忍ぶの乱れやと疑ひ 帚木01章04

2021-04-18

原文 読み 意味

忍ぶの乱れやと 疑ひきこゆることもありしかど さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは 好ましからぬ御本性にて まれには あながちに引き違へ心尽くしなることを 御心に思しとどむる癖なむあやにくにて さるまじき御振る舞ひもうち混じりける

02004/難易度:★★★

しのぶ/の/みだれ/や/と うたがひ/きこゆる/こと/も/あり/しか/ど さしも/あだめき/め/なれ/たる/うちつけ/の/すきずきしさ/など/は/このましから/ぬ/ご-ほんしやう/にて まれ/に/は あながち/に/ひきたがへ/こころづくし/なる/こと/を み-こころ/に/おぼし-とどむる/くせ/なむ あやにく/にて さるまじき/おほむ-ふるまひ/も/うち-まじり/ける

人目を忍んで通う女がどこぞにおいでかと大臣家では疑い申し上げることもあったけれど、そのような実のない世間でいくらも目にする軽はずみな色事などはお好みにならないご気性であって、稀には、強いてご気性に反して心を磨り減らす恋を御心に思いつづけるご性癖があいにくおありで、あってはならぬお振る舞いもついうち混じるのだった。

文構造&係り受け

主語述語と大構造

  • 御本性にて…もうち混じりける 四次元構造

〈[左大臣]〉忍ぶの乱れや 疑ひきこゆる〈こと〉もありしか〈[光源氏]〉さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなど 好ましからぬ御本性にて まれには あながちに引き違へ心尽くしなること 御心に思しとどむるなむあやにくにて@ さるまじき〈御振る舞ひ〉もうち混じりける

助詞と係り受け

忍ぶの乱れやと 疑ひきこゆることもありしかど さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは 好ましからぬ御本性にて まれには あながちに引き違へ心尽くしなることを 御心に思しとどむる癖なむあやにくにて さるまじき御振る舞ひもうち混じりける

「あだめき」「目馴れたる」「うちつけの」(並列)→「好き好きしさ」


「まれには」→「うち混じりける」


「あながちに…あやにくて」:「さるまじき御振る舞ひもうち混じりける」の原因

古語探訪

忍ぶの乱れ 02004:相手の女性は誰か

『伊勢物語』初段の「春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れ限り知られず」という歌を下に敷く。「春日野で袖が擦りあうほど間近に出会ったあなたのせいで、わたしの信夫摺りの着物は乱れに乱れてしまった、この心同様に」との歌意であり、伊勢物語初段では初冠をすまして間なしの少年の盲目的な恋という設定。これを受け、ここでの「忍ぶの乱れ」の意味は、正妻の葵の上をほったらかしにして、心が乱れるような恋をよそでしているのではないかとの意味となろう。空蝉と出会う前触れであり、その裏には藤壺との関係が隠されている。左大臣の言葉が現実化する、「(言=事)構造」と見られる。

あだめき 02004

「あだ」は、「まめ」の反対。不誠実。

目馴れたる 02004

どこででも目にするような、ありふれた。

うちつけ 02004

思慮のない。

御本性 02004

気性。

あながちに 02004

無理に。

引き違へ 02004

「御本性」に引き違えること、反すること。

心尽くしなること 02004

藤壺への倫ならぬ恋情に精神をすっかりすりへらしてしまうこと。「心尽くし」は、心をすり減らすこと。

あやにくに 02004

期待に反するときに用いる。あいにくながら。好き好きしさを好まぬ本性なのに、時々心もすり切らせるような恋愛に没頭することが、あやにくである。

さるまじき 02004

「さあるまじき」の略で、そうあってはならない。

〈テキスト〉〈語り〉〈文脈〉の背景

あやにくにて 02004

『伊勢物語』初段のしめくくりは印象的で、「昔人はかくいちはやきみやびをなむしける」とある。※「いちはやき」の「いち」は神威霊威をあらわし、それらがさっと恐ろしい力で働くことがいちはやしの原義であり、抗することが出来ない性衝動の激しさをいう。対する「みやび」はそれを歌などを通して洗練した形で表現すること。相容れない二つの力を同時に支配したのが昔人である。「いちはやき」に当たる表現がここでは「あやにくにて」で、制御できる範囲を超えていることを表す。「みやび」に当たる表現は直接にはないが、「好き好きしさ」を当ててもよいのかも知れない。反対は「あだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさ」でこれは本性として好まないが、色好み(好き好きしさ)はもちろん好むのだ。光源氏も二つの力に引き裂かれながらバランスをとる生涯を送ることになる。

忍ぶの乱れ 02004

「伊勢物語」の最大のスキャンダルは伊勢の斎宮との肉体関係であり、それと並ぶタブーは清和天皇の后である藤原高子(たかいこ)との恋愛である。伊勢物語を章ごとに独立した短編として読むのではなく、断片的な続き物として読みを採用するなら、初段に登場する「女はらから」は斎宮や高子の文学的な分身と読むのが自然である。これを源氏物語に置き換えるなら、伊勢物語初段の女性の「女はらから」が空蝉に、斎宮は六条御息所やその娘に、高子は藤壺とパラレルな関係になる。
「女はらから」は「姉妹の二人」の意味と「誰かの姉妹やいとこ」の意味がある。伊勢物語の初段では「女はらから」は前者の意味とされているが、そこに女性が二人いる必然性は全くない。むしろ後者の意味をあてはめるべきで、その誰かが斎宮であり高子と読む方がテキストが重層化して面白いと思うのだがいかがだろうか。詳しくは初段の注釈を参考にされたい。
なお、初段の「女はらから」を姉妹二人と読む解釈は、源氏物語のこの部分を空蝉と軒端荻を当てたことから来ているのではなかろうか。この解釈が間違いであるのは、空蝉に対しては心の乱れはあるものの、軒端荻に対して光源氏はいささかも心を乱してはいない点、これを当てるのは無理がある。繰り返すが、「初段の女ー高子ー斎宮」と「空蝉ー藤壺ー六条御息所」がパラレルなのだ。
さて、左大臣自身は「忍ぶの乱れ」を漠然と案じただけであるが、何度か繰り返してきたように、源氏物語の基本構造である、言葉が先にあってそれが後に現実化する「(言=事)構造」が、ここでも成り立ち、空蝉、藤壺との関係を呼び起こすことになる。
さらに一言加えるなら、藤壺との肉体関係は直接には描きにくい。それを空蝉との関係に移し替えることで、藤壺との関係を間接的に描いているというのが、「忍ぶの乱れ」が貫く「女はらからー高子」ラインから浮かび上がる読みである。藤壺との初夜が描かれていないことから、幻の帖「かかやく日の宮」まで想定されて論じられたりするが、そんな必要は全くないのだ。なお、空蝉は紫のゆかりではないので、「若紫のすりごろも」は直接には当てはまらない、藤壺・紫の上に反映されてゆくのだ。

源氏物語の三種の神器 02004

源氏物語を他に類を見ない日本文学の高みに押し上げている要因として、以下の三点があるように思う。
一、実時間から独自の物語時間を創出した点
竹取物語のように最初から実時間と関わりのない時間ではなく、実時間と同じ時間の流れを物語りに組み込んだ上に、帝に名を与えないままにすることで現在性を保持したこが、憚らずに多くのタブーを描き得る場を作り上げた。
二、「(言=事)構造」
これはギリシャ悲劇など、世界の古典文学には多く見られる手法である。日本の先行作品としては、日本武尊の最期などが挙げられる。
三、間接描写法
長恨歌が当代を諷刺するのに漢の時代に場を移す例などはあるものの、藤壺との濡れ場を空蝉の強姦を通して間接的だが意図して匂わせる手法は古今に絶すると言えよう。

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