原文《桐壺》索引&検索(01001-01183)

2021-04-30

01 桐壺01章(001-006)

01001 いづれの御時にか 女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふ ありけり
01002 はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々 めざましきものにおとしめ嫉みたまふ
01003 同じほど それより下臈の更衣たちは ましてやすからず
01004 朝夕の宮仕へにつけても 人の心をのみ動かし 恨みを負ふ積もりにやありけむ いと篤しくなりゆき もの心細げに里がちなるを いよいよあかずあはれなるものに思ほして 人のそしりをもえ憚らせたまはず 世のためしにもなりぬべき御もてなしなり
01005 上達部・上人などもあいなく目を側めつつ いとまばゆき人の御おぼえなり 唐土にも かかる事の起こりにこそ 世も乱れ 悪しかりけれ と やうやう天の下にもあぢきなう 人のもてなやみぐさになりて 楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに いとはしたなきこと多かれど かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ
01006 父の大納言は亡くなりて 母北の方なむいにしへの人のよしあるにて 親うち具し さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず なにごとの儀式をももてなしたまひけれど とりたててはかばかしき後見しなければ 事ある時は なほ拠り所なく心細げなり


01 桐壺02章(007-023)

01007 先の世にも御契りや深かりけむ 世になく清らなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ
01008 いつしかと心もとながらせたまひて 急ぎ参らせて御覧ずるに めづらかなる稚児の御容貌なり
01009 一の皇子は 右大臣の女御の御腹にて 寄せ重く疑ひなき儲の君と 世にもてかしづききこゆれど この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ おほかたのやむごとなき御思ひにて この君をば 私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし
01010 初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際にはあらざりき
01011 おぼえいとやむごとなく 上衆めかしけれど わりなくまつはさせたまふあまりに さるべき御遊びの折々 何事にもゆゑある事のふしぶしには まづ参う上らせたまふ ある時には大殿籠もり過ぐして やがてさぶらはせたまひなど あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに おのづから軽き方にも見えしを
01012 この御子生まれたまひて後は いと心ことに思ほしおきてたれば 坊にも ようせずは この御子の居たまふべきなめり と 一の皇子の女御は思し疑へり
01013 人より先に参りたまひて やむごとなき御思ひなべてならず 皇女たちなどもおはしませば この御方の御諌めをのみぞ なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける
01014 かしこき御蔭をば頼みきこえながら 落としめ疵を求めたまふ人は多く わが身はか弱くものはかなきありさまにて なかなかなるもの思ひをぞしたまふ
01015 御局は桐壺なり
01016 あまたの御方がたを過ぎさせたまひて ひまなき御前渡りに 人の御心を尽くしたまふも げにことわりと見えたり
01017 参う上りたまふにも あまりうちしきる折々は 打橋 渡殿のここかしこの道に あやしきわざをしつつ 御送り迎への人の衣の裾 堪へがたく まさなきこともあり
01018 またある時には え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ こなたかなた心を合はせて はしたなめわづらはせたまふ時も多かり
01019 事にふれて数知らず苦しきことのみまされば いといたう思ひわびたるを いとどあはれと御覧じて 後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて 上局に賜はす
01020 その恨みましてやらむ方なし
01021 この御子三つになりたまふ年 御袴着のこと一の宮のたてまつりしに劣らず 内蔵寮 納殿の物を尽くして いみじうせさせたまふ
01022 それにつけても 世の誹りのみ多かれど この御子のおよすげもておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを え嫉みあへたまはず
01023 ものの心知りたまふ人は かかる人も世に出でおはするものなりけり と あさましきまで目をおどろかしたまふ


01 桐壺03章(023-035)

01024 その年の夏 御息所 はかなき心地にわづらひて まかでなむとしたまふを 暇さらに許させたまはず
01025 年ごろ 常の篤しさになりたまへれば 御目馴れて なほしばしこころみよ とのみのたまはするに 日々に重りたまひて ただ五六日のほどにいと弱うなれば 母君泣く泣く奏して まかでさせたてまつりたまふ
01026 かかる折にも あるまじき恥もこそと心づかひして 御子をば留めたてまつりて 忍びてぞ出でたまふ
01027 限りあれば さのみもえ留めさせたまはず 御覧じだに送らぬおぼつかなさを 言ふ方なく思ほさる
01028 いとにほひやかにうつくしげなる人の いたう面痩せて いとあはれと ものを思ひしみながら 言に出でても聞こえやらず あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに 来し方行く末思し召されず よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど 御いらへもえ聞こえたまはず まみなどもいとたゆげにて いとどなよなよと 我かの気色にて臥したれば いかさまにと思し召しまどはる
01029 輦車の宣旨などのたまはせても また入らせたまひて さらにえ許させたまはず
01030 限りあらむ道にも 後れ先立たじと 契らせたまひけるを さりとも うち捨てては え行きやらじ とのたまはするを 女もいといみじと見たてまつりて
01031 限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり いとかく思ひたまへましかば と
01032 息も絶えつつ 聞こえまほしげなることはありげなれど いと苦しげにたゆげなれば かくながら ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに 今日始むべき祈りども さるべき人びとうけたまはれる 今宵より と 聞こえ急がせば わりなく思ほしながらまかでさせたまふ
01033 御胸つとふたがりて つゆまどろまれず 明かしかねさせたまふ
01034 御使の行き交ふほどもなきに なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを 夜半うち過ぐるほどになむ 絶えはてたまひぬる とて泣き騒げば 御使もいとあへなくて帰り参りぬ
01035 聞こし召す御心まどひ 何ごとも思し召しわかれず 籠もりおはします


01 桐壺04章(036-049)

01036 御子は かくてもいと御覧ぜまほしけれど かかるほどにさぶらひたまふ例なきことなれば まかでたまひなむとす
01037 何事かあらむとも思したらず さぶらふ人びとの泣きまどひ 主上も御涙のひまなく流れおはしますを あやしと見たてまつりたまへるを よろしきことにだに かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを ましてあはれに言ふかひなし
01038 限りあれば 例の作法にをさめたてまつるを 母北の方 同じ煙にのぼりなむと 泣きこがれたまひて 御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて 愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに おはし着きたる心地 いかばかりかはありけむ
01039 むなしき御骸を見る見る なほおはするものと思ふが いとかひなければ 灰になりたまはむを見たてまつりて 今は亡き人と ひたぶるに思ひなりなむ と さかしうのたまひつれど 車よりも落ちぬべうまろびたまへば さは思ひつかしと 人びともてわづらひきこゆ
01040 内裏より御使あり 『三位の位贈りたまふ』よし 勅使来てその宣命読むなむ 悲しきことなりける
01041 女御とだに言はせずなりぬるが あかず口惜しう思さるれば いま一階の位をだにと 贈らせたまふなりけり
01042 これにつけても憎みたまふ人びと多かり
01043 もの思ひ知りたまふは 様容貌などのめでたかりしこと 心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしことなど 今ぞ思し出づる さま悪しき御もてなしゆゑこそ すげなう嫉みたまひしか
01044 人柄のあはれに 情けありし御心を 主上の女房なども恋ひしのびあへり
01045 なくてぞとは かかる折にやと見えたり
01046 はかなく日ごろ過ぎて 後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ
01047 ほど経るままにせむ方なう悲しう思さるるに 御方がたの御宿直なども絶えてしたまはず ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば 見たてまつる人さへ露けき秋なり
01048 亡きあとまで 人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな とぞ 弘徽殿などにはなほ許しなうのたまひける
01049 一の宮を見たてまつらせたまふにも 若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ 親しき女房 御乳母などを遣はしつつ ありさまを聞こし召す


01 桐壺05章(050-064)

01050 野分立ちて にはかに肌寒き夕暮のほど 常よりも思し出づること多くて 靫負命婦といふを遣はす
01051 夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて やがて眺めおはします
01052 かうやうの折は 御遊びなどせさせたまひしに 心ことなる物の音を掻き鳴らし はかなく聞こえ出づる言の葉も 人よりはことなりしけはひ容貌の 面影につと添ひて思さるるにも 闇の現にはなほ劣りけり
01053 命婦 かしこに参で着きて 門引き入るるより けはひあはれなり
01054 やもめ住みなれど 人一人の御かしづきに とかくつくろひ立てて めやすきほどにて過ぐしたまひつる 闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに 草も高くなり 野分にいとど荒れたる心地して 月影ばかりぞ八重葎にも障はらず差し入りたる
01055 南面に下ろして 母君もとみにえものものたまはず
01056 今までとまりはべるがいと憂きを かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても いと恥づかしうなむ とて げにえ堪ふまじく泣いたまふ
01057 参りては いとど心苦しう 心肝も尽くるやうになむと 典侍の奏したまひしを もの思うたまへ知らぬ心地にも げにこそいと忍びがたうはべりけれ とて ややためらひて 仰せ言伝へきこゆ
01058 しばしは夢かとのみたどられしを やうやう思ひ静まるにしも 覚むべき方なく堪へがたきは いかにすべきわざにかとも 問ひあはすべき人だになきを 忍びては参りたまひなむや
01059 若宮のいとおぼつかなく 露けき中に過ぐしたまふも 心苦しう 思さるるを とく参りたまへ など はかばかしうものたまはせやらず むせかへらせたまひつつ かつは人も心弱く見たてまつるらむと 思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに 承り果てぬやうにてなむ まかではべりぬる とて 御文奉る
01060 目も見えはべらぬに かくかしこき仰せ言を光にてなむ とて 見たまふ
01061 ほど経ばすこしうち紛るることもやと 待ち過ぐす月日に添へて いと忍びがたきはわりなきわざになむ いはけなき人をいかにと思ひやりつつ もろともに育まぬおぼつかなさを 今は なほ昔のかたみになずらへて ものしたまへ など こまやかに書かせたまへり
01062 宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ とあれど え見たまひ果てず
01063 命長さの いとつらう思うたまへ知らるるに 松の思はむことだに 恥づかしう思うたまへはべれば 百敷に行きかひはべらむことは ましていと憚り多くなむ かしこき仰せ言をたびたび承りながら みづからはえなむ思ひたまへたつまじき
01064 若宮は いかに思ほし知るにか 参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめれば ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど うちうちに思うたまふるさまを奏したまへ ゆゆしき身にはべれば かくておはしますも 忌ま忌ましうかたじけなくなむ とのたまふ


01 桐壺06章(065-080)

01065 宮は大殿籠もりにけり
01066 見たてまつりて くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを 待ちおはしますらむに 夜更けはべりぬべし とて急ぐ
01067 暮れまどふ心の闇も堪へがたき 片端をだにはるくばかりに聞こえまほしうはべるを 私にも心のどかにまかでたまへ
01068 年ごろ うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを かかる御消息にて見たてまつる 返す返すつれなき命にもはべるかな
01069 生まれし時より 思ふ心ありし人にて 故大納言 いまはとなるまで ただ この人の宮仕への本意 かならず遂げさせたてまつれ 我れ亡くなりぬとて 口惜しう思ひくづほるなと 返す返す諌めおかれはべりしかば
01070 はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは なかなかなるべきことと思ひたまへながら ただかの遺言を違へじとばかりに 出だし立てはべりしを 身に余るまでの御心ざしのよろづにかたじけなきに 人げなき恥を隠しつつ 交じらひたまふめりつるを 人の嫉み深く積もり 安からぬこと多くなり添ひはべりつるに 横様なるやうにて つひにかくなりはべりぬれば かへりてはつらくなむ かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる
01071 これもわりなき心の闇になむ と 言ひもやらずむせかへりたまふほどに 夜も更けぬ
01072 主上もしかなむ
01073 我が御心ながら あながちに人目おどろくばかり思されしも 長かるまじきなりけりと 今はつらかりける人の契りになむ 世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを ただこの人のゆゑにて あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては かううち捨てられて 心をさめむ方なきに いとど人悪ろうかたくなになり果つるも 前の世ゆかしうなむ とうち返しつつ 御しほたれがちにのみおはします と語りて尽きせず
01074 泣く泣く 夜いたう更けぬれば 今宵過ぐさず 御返り奏せむ と急ぎ参る
01075 月は入り方の 空清う澄みわたれるに 風いと涼しくなりて 草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも いと立ち離れにくき草のもとなり
01076 鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな えも乗りやらず
01077 いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人 かごとも聞こえつべくなむ と言はせたまふ
01078 をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば ただかの御形見にとて かかる用もやと残したまへりける御装束一領 御髪上げの調度めく物添へたまふ
01079 若き人びと 悲しきことはさらにも言はず 内裏わたりを朝夕にならひて いとさうざうしく 主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど
01080 かく忌ま忌ましき身の添ひたてまつらむも いと人聞き憂かるべし また 見たてまつらでしばしもあらむは いとうしろめたう 思ひきこえたまひて すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり


01 桐壺07章(081-105)

01081 命婦は まだ大殿籠もらせたまはざりける と あはれに見たてまつる
01082 御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて 忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて 御物語せさせたまふなりけり
01083 このごろ 明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵 亭子院の描かせたまひて 伊勢 貫之に詠ませたまへる 大和言の葉をも 唐土の詩をも ただその筋をぞ 枕言にせさせたまふ
01084 いとこまやかにありさま問はせたまふ あはれなりつること忍びやかに奏す
01085 御返り御覧ずれば いともかしこきは置き所もはべらず かかる仰せ言につけても かきくらす乱り心地になむ
01086 荒き風ふせぎし蔭の枯れしより小萩がうへぞ静心なき などやうに乱りがはしきを 心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし
01087 いとかうしも見えじと 思し静むれど さらにえ忍びあへさせたまはず 御覧じ初めし年月のことさへかき集め よろづに思し続けられて 時の間もおぼつかなかりしを かくても月日は経にけり と あさましう思し召さる
01088 故大納言の遺言あやまたず 宮仕への本意深くものしたりしよろこびは かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ 言ふかひなしや とうちのたまはせて いとあはれに思しやる
01089 かくても おのづから 若宮など生ひ出でたまはば さるべきついでもありなむ 命長くとこそ思ひ念ぜめ などのたまはす
01090 かの贈り物御覧ぜさす 亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば と思ほすもいとかひなし
01091 尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
01092 絵に描ける楊貴妃の容貌は いみじき絵師といへども 筆限りありければいとにほひ少なし
01093 大液芙蓉未央柳も げに通ひたりし容貌を 唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ なつかしうらうたげなりしを思し出づるに 花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき
01094 朝夕の言種に 翼をならべ 枝を交はさむ と契らせたまひしに かなはざりける命のほどぞ 尽きせず恨めしき
01095 風の音 虫の音につけて もののみ悲しう思さるるに 弘徽殿には 久しく上の御局にも参う上りたまはず 月のおもしろきに 夜更くるまで遊びをぞしたまふなる
01096 いとすさまじう ものしと聞こし召す このごろの御気色を見たてまつる上人 女房などは かたはらいたしと聞きけり
01097 いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて ことにもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし
01098 月も入りぬ 雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらむ浅茅生の宿
01099 思し召しやりつつ 灯火をかかげ尽くして起きおはします
01100 右近の司の宿直奏の声聞こゆるは 丑になりぬるなるべし
01101 人目を思して 夜の御殿に入らせたまひても まどろませたまふことかたし
01102 朝に起きさせたまふとても 明くるも知らで と思し出づるにも なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり
01103 ものなども聞こし召さず 朝餉のけしきばかり触れさせたまひて 大床子の御膳などは いと遥かに思し召したれば 陪膳にさぶらふ限りは 心苦しき御気色を見たてまつり嘆く
01104 すべて 近うさぶらふ限りは 男女 いとわりなきわざかな と言ひ合はせつつ嘆く
01105 さるべき契りこそはおはしましけめ そこらの人の誹り 恨みをも憚らせたまはず この御ことに触れたることをば 道理をも失はせたまひ 今はた かく世の中のことをも 思ほし捨てたるやうになりゆくは いとたいだいしきわざなり と 人の朝廷の例まで引き出で ささめき嘆きけり


01 桐壺08章(106-126)

01106 月日経て 若宮参りたまひぬ
01107 いとどこの世のものならず清らにおよすげたまへれば いとゆゆしう思したり
01108 明くる年の春 坊定まりたまふにも いと引き越さまほしう思せど 御後見すべき人もなく また世のうけひくまじきことなりければ なかなか危く思し憚りて 色にも出ださせたまはずなりぬるを さばかり思したれど 限りこそありけれ と 世人も聞こえ 女御も御心落ちゐたまひぬ
01109 かの御祖母北の方 慰む方なく思し沈みて おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひたまひししるしにや つひに亡せたまひぬれば またこれを悲しび思すこと限りなし
01110 御子六つになりたまふ年なれば このたびは思し知りて恋ひ泣きたまふ
01111 年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを 見たてまつり置く悲しびをなむ 返す返すのたまひける
01112 今は内裏にのみさぶらひたまふ
01113 七つになりたまへば 読書始めなどせさせたまひて 世に知らず聡う賢くおはすれば あまり恐ろしきまで御覧ず
01114 今は誰れも誰れもえ憎みたまはじ 母君なくてだにらうたうしたまへ とて 弘徽殿などにも渡らせたまふ御供には やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ
01115 いみじき武士 仇敵なりとも 見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば えさし放ちたまはず
01116 女皇女たち二ところ この御腹におはしませど なずらひたまふべきだにぞなかりける
01117 御方々も隠れたまはず 今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば いとをかしううちとけぬ遊び種に 誰れも誰れも思ひきこえたまへり
01118 わざとの御学問はさるものにて 琴笛の音にも雲居を響かし すべて言ひ続けば ことごとしう うたてぞなりぬべき人の御さまなりける
01119 そのころ 高麗人の参れる中に かしこき相人ありけるを聞こし召して 宮の内に召さむことは 宇多の帝の御誡めあれば いみじう忍びて この御子を鴻臚館に遣はしたり
01120 御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに 相人驚きて あまたたび傾きあやしぶ
01121 国の親となりて 帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の そなたにて見れば 乱れ憂ふることやあらむ 朝廷の重鎮となりて 天の下を輔くる方にて見れば またその相違ふべし と言ふ
01122 弁も いと才かしこき博士にて 言ひ交はしたることどもなむ いと興ありける
01123 文など作り交はして 今日明日帰り去りなむとするに かくありがたき人に対面したるよろこび かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに 御子もいとあはれなる句を作りたまへるを 限りなうめでたてまつりて いみじき贈り物どもを捧げたてまつる
01124 朝廷よりも多くの物賜はす おのづから事広ごりて 漏らさせたまはねど 春宮の祖父大臣など いかなることにかと思し疑ひてなむありける
01125 帝 かしこき御心に 倭相を仰せて 思しよりにける筋なれば 今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを 相人はまことにかしこかりけり と思して 無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ わが御世もいと定めなきを ただ人にて朝廷の御後見をするなむ 行く先も頼もしげなめること と思し定めて いよいよ道々の才を習はさせたまふ
01126 際ことに賢くて ただ人にはいとあたらしけれど 親王となりたまひなば 世の疑ひ負ひたまひぬべく ものしたまへば 宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも 同じさまに申せば 源氏になしたてまつるべく思しおきてたり


01 桐壺09章(127-140)

01127 年月に添へて 御息所の御ことを思し忘るる折なし
01128 慰むや と さるべき人びと参らせたまへど なずらひに思さるるだにいとかたき世かな と 疎ましうのみよろづに思しなりぬるに 先帝の四の宮の 御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします 母后世になくかしづききこえたまふを 主上にさぶらふ典侍は 先帝の御時の人にて かの宮にも親しう参り馴れたりければ いはけなくおはしましし時より見たてまつり 今もほの見たてまつりて 亡せたまひにし御息所の御容貌に似たまへる人を 三代の宮仕へに伝はりぬるに え見たてまつりつけぬを 后の宮の姫宮こそ いとようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ ありがたき御容貌人になむ と奏しけるに まことにや と 御心とまりて ねむごろに聞こえさせたまひけり
01129 母后 あな恐ろしや 春宮の女御のいとさがなくて 桐壺の更衣の あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう と 思しつつみて すがすがしうも思し立たざりけるほどに 后も亡せたまひぬ
01130 心細きさまにておはしますに ただ わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ と いとねむごろに聞こえさせたまふ
01131 さぶらふ人びと 御後見たち 御兄の兵部卿の親王など かく心細くておはしまさむよりは 内裏住みせさせたまひて 御心も慰むべく など思しなりて 参らせたてまつりたまへり
01132 藤壺と聞こゆ
01133 げに 御容貌ありさま あやしきまでぞおぼえたまへる
01134 これは 人の御際まさりて 思ひなしめでたく 人もえおとしめきこえたまはねば うけばりて飽かぬことなし かれは 人の許しきこえざりしに 御心ざしあやにくなりしぞかし
01135 思し紛るとはなけれど おのづから御心移ろひて こよなう思し慰むやうなるも あはれなるわざなりけり
01136 源氏の君は 御あたり去りたまはぬを ましてしげく渡らせたまふ御方は え恥ぢあへたまはず いづれの御方も われ人に劣らむと思いたるやはある とりどりにいとめでたけれど うち大人びたまへるに いと若ううつくしげにて 切に隠れたまへど おのづから漏り見たてまつる
01137 母御息所も 影だにおぼえたまはぬを いとよう似たまへり と 典侍の聞こえけるを 若き御心地にいとあはれと思ひきこえたまひて 常に参らまほしく なづさひ見たてまつらばや とおぼえたまふ
01138 主上も限りなき御思ひどちにて な疎みたまひそ あやしくよそへきこえつべき心地なむする なめしと思さで らうたくしたまへ つらつき まみなどは いとよう似たりしゆゑ かよひて見えたまふも 似げなからずなむ など聞こえつけたまへれば 幼心地にも はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる
01139 こよなう心寄せきこえたまへれば 弘徽殿の女御 またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ うち添へて もとよりの憎さも立ち出でて ものしと思したり
01140 世にたぐひなしと見たてまつりたまひ 名高うおはする宮の御容貌にも なほ匂はしさはたとへむ方なく うつくしげなるを 世の人 光る君 と聞こゆ 藤壺ならびたまひて 御おぼえもとりどりなれば かかやく日の宮 と聞こゆ


01 桐壺10章(141-183)

01141 この君の御童姿 いと変へまうく思せど 十二にて御元服したまふ
01142 居起ち思しいとなみて 限りある事に事を添へさせたまふ
01143 一年の春宮の御元服 南殿にてありし儀式 よそほしかりし御響きに落とさせたまはず
01144 所々の饗など 内蔵寮 穀倉院など 公事に仕うまつれる おろそかなることもぞと とりわき仰せ言ありて 清らを尽くして仕うまつれり
01145 おはします殿の東の廂 東向きに椅子立てて 冠者の御座 引入の大臣の御座 御前にあり
01146 申の時にて源氏参りたまふ
01147 角髪結ひたまへるつらつき 顔のにほひ さま変へたまはむこと惜しげなり
01148 大蔵卿 蔵人仕うまつる
01149 いと清らなる御髪を削ぐほど 心苦しげなるを 主上は 御息所の見ましかば と 思し出づるに 堪へがたきを 心強く念じかへさせたまふ
01150 かうぶりしたまひて 御休所にまかでたまひて 御衣奉り替へて 下りて拝したてまつりたまふさまに 皆人涙落としたまふ
01151 帝はた ましてえ忍びあへたまはず 思し紛るる折もありつる昔のこと とりかへし悲しく思さる
01152 いとかうきびはなるほどは あげ劣りやと疑はしく思されつるを あさましううつくしげさ添ひたまへり
01153 引入の大臣の皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女 春宮よりも御けしきあるを 思しわづらふことありける この君に奉らむの御心なりけり
01154 内裏にも 御けしき賜はらせたまへりければ さらば この折の後見なかめるを 添ひ臥しにも ともよほさせたまひければ さ思したり
01155 さぶらひにまかでたまひて 人びと大御酒など参るほど 親王たちの御座の末に源氏着きたまへり
01156 大臣気色ばみきこえたまふことあれど もののつつましきほどにて ともかくもあへしらひきこえたまはず
01157 御前より 内侍 宣旨うけたまはり伝へて 大臣参りたまふべき召しあれば 参りたまふ
01158 御禄の物 主上の命婦取りて賜ふ 白き大袿に御衣一領 例のことなり
01159 御盃のついでに
いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや 御心ばへありて おどろかさせたまふ
01160 結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色し褪せずは と奏して 長橋より下りて舞踏したまふ
01161 左馬寮の御馬 蔵人所の鷹据ゑて賜はりたまふ
01162 御階のもとに親王たち上達部つらねて 禄ども品々に賜はりたまふ
01163 その日の御前の折櫃物 籠物など 右大弁なむ承りて仕うまつらせける
01164 屯食 禄の唐櫃どもなど ところせきまで 春宮の御元服の折にも数まされり
01165 なかなか限りもなくいかめしうなむ
01166 その夜 大臣の御里に源氏の君まかでさせたまふ
01167 作法世にめづらしきまで もてかしづききこえたまへり
01168 いときびはにておはしたるを ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり
01169 女君はすこし過ぐしたまへるほどに いと若うおはすれば 似げなく恥づかしと思いたり
01170 この大臣の御おぼえいとやむごとなきに 母宮 内裏の一つ后腹になむおはしければ いづ方につけてもいとはなやかなるに この君さへかくおはし添ひぬれば 春宮の御祖父にて つひに世の中を知りたまふべき右大臣の御勢ひは ものにもあらず圧されたまへり
01171 御子どもあまた腹々にものしたまふ
01172 宮の御腹は 蔵人少将にていと若うをかしきを 右大臣の 御仲はいと好からねど え見過ぐしたまはで かしづきたまふ四の君にあはせたまへり 劣らずもてかしづきたるは あらまほしき御あはひどもになむ
01173 源氏の君は 主上の常に召しまつはせば 心安く里住みもえしたまはず 心のうちには ただ藤壺の御ありさまを 類なしと思ひきこえて さやうならむ人をこそ見め 似る人なくもおはしけるかな 大殿の君 いとをかしげにかしづかれたる人 とは見ゆれど 心にもつかずおぼえたまひて 幼きほどの心 一つにかかりていと苦しきまでぞおはしける
01174 大人になりたまひて後は ありしやうに御簾の内にも入れたまはず
01175 御遊びの折々 琴笛の音に聞こえかよひ ほのかなる御声を慰めにて 内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ
01176 五六日さぶらひたまひて 大殿に二三日など 絶え絶えにまかでたまへど ただ今は幼き御ほどに 罪なく思しなして いとなみかしづききこえたまふ
01177 御方々の人びと 世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりてさぶらはせたまふ
01178 御心につくべき御遊びをし おほなおほな思しいたつく
01179 内裏には もとの淑景舎を御曹司にて 母御息所の御方の人びとまかで散らずさぶらはせたまふ
01180 里の殿は 修理職 内匠寮に宣旨下りて 二なう改め造らせたまふ
01181 もとの木立 山のたたずまひ おもしろき所なりけるを 池の心広くしなして めでたく造りののしる
01182 かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや とのみ 嘆かしう思しわたる
01183 光る君といふ名は 高麗人のめできこえてつけたてまつりける とぞ 言ひ伝へたるとなむ


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