02帚木07 指を喰う女

2020-05-23

帚木 原文 02-094/02-116

094はやう まだいと下臈にはべりし時 あはれと思ふ人はべりき 095聞こえさせつるやうに 容貌などいとまほにもはべらざりしかば 若きほどの好き心には この人をとまりにとも思ひとどめはべらず 096よるべとは思ひながら さうざうしくて とかく紛れはべりしを もの怨じをいたくしはべりしかば 心づきなく いとかからでおいらかならましかばと思ひつつ あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて かく数ならぬ身を見も放たで などかくしも思ふらむと 心苦しき折々もはべりて 自然に心をさめらるるやうになむはべりし 097この女のあるやう もとより思ひいたらざりけることにも いかでこの人のためにはと なき手を出だし 後れたる筋の心をも なほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ とにかくにつけて ものまめやかに後見 つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに 進める方と思ひしかど とかくになびきてなよびゆき 醜き容貌をも この人に見や疎まれむと わりなく思ひつくろひ 疎き人に見えば 面伏せにや思はむと 憚り恥ぢて みさをにもてつけて見馴るるままに 心もけしうはあらずはべりしかど ただこの憎き方一つなむ 心をさめずはべりし 098そのかみ思ひはべりしやう かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり いかで懲るばかりのわざして おどして この方もすこしよろしくもなり さがなさもやめむと思ひて まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て ことさらに情けなくつれなきさまを見せて 例の腹立ち怨ずるに 099かくおぞましくは いみじき契り深くとも 絶えてまた見じ 限りと思はば かくわりなきもの疑ひはせよ 行く先長く見えむと思はば つらきことありとも 念じてなのめに思ひなりて かかる心だに失せなば いとあはれとなむ思ふべき 人並々にもなり すこしおとなびむに添へて また並ぶ人なくあるべきやうなど かしこく教へたつるかなと思ひたまへて われたけく言ひそしはべるに 100すこしうち笑ひて よろづに見立てなく ものげなきほどを見過ぐして 人数なる世もやと待つ方は いとのどかに思ひなされて 心やましくもあらず つらき心を忍びて 思ひ直らむ折を見つけむと 年月を重ねむあいな頼みは いと苦しくなむあるべければ かたみに背きぬべききざみになむある とねたげに言ふに 101腹立たしくなりて 憎げなることどもを言ひはげましはべるに 女もえをさめぬ筋にて 指ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを おどろおどろしくかこちて かかる疵さへつきぬれば いよいよ交じらひをすべきにもあらず 辱めたまふめる官位 いとどしく何につけてかは人めかむ 世を背きぬべき身なめりなど言ひ脅して さらば 今日こそは限りなめれと この指をかがめてまかでぬ
 102手を折りてあひ見しことを数ふればこれひとつやは君が憂きふし
えうらみじなど言ひはべれば
 103さすがにうち泣きて 憂きふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべきをり など 104言ひしろひはべりしかど まことには変るべきこととも思ひたまへずながら 日ごろ経るまで消息も遣はさず あくがれまかり歩くに 105臨時の祭の調楽に 夜更けていみじう霙降る夜 これかれまかりあかるる所にて 思ひめぐらせば なほ家路と思はむ方はまたなかりけり 106内裏わたりの旅寝すさまじかるべく 気色ばめるあたりはそぞろ寒くや と思ひたまへられしかば いかが思へると 気色も見がてら 雪をうち払ひつつ 107なま人悪ろく爪喰はるれど さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ と思うたまへしに 火ほのかに壁に背け 萎えたる衣どもの厚肥えたる 大いなる籠にうち掛けて 引き上ぐべきものの帷子などうち上げて 108今宵ばかりやと 待ちけるさまなり さればよと心おごりするに 正身はなし 109さるべき女房どもばかりとまりて 親の家に この夜さりなむ渡りぬると答へはべり 110艶なる歌も詠まず 気色ばめる消息もせで いとひたや籠もりに情けなかりしかば あへなき心地して さがなく許しなかりしも 我を疎みねと思ふ方の心やありけむと さしも見たまへざりしことなれど 心やましきままに思ひはべりしに 111着るべき物 常よりも心とどめたる色あひ しざまいとあらまほしくて さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ 思ひやり後見たりし 112さりとも 絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて とかく言ひはべりしを 背きもせずと 尋ねまどはさむとも隠れ忍びず かかやかしからず答へつつ ただ ありしながらは えなむ見過ぐすまじき あらためてのどかに思ひならばなむ あひ見るべきなど言ひしを 113さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば しばし懲らさむの心にて しかあらためむとも言はず いたく綱引きて見せしあひだに いといたく思ひ嘆きて はかなくなりはべりにしかば 戯れにくくなむおぼえはべりし 114ひとへにうち頼みたらむ方は さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる はかなきあだ事をもまことの大事をも 言ひあはせたるにかひなからず 龍田姫と言はむにもつきなからず 織女の手にも劣るまじく その方も具して うるさくなむはべりし とて いとあはれと思ひ出でたり 115中将 その織女の裁ち縫ふ方をのどめて 長き契りにぞあえまし げに その龍田姫の錦には またしくものあらじ はかなき花紅葉といふも をりふしの色あひつきなく はかばかしからぬは 露のはえなく消えぬるわざなり 116さあるにより 難き世とは 定めかねたるぞや と言ひはやしたまふ

帚木 原文かな 02-094/02-116

イ:や行の「い」/エ:や行の「え」

はやう まだいとげらふにはべりしとき あはれとおもふひとはべりき きこエさせつるやうに かたちなどいとまほにもはべらざりしかば わかきほどのすき-ごころには このひとをとまりにともおもひとどめはべらず よるべとはおもひながら さうざうしくて とかくまぎれはべりしを ものゑんじをいたくしはべりしかば こころづきなく いとかからで おイらかならましかばとおもひつつ あまりいとゆるしなくうたがひはべりしもうるさくて かくかずならぬみをみもはなたで などかくしもおもふらむと こころぐるしきをりをりもはべりて じねんにこころをさめらるるやうになむはべりし このをむなのあるやう もとよりおもひいたらざりけることにも いかでこのひとのためにはと なきてをいだし おくれたるすぢのこころをも なほくちをしくはみエじとおもひはげみつつ とにかくにつけて ものまめやかにうしろみ つゆにてもこころにたがふことはなくもがなとおもへりしほどに すすめるかたとおもひしかど とかくになびきてなよびゆき みにくきかたちをも このひとにみやうとまれむと わりなくおもひつくろひ うときひとにみエば おもてぶせにやおもはむと はばかりはぢて みさをにもて-つけてみなるるままに こころもけしうはあらずはべりしかど ただこのにくきかたひとつなむ こころをさめずはべりし そのかみおもひはべりしやう かうあながちにしたがひおぢたるひとなめり いかでこるばかりのわざして おどして このかたもすこしよろしくもなり さがなさもやめむとおもひて まことにうしなどもおもひてたエぬべきけしきならば かばかりわれにしたがふこころならばおもひこりなむとおもうたまへえて ことさらになさけなくつれなきさまをみせて れいのはらだちゑんずるに かくおぞましくは いみじきちぎりふかくとも たエてまたみじ かぎりとおもはば かくわりなきもの-うたがひはせよ ゆくさきながくみエむとおもはば つらきことありとも ねんじてなのめにおもひなりて かかるこころだにうせなば いとあはれとなむおもふべき ひと-なみなみにもなり すこしおとなびむにそへて またならぶひとなくあるべき やうなど かしこくをしへたつるかなとおもひたまへて われたけくいひそしはべるに すこしうち-われひて よろづにみだてなく ものげなきほどをみすぐして ひとかずなるよもやとまつかたは いとのどかにおもひなされて こころやましくもあらず つらきこころをしのびて おもひなほらむをりをみつけむと としつきをかさねむあいなだのみは いとくるしくなむあるべければ かたみにそむきぬべききざみになむある とねたげにいふに はらだたしくなりて にくげなること-どもをいひはげましはべるに をむなもえをさめぬすぢにて およびひとつをひきよせてくひてはべりしを おどろおどろしくかこちて かかるきずさへつきぬれば いよいよまじらひをすべきにもあらず はづかしめたまふめるつかさくらゐ いとどしくなににつけてかはひとめかむ よをそむきぬべきみなめり などいひおどして さらば けふこそはかぎりなめれと このおよびをかがめてまかでぬ
てををりてあひみしことをかぞふればこれひとつやはきみがうきふし
えうらみじなどいひはべれば さすがにうち-なきて
うきふしをこころひとつにかぞへきてこやきみがてをわかるべきをり
など いひしろひはべりしかど まことにはかはるべきことともおもひたまへずながら ひごろふるまでせうそこもつかはさず あくがれまかりありくに りんじのまつりのでうがくに よふけていみじうみぞれふるよ これかれまかりあかるるところにて おもひめぐらせば なほいへぢとおもはむかたはまたなかりけり うちわたりのたびねすさまじかるべく けしきばめるあたりはそぞろさむくや とおもひたまへられしかば いかがおもへると けしきもみがてらゆきをうち-はらひつつ なま-ひとわろくつめくはるれど さりともこよひひごろのうらみはとけなむ とおもうたまへしに ひほのかにかべにそむけ なエたるきぬ-どものあつごエたる おほいなるこにうち-かけて ひきあぐべきもののかたびらなどうち-あげて こよひばかりやと まちけるさまなり さればよと こころおごりするに さうじみはなし さるべきにようばう-どもばかりとまりて おやのいへに このよさりなむわたりぬる とこたへはべり えんなるうたもよまず けしきばめるせうそこもせで いとひたやごもりになさけなかりしかば あへなきここちして さがなくゆるしなかりしも われをうとみねとおもふかたのこころやありけむと さしもみたまへざりしことなれど こころやましきままにおもひはべりしに きるべきもの つねよりもこころとどめたるいろあひ しざまいとあらまほしくて さすがにわがみすててむのちをさへなむ おもひやりうしろみたりし さりとも たエておもひはなつやうはあらじとおもうたまへて とかくいひはべりしを そむきもせずと たづねまどはさむともかくれしのびず かかやかしからずいらへつつ ただ ありしながらは えなむみすぐすまじき あらためてのどかにおもひならばなむ あひみるべき などいひしを さりともえおもひはなれじとおもひたまへしかば しばしこらさむのこころにて しかあらためむともいはず いたくつなびきてみせしあひだに いといたくおもひなげきて はかなくなりはべりにしかば たはぶれにくくなむおぼエはべりし ひとへにうち-たのみたらむかたは さばかりにてありぬべくなむおもひたまへいでらるる はかなきあだごとをもまことのだいじをも いひあはせたるにかひなからず たつたひめといはむにもつきなからず たなばたのてにもおとるまじくそのかたもぐして うるさくなむはべりし とて いとあはれとおもひいでたり ちうじやう そのたなばたのたちぬふかたをのどめて ながきちぎりにぞあエまし げに そのたつたひめのにしきには またしくものあらじ はかなきはなもみぢといふも をりふしのいろあひつきなく はかばかしからぬは つゆのはエなくきエぬるわざなり さあるにより かたきよとはさだめかねたるぞや と いひはやしたまふ

帚木 現代語訳 02-094/02-116

(左馬頭)ずいぶん以前、まだほんの下﨟の分際でございました時、いとしいと思う女がございました。最前申しあげましたとおり、容貌など特に優れてもおりませんでしたので、若い時分の好き心にはこの女を生涯の伴侶にとはまだ思い決めておりませんで、頼みの女とは思いながら物足りなくて、とかくほかのおなごで気を紛らせておりましたところ、何かにつけ悋気をひどくいたすものですから、情も移らずまったくそんな風でなくおおらかでいてくれたらと願いつつも、あまりに容赦のない疑りを受けるのも煩わしくて、こんなつまらぬ身に愛想もつかさずこうまで思い入れをするものだと、気の毒になる折々もございまして、自然と浮気心を治められるようになりました。この女のやり方は、もともと、考え至らなかったことでも、どうかしてこの人のためにはと手を尽くすし、人に劣ることでも肝心な点だけは何とかがっかりさせぬよう心して励んだりと、なにかにつけ誠実そのものといった世話焼きをし、いささかも夫の心に違うことがないようにと思っている様子からすると勝ち気な女だと思っておりましたが、何かとこちらの意のままになびく様子であったし、醜い容貌にしてもこの人に見られたら疎まれてしまうのではないかとひどく恐れて化粧をし、醜さに鈍感な女だと人に思われては夫の面目をつぶすのではないかと一歩さがって遠慮するなど、妻の分を堅く守り努める様子を慣れ親しんでいくうちに愛情も相応にわいて来もしましたが、ただこのにっくきあの一点だけは我慢がなりませんでした。その当初思いましたことには、こうもむやみに従順で怯えてばかりいる女のようだ、何とか懲りごりする目をみせ脅しつけて、例の方面でもすこしましにもなり口やかましいのも直してやろうと、本当にうんざりだとでも思って金輪際縁切りだと素振りを示せば、これほど自分に従う気持ちがあるならきっと思い懲りるだろうと思い至り、ことさらに容赦なくつれない様子を見せますと、例によって腹立ち恨みたてるのに乗じて、こうも感情を露わにするのでは、たとえ夫婦の宿縁が深くてもこれを最後にもう逢うまい。これぎりと思うならこうも理不尽な邪推をしていろ。行く先長く連れ添ってもらいたいなら、恨めしいことがあってもじっとこらえて男にはありがちなことだと自制して、こんなひがみさえなくなればどんなにいとしく思えることか。私が人並みにも出世し、すこし貫禄でも出ようなら、正妻たるそなたに並ぶ女などいはしないのだからなどと、みごと諭しおおせたと思いながらいい気になってまくし立てておりますと、女は薄笑いをうかべて、何事につけ見栄えせずぱっとしない間を見過ごして人並みに出世する時もあろうかと待つ分には、たいそう悠長にかまえられて心苦しくもありませんでした。辛気な思いをじっとこらえて浮気の性の思い直る時がくるのを見届けようと年月を重ねてゆく当てどないそら頼みは、ひどく苦しいものでしょうから、もうお互い別れ別れになる汐時でしょう、といまいましげに言うので、腹立たしくなって憎まれ口をさんざ言いつのりましたところ、女もどうして納まらないたちで私の指を一本引き寄せ食いつきましたので、大げさにいたがりこれを口実にして、こんな傷までつけられては、いよいよ出仕するわけにもまいかぬ。よくもばかにしてくれた官位もますますもってどうあがけば人並みになれようか。世を捨てるよりない身だろうよなど言い脅して、では、今日こそはもう仕舞いだね」と、噛まれた指を痛そうに曲げたまま表へ出たものです。 指を折り二人で過ごした思い出を数えてみるとこの一回切りだったろうか、あなたのことでつらい目を見たのは 別れることになってもよもや恨んだりはできまいね、など言ってやりましたところ、女はさすがに泣き出して、 つらい思いを心ひとつにしまってきました、今度こそ君と手を切りしまいにすべき折りです などと歌で応戦し合いましたが、本当のところ二人の関係は以前となに変わることもなかろうと思いながら、日かずが過ぎるまで便りもやらずあちこちの女のもとへ浮かれ歩いている頃のこと、賀茂神社の臨時祭の舞楽稽古日で夜更けてたいそうみぞれが降った夜、仲間があちらこちらと別れ別れになる門口で思いめぐらしてみると、やはり最後に帰り着く家と思う場所はよそにはないのでした。宮中の仮寝は心も寒々と思われようし、すぐに激情する女のあたりはさぞや見所があろうと思えましたので、今夜の雪をどう思っているだろうかと一面の銀世界を満喫しがてら雪を払いつつ行きますと、なんだかばつが悪く照れくさくはあるものの、それでもこうして雪をおかして訪ねるからには今夜こそは日ごろの恨みも消え失せようと思われて中に入りますと、灯りはほの暗いように壁に向け、着なじんで柔らかな厚手の綿入れを大きな伏籠にうちかけ香りをうつし、上げておくべき帷子などは片付けて、今宵ばかりはきっと訪れがあろうと私を待ち受けている様子なのです。思った通りだと心おごりしたものの、当人はもぬけのから。留守役を任された女房たちだけが居残っていて、親ごさまのおうちに夜分にわざわざ出て行かれました、との答えです。こちらの気を引く思わせぶりな恋歌も詠まず心のままに恨みを綴った手紙も残さず、まったく取り付く島のない愛情のなさには、やるかたない思いがして、あんなに口やかましく情け容赦がなかったのも自分を捨ててほしいとの本心からだったのかと、そんなふうに考えたことはこれまでなかったことながら、腹立ちまぎれに疑ってかかったものですが、身につける衣服もいつもより心のこもるもので色合いも仕立てもまったく申し分なく、さすがに私がいつ見捨てるかしれぬようになった後でさえこちらのことを思いやり世話をしてくれたのでした。こんな状態にありながらも決して向うから見放すような真似はすまいと思いまして何だかんだと責め立てましたが、きっぱり別れるでもなく尋ねあぐねて困るように姿をくらますでもなく、こちらの面子をつぶさぬ程度に応じながら、ただ、以前のままではとても見過ごすことはできません。浮気な心を改め落ち着いた気持ちにおなりなら一緒になりましょう、などと言いましたのを、それでも私のことを思い捨てまいと思いましたので、しばらく懲らしめておこうとの気持ちから、そなたの言うとおり改めようとも言わずかたくなに逆らってみているあいだに、心底ひどく苦しみ嘆いてはかなく亡くなってしまいましたので、うっかり芝居をうったりするものではないと身につまされ心底会いたくなったことです。ひたすら信をおこうと思う伴侶としては、こんな風であってほしいとこの女のことがつい思い出されたのです。ちょっとした私的なことでもまことの大事でも相談すればしがいがあり、着物を染め上げる腕前は竜田姫といってもおかしくないし、仕立ての腕はたなばた姫の手にも劣らないくらいでであってほしいけれど、ただ例の性格も備わって全くご立派でしたと言って、左馬頭はひどく愛しそうに思い出すのでした。頭中将は、その七夕姫の裁ったり繕ったりする方面をほどほどにして彦星との長き契りにあやかればよかったね。まったく竜田姫の錦とあっては他に比較できる代物はないだろうが、この世のものである花紅葉にたとえてみても、時節時節の色合いが周りと調和せず、それでいてくっきりと目立つ美質がないようでは、夫の愛情という露を受けて女は魅力の色を増すことなく消えてしまう道理なのだ。そうだからこそ、男女の仲はこうだと決めかねるのだ、と言葉を添えて場を盛り立てる。

帚木 注釈 02-094/02-116

下臈 02-094

官位の低い身分。

あはれ 02-094

愛情をもつこと。「あはれと思ふ人はべりき」は、女に対する総括であり、このエピソードの結びである「いとあはれと思ひ出でたり/02-014」と対応する。以下に続くその時々の左馬頭の行動から見ると、女が生きている間には愛情はそれほど深くはなかったと思われるので、思い返すと惜しいことをしたというニュアンスを感じざるを得ない。

聞こえさせつる 02-095

聞き手の耳にすでにお入れした。謙譲語。最後には妻選びの条件から外す( /02-062)ことになるが、頭中将が容貌を始終気にしていたのに対して、左馬頭は最初から容貌を求めていなかった。しかし、すでに耳に入れたという表現と直接関わる言葉は見出せない。

まほ 02-095

すぐれている。整っている。

とまり 02-095

浮気でなく、最終的に生涯連れ添う相手。本妻。

02-096
◇ 「とかく紛れはべりしを」→「心をさめらるるやうになむはべりし」:大構造 
◇ 「心づきなく」「いとかからでおいらかならましかば(と)/並列)→「思ひつつ」→「うるさくて」「心苦しき折々もはべりて/並列) 
◇ 「うるさくて」「心苦しき折々もはべりて」:逆接

よるべ 02-096

(経済的に)頼みとする相手。貴族の生活は基本的に妻の実家が支えた。

さうざうしく 02-096

相手が物足りない。

紛れ 02-096

浮気をする。

もの怨じ 02-096

はげしい嫉妬。「もの」は左馬頭の理解を超え、意思疎通できない感覚。

心づきなく 02-096

愛情がわかない。

かからで 02-096

このように嫉妬心が強くなくて。

おいらか 02-096

おだやか。

ならましかば 02-096

願望。

思ひつつ 02-096

気性が和らげばいいのにと思いながら、容赦のない嫉妬を煩わしく思う一方で、身分も低いのにうち捨てずに、そうまで思ってくれながら浮気をつづけていることに対して、申し訳なく思うことも折々にあって。愛情がわかず、嫉妬がやわらげばという希望はそのまま持ち越されていることに注意したい。

許しなく 02-096

容赦なく。

うるさく 02-096

繰り返されることに対して煩わしい。うるさいけれど、心苦しい折もあったのでと続く。

数ならぬ身 02-096

高貴でもない身分。

見も放たで 02-096

見放しもせずに。

などかくしも思ふらむと 02-096

どうしてこんなふうに愛情を注ぐのだろうかと。「かくしも」は「あまりいと許しなく疑ひはべりし」ほどに。容赦のない責めは煩わしい一方で、その真剣さが愛情の表れと感じられるのである。

心苦しき 02-096

相手にすまないことをしたという感情。

心をさめらるる 02-096

文章構造として「心をさめらるる」が受けるのは「とかく紛れはべりしを」である。浮気心を抑えるだけの自制心が働くようになった。「おいらかならましかばと思ひつつ」を受けることができそうだが、そう解釈すると「とかく紛れはべりしを」が行き先を失うので、文章構造上この解釈は成り立たない。浮気心は治められたが、嫉妬心がやわらいでほしいという願望は治められたわけではない。

02-097
◇ 「ただこの憎き方一つなむ心をさめずはべりし」:大構造 
◇ 「この女のあるやう、もとより、…進める方と思ひしかど」:一見するとそのように見える行動原理 
◇ 「もとより」→「進める方と思ひしかど」 
◇ 「醜き容貌をもこの人に見や疎まれむとわりなく思ひつくろひ」「疎き人に見えば面伏せにや思はむと憚り恥ぢて」:対の表現

あるやう 02-097

あり方、生き方、振る舞い方、行動原理。性格などより動的。ただし様子だから、外から見た判断。

もとより 02-097

もともとから、はじめから、元来が(相手になびく)。

思ひいたらざりけること 02-097

配慮が行き届かないこと。

なき手を出だし 02-097

手を尽くす。

後れたる筋 02-097

不得手な面。

心 02-097

本質。気持ちや性格の意味ではない。

口惜しく 02-097

期待が外れてがっかりさせる。

もがな 02-097

そうでありたいという願望。

思へりしほどに 02-097

そのように思えるくらいに。

進める方 02-097

意味が特定できないが、「とかくになびきてなよびゆき」に対比されていることから、前に出たがる、積極的な、勝気なといった感じだろう。「もの怨じをいたくしはべりしかば /02-096」から、印象としてそう感じていた。しかし、元来は従順であったので、強い態度に出れば、嫉妬心を引っ込めるだろうと、左馬頭は算段したのである。

なびき 02-097

夫の意思に添う。

なよび 02-097

ものやわらかな、柔和な態度。

見や疎まれむ 02-097

「見疎まれむや」の変形。「見」は「見ゆ/「見る」の受け身)の連用形。見られたら疎まれるだろう。「や」は詠嘆の間助詞。

わりなく思ひつくろひ 02-097

「わりなくつくろひ」ではない。疎まれたりしたらとてもつらいと思って化粧し。

疎き人に見えば 02-097

疎遠な人に顔を見られたらと通例は解釈されているが、行動様式が「もとより思ひいたらざりけること」と「後れたる筋の心」の二段階(気持ちと実際の行動)に分かれていたことと対照をなす表現。ここも気持ち「憚り恥ぢ」と行動「わりなく思ひつくろひ」に分かれると考える。醜さに対して疎い女だと見られては。こうしたことに対する妻としての心得がないと、お付きの女房たちが陰口をたたき、家の統制がとれなくなる。疎遠な(縁故でない)人に顔を見られるというのは、通常の女性の意識であって、ここでわざわざとりあげることではない。

面伏せ 02-097

夫である左馬頭の体面に傷をつける。

憚り恥ぢて 02-097

「憚る」は「阻む」と同根、障害物があって前に進めない状態。ここでは気持ちの上で一歩引くこと、前に出ないこと。

みさをに 02-097

堅く守ること。変えないこと。

もてつけ 02-097

努力する。

心もけしうはあらず 02-097

女の気立ても悪くないと解釈されているが、これ以上の気立てを探すのは不可能であろう。ここは「もの怨じをいたくしはべりしかば心づきなく/02-096」であったのが、女に対する愛情もそこそこ沸いてきたことをいう。

この憎き方 02-097

嫉妬心。

心をさめず 02-097

がまんならない。「とかく紛れはべりしを…自然に心をさめらるるやうになむはべりし」と対をなす表現。容貌がよくない点で浮気に走ったが、地位の低い自分を見捨てずに愛情をそそいでくれることから、浮気心はおさまったとするのが前文/02-096。女の涙ぐましい努力にほだされ、女の心持ちをもまんざらではないと愛情が芽生えてきた。しかし、従順ながらも女の嫉妬心だけはどうにも我慢ができなかった。これを何とかしようというのが、これ以降の話。「心をさめず」の主体は夫である左馬頭。

02-098
◇ 「そのかみ思ひはべりしやう…さがなさもやめむと思ひ(て)」:行動を起こす以前から考えていた内容
◇ 「まことに憂しなども…思うたまへ得て」:行動を起こす時点で思い至った内容

そのかみ 02-098

その当時、それ以前に。

かうあながちに従ひ怖ぢたる 02-098

「かう」が何を指すか。「あながちに従ひ」に関しては「とかくになびきてなよびゆき/02-97」に見られる。「(あながちに)怖ぢたる」に関しては明瞭でないが、左馬頭に疎まれることをひどく恐れている「(この人に見や疎まれむと)わりなく思ひ/02-097」に表れている。

この方 02-098

嫉妬。

さがなさ 02-098

口さがなさ。「あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて/02-096」とある。

やめむ 02-098

(下二段・他動詞)やめさせよう。

憂し 02-098

ひどくつらい。

思うたまへ得て 02-098

思いついて。

つれなきさまを見せて 02-098

つれない様子を見せたところ

例の腹立ち怨ずるに 02-098

どのように女が腹立ち怨じたかは具体的に述べない省略法。左馬頭の思惑通りに進んでいるスピード感が生まれる。

02-099
◇ 「おぞましくは」「限りと思はば」「見えむと思はば」「失せなば」と仮定を畳みかけることで、反論を許さず、左馬頭のテンションは上がる一方。

おぞまし 02-099

激しい感情。

くは 02-099

仮定条件。このように感情を剥き出しにするのであれば。

いみじき契り 02-099

宿縁。運命によって導かれた強い夫婦仲。

限りと思はば 02-099

これを限りと思うなら。

わりなき 02-099

道理をこえた、異常な。

つらきこと 02-099

男の浮気によるつらいこと。

見えむ 02-099

「見ゆ」+「む」。結婚生活を続けてもらう。「見ゆ」は受け身で、男に見られる状況はすなわち、結婚することを意味する。生活費は女が捻出しながら、結婚してもらうという受け身表現になるところが、現代感覚とはズレるので注意したい。

念じて 02-099

我慢して。

なのめに思ひなりて 02-099

形容詞・形容動詞の連用形+「思ふ」。「なのめなり」と思って。「なのめ」はよくあること、普通のこと。「思ひなり」はそのように思うように努める。自ら制御すること。即ち、感情を爆発させるような特別なことではなく、男にはありがちなことだと思うように努めよ、と言いたい。

かかる心だに失せなばいとあはれとなむ思ふべき 02-099

左馬頭はこの段階でも「いとあはれ」とは思っていない。女に対する愛情表現を拾うと「心づきなく(愛情がわかず)/02-096」「心もけしうはあらずはべりしかど(愛情もかなり沸いてきましたが)/02-097」となる。女を失ったあとに「(いと)あはれ」に変わるのである。

おとなびむ 02-099

「おとなぶ」+「む」。「おとなぶ」は成人するの意味もあるが、ここでは年齢が進み、それ相応の社会的地位を得ることを意味しよう。

添へて 02-099

それにしたがって。夫の地位が増せば、それに併せて妻の社会的地位も向上する。家をささえる女房や随身など住み込む人数も増える。現代の家族構成とは異なる点に注意。

並ぶ人なき 02-099

正妻の座を得て、押しも押されぬ立場になる。

かしこく 02-099

恐れ入らせるように。

教へたつる 02-099

教え込む。

たけく 02-099

たけだけしく。

言ひそし 02-099

度を超えて強く言う。「そす」の漢字表記は「過す」。

02-100
◇ 「すこしうち笑ひて」→「(と)ねたげに言ふに」
◇ 「よろづに見立てなく…心やましくもあらず」「つらき心を忍びて…いと苦しくなむあるべけれ(ば)」:対の表現
◇ 男は今に出世するから浮気を見過ごせという論法、女は出世は期待していないし、浮気を見過ごすくらいなら別れようという論法。

うち笑ひて 02-100

薄気味悪く笑うこと。女は反論するのを待ち構えていた。

見立てなく 02-100

見栄えがしない。ぱっとしない。

ものげなき 02-100

何ほどのものでもない。「もの」のようなどっしりとした存在感がない。

ほど 02-100

期間。

見過ぐし 02-100

大目に見る。

人数なる 02-100

人並みになる。「すこしおとなびむ(ある程度の社会的地位を得る)/02-099」ことまでは、女は期待していない。なかなかに手厳しい一語。

いとのどかに思ひなされて 02-100

たいそうのびやかに腹も立たずにいられたが。「思ひなす」は心を決める。左馬頭の発言「なのめに思ひなりて/02-099」を受けた表現。男が浮気をありふれたことだと思えと言ったのを受け、体裁の上がらぬ男が出世できないのはありふれたことだとのんびり構えていたと切り返す。

心やましく 02-100

もどかしく思う。

つらき心を忍んで 02-100

嫉妬で苦しむ心を我慢して。左馬頭の発言「つらきことありとも念じて/02-099」を受けた表現。

あいな頼み 02-100

空頼み。

かたみに 02-100

お互いに。

背き 02-100

そっぽを向く、即ち、別れる。

きざみ 02-100

時刻。頃合い。

ねたげ 02-100

いまいましげに。憎々しげに。

言ひはげまし 02-101

自分の言葉に激してますます言い募ること。

をさめぬ 02-101

我慢する。自制する。

筋 02-101

そういう性状、性質、たち。

おどろおどろしく 02-101

大袈裟に。

かこち 02-101

口実にする。

交じらひ 02-101

宮仕え。

いとどしく 02-101

ますます。

人めかむ 02-101

「人めく」+「む」。人と同じようになる、人並みになる。要するに出世する。

世を背き 02-101

出家する。

02-102
◇ 「ふし」:指の節と、時期の意味の節目をかける掛詞。
◇ 「ふし」「指」:縁語。
◇ 指は雅語ではないので、歌に滑稽味を帯びる。「手を折りてあひ見しことを数ふれば十(とを)といひつつ四(よつ)は経にけり/伊勢物語十六段)の上の句をそのまま取る。

あひ見し 02-102

男女が情を交わし合うことだが、結婚生活と考えてよい。ただし、通い婚だから、一緒に暮らしてはいない。

これひとつやは君がうきふし 02-102

諸注は「これひとつ」は「指食い」と同時に嫉妬心を指すと考え、嫉妬心だけでなく女は欠点が一つですまないと考えているが、そうではない。「この女のあるやう/02-097」で始まる個所は、嫉妬心以外の欠点はそれなりにうまく繕う女という設定であった。「これひとつ」は指食いのみを受け、「おまえの嫉妬心で悩ませられたのは、指を噛まれた今回だけではないのだ」との意味である。何度も嫉妬心で嫌な思いしたから別れを切り出すのだ。むろん別れはポーズである。嫉妬心を和らげることが目的なのだから、嫉妬心以外を非難する意味はない。嫉妬心だけで十分手を焼いていたのだから、他にも欠点が多いのであれば、とっくに見切りをつけていることだろう。なおまた、手を折って逢瀬を重ねてきた過去を振り返るのであり、そこで問題にしているのは数、すなわち今回一回切りの問題なのかそうでなく何度もなのかが焦点。欠点は嫉妬ひとつだか、これに難度も悩まされてきたことを問題にしているのだ。

えうらみじ 02-102

「うらみじ」なら私は恨まないでおこうとも、女は恨まないだろうとも解釈できる。「さすがにうち泣きて」との続きとしては、私は恨まないとした方がよいが、そもそもこのエピソードは女の嫉妬がテーマである。よって主体は女とすべきである。それでこそ「さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ/02-107」が生きる。「え…じ」はよもや…できないだろう、完全には仕切れないだろう。「恨む」はマ行上二段活用で他動詞、女は私を恨むことは決してないだろうの意味。

02-103
◇ 「うち泣きて」→「など」
◇ 「ふし」「手」:縁語

さすがに 02-103

女の方から「かたみに背きぬべききざみになむある/02-100」と別れを切り出したのだが、いざ男が歌を詠み、それが売り言葉に買い言葉の域を脱して、霊的レベルで約束するとなると、女の方もさすがに感極まって。歌を詠むことは言葉に自らの思いを言霊に乗せて相手に伝えることであり、受け取った側もそれを口に出して読むことで、言霊に乗った思いを受け入れ自らの魂を震わせることになる。歌を詠み合うというのは、精神の交流であり、それによって別れを伝えることは精神的にも別れを意味する。

憂きふしを心ひとつに数へきて 02-103

節目節目で辛い時期があったけれど、それを口には出さず、心ひとつに納めてきましたが。

こや 02-103

これこそは。

02-104
◇ 「あくがれまかり歩くに」→「思ひめぐらせば /02 -105」

言ひしろひ 02-104

言い合う。歌で応戦しあう。

まことには変るべきこととも思ひたまへず 02-104

こんなことぐらいでは、二人の関係は変わることも思えなかった。

あくがれまかり歩く 02-104

よその女のもとへ転々とする。「まかり歩く」は聞き手に対する敬意と考え、丁寧語とみる。

臨時の祭 02-105

賀茂神社の臨時際。

調楽 02-105

舞楽の練習。

これかれまかりあかるる所 02-105

いっしょにいた者が離れ離れになる場所。「あかる」の漢字表記は「別る・離る・散る」。

家路と思はむ方 02-105

家路と思える方向、方角。帰る家と思える場所はの意味。言い方に心理的な抵抗がある。

またなかりけり 02-105

ほかにいなかったことに改めて気づく。

02-106
◇ 「すさまじかるべく」「気色ばめるあたりはそぞろ寒く/対の表現)→「やと思ひたまへられしかば」
◇ 「うち払ひつつ」:この語句を受ける表現がないので、ここで文を切るしかない。後に「行きけり」などが省略されていると考える。「なま人悪ろく爪喰はるれど 02-07」とのつながりが悪いことはつとに指摘されている。文を切ることで、つながりの悪さは解消する。

旅寝 02-106

家以外で寝ること。特に旅に出ている必要はない。

すさまじかるべく 02-106

そら寒々しい。想像にあまりある寒々さである。連用中止で下の「や」にかかる。

気色ばめるあたり 02-106

指を喰う女の家。ほかの浮気相手や次のエピソードである木枯の女を想定すると解釈されているが、そもそも指を喰う女のエピソードは、「まして人の心の時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをばえ頼むまじく思うたまへ得てはべる/02-090」の例として語られたものである。「気色ばめる」については/02-089・/02-090で詳述した。

そぞろ寒くや 02-106

(今夜の雪景色は)ぞっとするほど見事ではないか。同じ意味で「さるいみじき姿に菊の色々移ろひえならぬをかざして今日はまたなき手を尽くしたる入綾(いりあや)のほどそぞろ寒くこの世のことともおぼえず/紅葉賀@」と使われる。もちろん信じられないくらい寒いのではとも解釈できるが、肯定的意味合いでなければ家路と考える必然性がない。

いかが思へる 02-106

雪景色についてどう感じているか。もちろんこのひどい寒さを寒がっていないかと案じているとも解釈できるが、以下の文の調子とそぐわない。「艶なる歌も詠まず/@」とあるのがその証拠。

気色も見がてら雪をうち払ひつつ 02-106

風流心をここに見なければ、この表現は何を言いたいのか文脈がたどれなくなる。

02-107
◇ 「思うたまへしに」→「待ちけるさまなり」

なま人わろく爪くはるれど 02-107

照れている様子。

さりとも 02-107

あんなことがあって別れ別れになってはいてもという含み。こんな霙交じりの夜に出向けば、女の気持ちも溶けるであろうとの目測。

籠にうちかけて 02-107

衣服に移り香をつけている。

引きあぐべきものの帷子などうちあげて 02-107

几帳や帳などを片付け来客を迎えられるように準備してある様子。

今宵ばかりやと 02-107

「今宵ばかりは訪ねてむやと」などの省略表現。

さればよ 02-108

「さあればこそしか思ひたまへぬるよ」などの省略表現。灯りを落とし、綿入れに匂いを薫き込めるなどして、夫を迎える準備がしてあったことに対して「されば」こそ、「今宵日ごろの恨みは解けなむ」と思ったのだという、うぬぼれ意識。

正身はなし 02-108

本人の姿がここにない。

さるべき女房 02-109

留守居役としてふさわしい女房。

この夜さり 02-109

今夜。

渡り 02-109

時間・空間の移動、わざわざ出かけるという心理的距離を暗示させる。

艶なる歌 02-110

男を引き止める思わせぶりな歌。

気色ばめる消息 02-110

つい内心の嫉妬心がすけて見える手紙。

ひたや籠もり 02-110

ひたすら籠ること。うんともすんとも言って来ない。

以上は、左馬頭の前言「心一つに思ひあまる時は、言はむかたなくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しのばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなどにはひ隠れぬる/02-065」に対応する表現。/02-065は昔物語から知識を得ていた左馬頭の予期する範囲であったが、指を喰う女の対応はこれとは真逆の反応であり、左馬頭に以下のような疑念を呼び起こす。

情けなかりしか 02-110

愛情がなかった。「あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくてかく数ならぬ身を見も放たでなどかくしも思ふらむと心苦しき折々もはべりて/02-096」とあり、左馬頭は女の厳しさを愛情の裏返しと見てきた。

あへなき 02-110

徒労感。

さがなく許しなかりし 02-110

女が嫉妬を起こした時の、口うるさく許す素振りを見せなかった様子。

我を疎みねと思ふ方の心 02-110

私を捨ててほしいと願う気持ちが女にあったということ。それまでは愛情の裏返しと思ってきたが、本当は最初から別れたかったのかと疑いがわいた。「我」は女の自称。「ね」は完了「ぬ」の命令形。

さしも見たまへざりしことなれど 02-110

その時まで、そんな風には思ったことはなかったけれど。

はべりしに 02-110

「に」は逆接。この状況でもまだ自分の勝手な解釈を許すところが左馬頭の身勝手さであろう。

02-111
◇ ここでまた、女の見る目の情けに矛をおさめることとなる。

色あひ 02-111

染色した色合い。龍田姫の錦を呼び出す語。

しざま 02-111

服の仕立て。織女の手を呼び起こす語。

あらまほしく 02-111

理想的。

わが見捨ててむ後 02-111

見捨てた後ではなく、今後いつ途絶えてしまうか知れない状態になった後でもの意味。「てむ」の「て」は強意、「む」は連体形で仮定・婉曲。

02-112
◇ 「とかく言ひはべりしを」→「(など)言ひしを」
◇ 「背きもせずと」「尋ねまどはさむと(も)/対の表現)→「(も)隠れ忍びず」

さりとも 02-112

「正身はなし/02-108」ではあるが、左馬頭が着る用に残していった衣類の染め付け、仕立ての良さに見られる思いやりを思うと。

絶えて…じ 02-112

決して…しない。

思ひ放つ 02-112

相手への思いを断ち切る。

とかく言ひはべりし 02-112

あれやこれやを言う。何を言ったかは明言されていない。しかし、女の返答「あらためてのどかに思ひならば」とあるので、女に対して「のどか」でない状況が続いていたことがわかる。従って、復縁を迫るためにあれこれ言うという解釈は成り立たず、別れをちらつかせながら、依然女の嫉妬心を責め立てていたと思われる。

背きもせず 02-112

女の前言「かたみに背きぬべききざみになむある/02-100」を受けた表現。きっぱりと別れもせず。

尋ねまどはさむとも隠れ忍びず 02-112

「尋ねまどはさむ」は夫である左馬頭が尋ねあてることができずに困るようにさせること。左馬頭の前言「人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて人をまどはし心を見むとする/02-067」に対応する表現。

かかやかしからず 02-112

「かかやかし」は相手が恥ずかしく思うほど立派であるの意味であり、相手に恥じをかかせるの意味をももつ。そこから「かかやかしからず」は恥をかかせない程度にの意味となる。

ありしながら 02-112

昔のまま。

見過ぐす 02-112

大目にみる。やり過ごす。

あらためて 02-112

(改む+て)。心を新たにする。改善する。

のどかに 02-112

心おだやかに。女を責めるのをやめる。

思ひならば 02-112

(思ひなる+ば)。思うようになるならば。

あひ見る 02-112

互いに見る関係になること、すなわち結婚生活を再開する。

さりとも 02-113

女の返答「ありしながらはえなむ見過ぐすまじき/02-102」を受け、そうは言っても。

しかあらためむ 02-113

そのように改めよう。「しか」は述べられていないが、文脈上、浮気心を起こさないように。女の嫉妬心に火をつけないように。

綱引きて 02-113

逆らう。相手の望みとは反対のことをあえてする意味。

はかなくなりはべり 02-113

亡くなってしまう。

戯れにくくなむおぼえはべりし 02-113

冗談を言いにくしとの注釈があるが、冗談を言ったという話はここにない。ここは、本気で別れるつもりは毛頭無いのに、嫉妬心を治してやろう(「懲らさむの心」)とへたに芝居をうったことが「戯れ」であり、それを反省しているのである。なおまた、「ありぬやと心見がてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集・読み人知らず)/どのくらいがまんしていられるかを見ようと会わずにいると本当に恋しくてならなくなった」の歌を下に敷き、心底会いたくてならなくなったの意味を兼ねる。「二条院に夜離れ重ねたまふを女君は戯れにくくのみ思す(光源氏が二条院での夜の営みを遠ざけておられたので、紫の上は心底さみしく思われるのでした)/朝顔/*)

ひとへに 02-114

一心に。

うち頼みたらむ 02-114

「うち」は、すっかり。「たらむ」は、仮定表現。心からの信をおいて頼り切ろうと思う相手は。

さばかりにてありぬべく 02-114

まさにそのようにあるべきだ。「ばかり」は強調でまさにの意味である。あれくらいの意味ではない。「さ」がそれより前の文章、すなわち指を喰う女を受けるとすると、この女は理想的な女性であったことになり、「人の心の時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをばえ頼むまじく思うたまへ得てはべる/02-090」の具体例として持ち出したそもそもの意図を失ってしまう。「さばかり」の「さ」は直後の「はかなきあだ事をもまことの大事をも言ひあはせたるにかひなからず龍田姫と言はむにもつきなからず織女の手にも劣るまじく」を受けると考えるほかない。文末に「ありぬべし」を入れるとわかりやすい。そもそも、これを受けるとしないと/02-114の二つの文章はつながりがなく、分裂してしまう。

言ひあはせたる 02-114

相手に相談する。

竜田姫と言はむ 02-114

竜田姫は秋に紅葉する竜田川を女神に見たてたもので、染色の神でもある。その神に比せるほど、染色の腕がある女であるということ。「着るべき物常よりも心とどめたる色あひしざまいとあらまほしくて /02-111」を受けた表現。

つきなからず 02-114

機織の神である織女の腕前にも。

織女の手にも 02-114

織女の手にも 02-114

その方も 02-114

もの怨じまでも、即ち、嫉妬心も。嫉妬心はこの女の本性であり、これを抜きにした解釈は成り立たない。

具し 02-114

ここは自動詞。十分に備わる。欠けることなく揃う。

うるさし 02-114

ダブルミーニング。嫉妬心に対してはうるさい。染色や織りの技に対しては立派な。締めの言葉であり、係結びで「うるさし」が強調されている。通常の解釈のように、立派なだけであったら、左馬頭も別れを盾に一芝居打ったりしない。「あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて/02-096」

いとあはれと思ひ出でたり 02-114

嫉妬心を当時うるさく思ったことと、亡くなった今、女を愛情深く思い返すこととは矛盾しない。

その 02-115

指を喰う女を指す。その性分・性質である(裁ち縫ふ方)。

織女の裁ち縫ふ方 02-115

「裁ち」は夫の行動を裁断する嫉妬心、「縫ふ」はきっぱりと別れず、離れていても男が泊まる準備をしたりして面倒をみることをかけている。そっちの方はやわらげての意味である。

長き契り 02-115

織姫と彦星が永遠に結ばれているように。

あえまし 02-115

「肖ゆ」+「まし」。「あゆ」は似る、あやかる。「まし」は反実仮想。ならばよかったのに。

げに 02-115

左馬頭が「龍田姫と言はむにもつきなからず/02-114」と表現したのを受ける。

またしくものあらじ 02-115

「しく」は「敷く」と「如く」をかける。「敷く」は龍田姫の錦の縁語。

はかなき花紅葉といふも 02-115

織女や龍田姫が神の話であり、実際の女性論にならない。龍田姫が紅葉の神格化であることから、この世の存在である紅葉に話題を移し、紅葉との関連で、花紅葉とした。以下、織女や龍田姫のような理想ではなく、一般女性を花紅葉に譬えて論じる。「というも」は譬えて言ってもの意味。

をりふしの色あひつきなく 02-115

固定した魅力ではなく、その折々にあった、周囲(特に夫)と調和した魅力がないなら。

はかばかしからぬは 02-115

他の女性と区別する魅力。それがないと男は浮気に走る。

露のはえなく消えぬるわざなり 02-115

露によって花紅葉が色を増すことなく、しおれてしまう運命である。「露のはえなく」は夫の愛情という照り返しが欠けること。夫の愛情があって、妻は長生きできるのだとの意味。左馬頭の愛情という「はえ」を得られなかった指を喰う女は若死にしたことから立論されている。男性貴族の女性観をよく表しているだろう。

02-116
◇ 「さあるにより」→「定めかねたるぞや」

さあるにより 02-116

そうだから。具体的に受ける表現は見当たらない。考えられるとすれば「(をりふしの色あひつきなくはかばかしからぬは)露のはえなく消えぬるわざなり /02-115」であり、夫に愛情がないと、妻の命までもはかなくしてしまうから、それだけに妻選びは真剣で難しいのだというのであろう。

難き世とは 02-116

難しい男女の関係であるな。

定めかねたるぞや 02-116

これが一番だとは決めかねるなあ。

2020-05-23

Posted by 管理者