」を連体格と考えると、「尽くしたまふ」の主体、即ち、敬語の対象がなくなってしまう。女御たちが心をすり減らしてしまわれるの意味。


げにことわりと見えたり:「げに→見えたり」と考えれば、「げに」は地の文。「げに→ことわり(なり)」と考えれば、「げに」は心内語の一部となる。

あまた御方がた過ぎさせたまひ ひまなき御前渡り 人御心尽くしたまふ げにことわり見えたり

助詞:格助 接助 係助 副助 終助 間助 助動詞

助動詞の識別:させ たり

  • させ:使役・さす・連用形/尊敬と解釈されているがそうは読まない。「御前渡り」を参照
  • たり:存続・たり・終止形
敬語の区別:御 たまふ 御 御 たまふ

あまたの方がたを過ぎさせたまひて ひまなき前渡りに 人の心を尽くしたまふも げにことわりと見えたり

尊敬語 謙譲語 丁寧語

古語探訪

御前渡り 01016:迷宮の中心で待ちうける支配者

「前渡り」とは、男が女の元を立ち寄らずに素通りする意味で、一語の名詞である。「御」は尊敬語で、前渡りをする主体に敬意を添える。問題はその主体である。既存の注釈は「過ぎさせたまひて」を最高敬語とし、帝をその主体と解するが、夜の務めは女性が帝の元へ行くものである。それが後宮の常識だ。時に帝がわざわざ中宮などの元に赴くことがあり、枕草子・栄華物語や権記などの公家の日記に残るが、それは日中の用向きがあってのこと、性行為を目的に行くのではない。従って、この文の「御前渡り」が帝自ら性の対象を求めての渡御であれば、それのみで人の心を尽くすには十分である。殊更「ひまなき」で強調するに及ばないのだ。帝の異常さはこの後、段々と述べられるが、ここはまだその障り部分。最初からマックスで帝の異常さを語ってしまうと後が続かなくなる。
語りの構成上の問題はさておき、この文を理解するためには、関係の深い次の文を読む必要がある。
「参う上りたまふにもあまりうちしきる折々は 打橋渡殿のここかしこの道にあやしきわざをしつつ 御送り迎への人の衣の裾堪へがたくまさなきこともあり」
「桐壺更衣から帝の元に上がる場合でも、あまり度重なる場合には」というのが、次の文が語られる状況だ。ここから逆算すると前の文は、「桐壺更衣から帝の元に上がる場合でなくても」という状況であり、さほど「うちしきる折々」ではない状況下にあるはずだ。すなわち、前の文の「ひまなき」は、時間の頻度を表す用法ではないのだ。
古文の「ひま」は、原義的には空間的な間隔を表し、時間的間隔はその比喩的表現である。時間の「ひまなし」は現代語に等しく、時間の間隔が狭く、度々繰り返されることを言う。空間的な「ひまなし」とは間隔が狭いことであり、次から次へと繰り返されることを言う。その結果、長々と連続する様子を表現することになる。
その主体は誰か、実は文中にある語句である。「御送り迎への人の衣の裾堪へがたくまさなきこともあり」の「御迎への人」がそれ。つまり、帝の名代として、今宵の性の相手を迎えにゆく使者たち、具体的には、灯りを持つ者、前払い、使者本人、供回りなど、相応の人数から成る一行である。暗がりに灯りが点り、しじまの中、足音と衣擦れの音を残しながら、今宵の夜の相手を迎えに行く使者の一行が、延々と部屋の前を通り過ぎて行くのだ。
相手の元に着けば口上を述べ、文章を手渡すなどの役目を果たし、今宵の女性を連れて帝の元に戻ることになる。その場面を描くのが、「参う上りたまふにもあまりうちしきる折々は」で始まる次の文。つまり、ふたつの文は時間的に接続しているのである。
ここで重要ポイントを確認しておく。帝本人でなくとも帝のまわりの人や物は敬意の対象になる。これは解釈を左右する重要ポイントである。
なお、送る人とは桐壺更衣を送って行く人に加え、夜伽の間は側に控え、更衣の衣服を脱がせたりする世話係などから成る。ついでながら、「過ぎさせたまひて」は連用法だから、用言につづくしかない。既存の解釈は「御前渡り」に続けているようだが、そうするためには「て」の後に格助詞「の」が必要である。「過ぎさせたまひて」がつづく用言は「ひまなき」以外にない。
「おぼえいとやむごとなく 上衆めかしけれど わりなくまつはさせたまふあまりに さるべき御遊びの折々 何事にもゆゑある事のふしぶしには まづ参う上らせたまふ ある時には大殿籠もり過ぐして やがてさぶらはせたまひなど あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに おのづから軽き方にも見えし/01011」とあり、藤壺にしても「しげく渡らせたまふ御方」とある。桐壺も藤壺も始終帝に呼び出されるのであって、帝から夫人の元に夜伽に行く必要などないのだ。

御方がた 01016

一般には女御をさすが、女御は二三人からせいぜい五人を満たない。「あまたの」とあるのでここは更衣を含める。

ひまなき 01016

「ひま」とは空間的・時間的間隔のことで、「ひまなし」とは空間的に間隔狭く繰り返されること、時間的に間隔狭く繰り返されることに用いる。ここでは、前者であれば、次から次へ延々との意味となり、後者であれば頻繁にの意味になる。空間的用法が原義であり、時間的用法は比喩的な用法である。現代語としては専ら時間のみに用いるが、同義語の「ひっきりなし(に)」は、現代語でも空間・時間ともに用いる。ここでは、空間的用法であろう。「御前渡り」参照。

過ぎさせたまひて 01016

主語を帝と考えて「させたまひ」は最高敬語と考える説がある。しかし、帝が度々後宮女性の元に通うのはおかしい。帝が頻繁に桐壺に通い、桐壺も度々帝の元に通うとなると、夜の内に行ったり来たりとなる。それは自然ではない。「させ」はここでは、人に~させるの使役。桐壺の元に送った「御送りの人/01017」をさす。

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