右大臣のいたはりか 帚木01章07
原文 読み 意味
右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は この君もいともの憂くして 好きがましきあだ人なり
02007/難易度:★☆☆
みぎ-の-おとど/の/いたはり/かしづき/たまふ/すみか/は この/きみ/も/いと/ものうく/し/て すきがましき/あだびと/なり
右大臣が大事にお育てなさっている四の宮の住いはこの君も光の君同様ひどく煩わしくて、そのうえ好き者の不実な人である。
文構造&係り受け
主語述語と大構造
- 好きがましきあだ人なり 三次元構造
〈右大臣〉のいたはりかしづきたまふ住み処は この〈君〉もいともの憂くして 好きがましきあだ人なり
助詞と係り受け
右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は この君もいともの憂くして 好きがましきあだ人なり
「この君も」→「もの憂くして」:連用中止法
「好きがましきあだ人なり」:語り手の評
古語探訪
好きがましきあだ人なり 02007:光源氏が誠実で頭中将が女たらしである理由
光源氏は「さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性/02004」とあるので、光源氏と頭中将は女性に対しては正反対の性格が割り当てられている。「好きがましき」は要するに女たらし。「あだ」は「まめ」の反意語、女性に対して不誠実を意味する。何をもって語り手は「好きがましきあだ人」と評するのか、一考を要するであろう。
まず、この文内から考えると、「右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処はこの君もいともの憂くして」が「好きがましきあだ人」の理由であるなら、「この君も」の「も」がまさしく光源氏がそうであるようにの意味を表すのだがら、光源氏も同じく「好きがましきあだ人」となってしまう。それでは二人の性格が同じになってしまうので、そう読むことはできない。すなわち、「この君もいともの憂くして」は中止法で以下に係けない。続いて、「好きがましきあだ人」の理由を探るとして浮かぶのは、頭中将が物語る常夏との実話だが、今でも泣いて娘の行方を案じていることからも決して、「好きがましきあだ人」とは言えない。空蝉・軒端荻の恋からしても、光源氏こそ「好きがましきあだ人」となる。従って、それぞれの実体験をもとに「好きがましきあだ人」と評価されているのではなさそうである。残るは、以下に展開される頭中将の女性観のみであり、これをしも「好きがましきあだ人」と語り手は見ていると受け止めるしかないのである。
なお、この表現は「世の好き者にて物よく言ひとほれる/02030」と評される左馬頭と対をなす。「物よく言ひとほれる」にかかることからもわかる通り、「世の好き者にて」はやはり左馬頭が語る女性観に対する語り手の評価である。左馬頭の物語る実体験も「好き者」の部類かもしれないが、「世の(世に知られた)」と冠するほどではない。頭中将・左馬頭ともに、実話実体験ではなく、この場の女性論にスポットが当てられているのである。常夏や娘の話に焦点が当てられていないからこそ、夕顔や玉鬘として再登場してもあざとく感じないのだ。なお、話が先にあり、現実が後から追いかける、ここでも「(言=事)構造」が見られる。
住み処 02007
妻である四の宮の里である右大臣邸。
この君もいともの憂くして 02007
「この君も」は光君と同様にの意味で「もの憂くして」にかける。「もの憂し」は状況が自分で変えられないことからくる閉塞感。「もの」はやはり動かせなさ、重たさを示す。いずれも奥さんが気位が高く馴染めない点で同じである。