02帚木13 人妻空蝉を犯す

2020-05-23

帚木 原文 02-237/02-276

237君はとけても寝られたまはず いたづら臥しと思さるるに御目覚めて この北の障子のあなたに人のけはひするを 238こなたや かくいふ人の隠れたる方ならむ あはれやと御心とどめて やをら起きて立ち聞きたまへば 239ありつる子の声にて ものけたまはる いづくにおはしますぞ とかれたる声のをかしきにて言へば 240ここにぞ臥したる 客人は寝たまひぬるか いかに近からむと思ひつるを されどけ遠かりけりと言ふ 241寝たりける声のしどけなき いとよく似通ひたれば いもうとと聞きたまひつ 242廂にぞ大殿籠もりぬる 音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる げにこそめでたかりけれとみそかに言ふ 243昼ならましかば 覗きて見たてまつりてまし とねぶたげに言ひて 顔ひき入れつる声す 244ねたう 心とどめても問ひ聞けかし とあぢきなく思す 245まろは端に寝はべらむ あなくるし とて灯かかげなどすべし 246女君は ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき 247中将の君はいづくにぞ 人げ遠き心地してもの恐ろしと言ふなれば 長押の下に人びと臥して答へすなり 下に湯におりて ただ今参らむとはべると言ふ 248皆静まりたるけはひなれば 掛金を試みに引きあけたまへれば あなたよりは鎖さざりけり 249几帳を障子口には立てて 灯はほの暗きに 見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば 乱りがはしき中を 分け入りたまへれば ただ一人いとささやかにて臥したり 250なまわづらはしけれど 上なる衣押しやるまで求めつる人と思へり 251中将召しつればなむ 人知れぬ思ひのしるしある心地してとのたまふを 252ともかくも思ひ分かれず 物に襲はるる心地して やとおびゆれど 顔に衣のさはりて音にも立てず 253うちつけに 深からぬ心のほどと見たまふらむ ことわりなれど 年ごろ思ひわたる心のうちも 聞こえ知らせむとてなむ かかるをりを待ち出でたるも さらに浅くはあらじと思ひなしたまへと 254いとやはらかにのたまひて 鬼神も荒だつまじきけはひなれば はしたなく ここに人ともえののしらず 心地はた わびしくあるまじきことと思へば あさましく 人違へにこそはべるめれと言ふも息の下なり 255消えまどへる気色 いと心苦しくらうたげなれば をかしと見たまひて 256違ふべくもあらぬ心のしるべを 思はずにもおぼめいたまふかな 257好きがましきさまには よに見えたてまつらじ 思ふことすこし聞こゆべきぞとて 258いと小さやかなれば かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ 求めつる中将だつ人来あひたる 259ややとのたまふに あやしくて探り寄りたるにぞ いみじく匂ひみちて 顔にもくゆりかかる心地するに 思ひ寄りぬ 260あさましう こはいかなることぞと思ひまどはるれど 聞こえむ方なし 261並々の人ならばこそ荒らかにも引きかなぐらめ それだに人のあまた知らむはいかがあらむ 262心も騷ぎて慕ひ来たれど動もなくて 奥なる御座に入りたまひぬ 263障子をひきたてて 暁に御迎へにものせよとのたまへば 264女は この人の思ふらむことさへ死ぬばかりわりなきに 流るるまで汗になりて いと悩ましげなる 265いとほしけれど 例の いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ あはれ知らるばかり 情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど 266なほいとあさましきに 現ともおぼえずこそ 数ならぬ身ながらも 思しくたしける御心ばへのほども いかが浅くは思うたまへざらむ いとかやうなる際は際とこそはべなれとて 267かくおし立ちたまへるを 深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも げにいとほしく 心恥づかしきけはひなれば 268その際々をまだ知らぬ初事ぞや なかなか おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける おのづから聞きたまふやうもあらむ あながちなる好き心はさらにならはぬを さるべきにや げに かくあはめられたてまつるもことわりなる心まどひを みづからもあやしきまでなむ などまめだちてよろづにのたまへど 269いとたぐひなき御ありさまの いよいようちとけきこえむことわびしければ すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむ と思ひてつれなくのみもてなしたり 270人柄のたをやぎたるに 強き心をしひて加へたれば なよ竹の心地して さすがに折るべくもあらず 271まことに心やましくて あながちなる御心ばへを 言ふ方なしと思ひて泣くさまなど いとあはれなり 272心苦しくはあれど 見ざらましかば口惜しからましと思す 273慰めがたく憂しと思へれば などかく疎ましきものにしも思すべき おぼえなきさまなるしもこそ 契りあるとは思ひたまはめ むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなむ いとつらきと恨みられて 274いとかく憂き身のほどの定まらぬ ありしながらの身にて かかる御心ばへを見ましかば あるまじき我が頼みにて見直したまふ後瀬をも 思ひたまへ慰めましを いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに たぐひなく思うたまへ惑はるるなり 275よし 今は見きとなかけそ とて思へるさま げにいとことわりなり 276おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし

帚木 原文かな 02-237/02-276

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

きみは とけてもねられたまはず いたづらぶしとおぼさるるにおほむ-めさめて このきたのさうじのあなたにひとのけはひするを こなたや かくいふひとのかくれたるかたならむ あはれや とみこころとどめて やをらおきてたちききたまへば ありつるこのこゑにて ものけたまはる いづくにおはしますぞ と かれたるこゑのをかしきにていへば ここにぞふしたる まらうとはねたまひぬるか いかにちかからむとおもひつるを されどけ-どほかりけり といふ ねたりけるこゑのしどけなき いとよくにかよひたれば いもうととききたまひつ ひさしにぞおほとのごもりぬる おとにききつるおほむ-ありさまをみたてまつりつる げにこそめでたかりけれと みそかにいふ ひるならましかば のぞきてみたてまつりてまし
とねぶたげにいひて かほひきいれつるこゑす ねたう こころとどめてもとひきけかし とあぢきなくおぼす まろははしにねはべらむ あなくるし とて ひかかげなどすべし をむなぎみは ただこのさうじぐちすぢかひたるほどにぞふしたるべき ちうじやう-の-きみは いづくにぞ ひとげとほきここちして もの-おそろし といふなれば なげしのしもに ひとびとふしていらへすなり しもにゆにおりて ただいままゐらむとはべる といふ みなしづまりたるけはひなれば かけがねをこころみにひきあけたまへれば あなたよりはささざりけり きちやうをさうじぐちにはたてて ひはほの-くらきに みたまへば からびつ-だつものどもをおきたれば みだりがはしきなかを わけいりたまへれば ただひとりいとささやかにてふしたり なま-わづらはしけれど うへなるきぬおしやるまで もとめつるひととおもへり ちうじやうめしつればなむ ひとしれぬおもひの しるしあるここちして とのたまふを ともかくもおもひわかれず ものにおそはるるここちして や とおびゆれど かほにきぬのさはりて おとにもたてず うちつけに ふかからぬこころのほどとみたまふらむ ことわりなれど としごろおもひわたるこころのうちも きこエしらせむとてなむ かかるをりをまちいでたるも さらにあさくはあらじと おもひなしたまへ と いとやはらかにのたまひて おにがみもあらだつまじきけはひなれば はしたなく ここに ひと とも えののしらず ここちはた わびしく あるまじきこととおもへば あさましく ひとたがへにこそはべるめれ といふもいきのしたなり きエまどへるけしき いとこころぐるしくらうたげなれば をかしとみたまひて
たがふべくもあらぬこころのしるべを おもはずにもおぼめいたまふかな すきがましきさまには よにみエたてまつらじ おもふことすこしきこゆべきぞ とて いとちひさやかなれば かき-いだきてさうじのもといでたまふにぞ もとめつるちうじやう-だつひときあひたる やや とのたまふに あやしくてさぐりよりたるにぞ いみじくにほひみちて かほにもくゆりかかるここちするに おもひよりぬ あさましう こはいかなることぞとおもひまどはるれど きこエむかたなし なみなみのひとならばこそ あららかにもひき-かなぐらめ それだにひとのあまたしらむは いかがあらむ こころもさわぎて したひきたれど どうもなくて おくなるおましにいりたまひぬ さうじをひきたてて あかつきにおほむ-むかへにものせよ とのたまへば をむなは このひとのおもふらむことさへ しぬばかりわりなきに ながるるまであせになりて いとなやましげなる いとほしけれど れいの いづこよりとうでたまふことのはにかあらむ あはれしらるばかり なさけなさけしくのたまひつくすべかめれど なほいとあさましきに うつつともおぼエずこそ かずならぬみながらも おぼしくたしけるみこころばへのほども いかがあさくはおもうたまへざらむ いとかやうなるきはは きはとこそはべなれ とて かくおしたちたまへるを ふかくなさけなくうしとおもひいりたるさまも げにいとほしく こころはづかしきけはひなれば そのきはぎはを まだしらぬ うひごとぞや なかなか おしなべたるつらにおもひなしたまへるなむうたてありける おのづからききたまふやうもあらむ あながちなるすきごころは さらにならはぬを さるべきにや げに かくあはめられたてまつるも ことわりなるこころまどひを みづからもあやしきまでなむ など まめ-だちてよろづにのたまへど いとたぐひなきおほむ-ありさまの いよいようちとけきこエむことわびしければ すくよかにこころづきなしとはみエたてまつるとも さるかたのいふかひなきにてすぐしてむとおもひて つれなくのみもてなしたり ひとがらのたをやぎたるに つよきこころをしひてくはへたれば なよたけのここちして さすがにをるべくもあらず まことにこころやましくて あながちなるみこころばへを いふかたなしとおもひて なくさまなど いとあはれなり こころぐるしくはあれど みざらましかばくちをしからまし とおぼす なぐさめがたく うしとおもへれば など かくうとましきものにしもおぼすべき おぼエなきさまなるしもこそ ちぎりあるとはおもひたまはめ むげによをおもひしらぬやうに おぼほれたまふなむ いとつらき とうらみられて いとかくうきみのほどのさだまらぬ ありしながらのみにて かかるみこころばへをみましかば あるまじきわがたのみにて みなほしたまふのちせをもおもひたまへなぐさめましを いとかうかりなるうきねのほどをおもひはべるに たぐひなくおもうたまへまどはるるなり よし いまはみきとなかけそ とて おもへるさま げにいとことわりなり おろかならずちぎりなぐさめたまふことおほかるべし

帚木 現代語訳 02-237/02-276

光君はそわついてお休みになれず、独り寝するわびしさよと思われるにつけお目が覚めてしまい、この北の障子のむこうに人の気配がするのを、そこだろうか、さきの話の女が隠れているというところは、いとしいものだと、お気に止まって、そっと起き上がり立ち聞きなさってみると、先ほど聞いた子供の声で、「もしもしちょっと、どこにおられますか」と、変声時のかすれた耳に立つ声で尋ねると、「ここで寝てるわ。お客さまはもうお休みになって。とても近かい気がしてたけど、意外に遠い感じね」と言う。寝ていたらしい声のしどろなさ、たいそうよく似た感じなので、姉の空蝉だなとおわかりになった。「廂でお休みになっておいでです。うわさに聞いていたお姿を拝見しましたが、じつにもう美しいご様子でしたよ」と、秘密を明かすように小声で言う。「昼だったら、のぞき見させていただくんだけど」とねむたげに言うが、夜具に顔を引き入れくぐもった声となる。悔しいなあ、もっと熱を入れて聞いてくれよと、物足りなさをお感じになる。「ぼくはここで休みますよ。ああしんど」と、寝るために灯を明るくするなどしているようだ。女君はわずかこの障子口をはさんだはすかいあたりで寝ているに違いない。「中将の君はどこなの。ひとけがない感じがしてとても怖いわ」と、自分を誘うような言葉が聞こえた気がしたところ、長押の下で女房たちが寝ながらに返事をするらしく、「下屋にお湯を使いにおりていて、ただいま参りますとのことです」と言う。みな寝静まった様子なので、掛け金をこころみに引きあけてみられたところ、向こう側からはかかっていないのだった。几帳を母屋の障子口に立ててあって、灯がほの暗い中、ごらんになると、唐櫃らしき物などいろいろ置いてあってごたごたしている廂の中を踏み分けお入りになってみると、ただ独りとてもこじんまりした様子で休んでいる。様子が変で妙に気遣いされたが、顔の上の夜具を押しのけてみるまでは、さきほど呼んでいた人だと思っていた。「中将をお召しですのでここに。人知れず慕ってきた甲斐があった気持ちがして」とおっしゃるのを、「とつぜんのことで、深くもない出来心とお思いでしょう、もっともですが、長年思いつづけてきた心のうちも申し上げ知っていただこうと思いまして。このような機会を待ちつづけやっと手にしたのも、決して浅い思いからではない証しだと、思うようにしてください」と、とてもものやわからにおっしゃる、その口調では鬼神でさえ荒ぶる気持ちになれないご様子なので、ばつが悪くて「ここに人が」と、騒ぎ立てることもならない、と同時に気持ちは、こんなことが許されていいものかと思うと、あまりにひどいと感じて、「人違いでございましょう」と言ってはみるものの息が上がって声にならない。今にも消えて亡くなりそうな様子は、とても痛々しくほってはおけないと思うと、かわいそうにお思いになって、「間違うはずがない恋心が導きですのに、思いがけずも、人違いなどとおとぼけになるとは。無理にどうしようなどとは、まったく思ってもみないことですが、心のうちをすこし申し上げてもよいでしょう」と、とても小柄なので抱き取って、もと来た障子のところへお出になったその時に、呼び求めていた中将らしき人が来合わせた。「しまった」とおっしゃるのを、中将の君は不審に思って手探りで歩み寄ったところ、この世のものではない高貴な香りがあたりに満ち、顔にまでくゆりかかる感覚がして、はたと相手が知れた。あまりにひどく、これはどうしたことかと気を揉みながらも、声をかけるすべがない。相手が普通の人なら手荒に引き離すまねもできるようが、それだとて大勢の人に知れてはどうなろう、中将は気が気でなく、心配であとに付き随ったが、光の君は動じることもなく、奥の御座に入ってしまわれた。障子を締め切って、「暁にお迎えにまいれ」とおっしゃたところ、女は、中将の君が今想像していることまでもが死ぬほどやり切れなくて、流れるくらいの汗になって、たいそうつらそうな様子であり、光の君はかわいそうにと責任をお感じになるが、例によって、一体どこからお取りだしになる言葉だろうか、ついその気にさせられてしまうばかりに、情愛こまやかに意を伝えようとお尽くしになるようだけど、それでもやはりあまりのしうちに、「実感がわきませんので。人数にも入らぬ身ながら、こんな仕打ちばかりかお見下しになるお心持ちまでもが、どうして軽々しく思わないでおられましょう。まったくこんな身の程なのだから分をわきまえよと仰せなのでしょうが」と、このように無理をお通しになるを、女は心底思いやりがなくつらいと思いこんでおり、そうした様子を見ても本当に申し訳なくいたたまれない様子なので、「その際と際の区別もつかぬ初事だからね。そうだとて、なまじそのへんの連中と同列に見なされては心外です。どこぞで耳にされたこともおありでしょう、無体にどうのといった好き心はさらさら習い知らぬことを。それだから、まったく、こんなに風にさげすまれるのも、理の当然なほど心が乱れているのが、自分でも怪してもう」などと、誠意をもっていろいろとおっしゃるけれど、なんとも比類のないお姿ゆえ、なおのことますます身をゆるしお気持ちにこたえることが忍びないので、取りつく島ない不愉な女だとお取りになろうとも、色事の道では言っても甲斐ない女で通そうと思いきめて、すげない態度をとりつづけた。心根はしなやかなのに、強情さを強いて加えるものだから、なよ竹のような感じがして、さすがに力では折れそうにない。まことにやるかたなくて、身勝手な御心のありようを留まらせる言葉もないと嘆き涙を流すさまなど、とてもいとおしい。心苦しくはあるが、ここで想いを遂げねば、無念が残ろうとお考えになる。女が慰めようもなくつらく思っているので、「どうしてこううとましい奴とばかりお思いなのか。おもいがけないかたちでこうなったことこそ、前世からの因縁であるとお思いください。ただもう恋の何かも知らぬように、ものわかりなくしておいでなのは、とてもつらいことで」と恨み言をおっしゃっると、「まったくこんなみじめな身の上に落ち着く前の、ありしながらの身で、このように激しいお気持ちをお受けするのであれば、許されはしない身勝手な期待ながら、愛情をもって枕をならべられる日もいつか来ようと自分を慰めもしましょうが、まったくこうした現実感覚のない一夜の逢瀬のありようを考えまするに、この上なく心が乱れます。この上は、こうなったことを口になさらないでくださいまし」と、物思いに沈むさまはまったく無理からぬことである。懇ろに先々の約束をし、あれこれ慰めておあげになることが、多くあるに違いない。

帚木 注釈 02-237/02-276

とけても寝られず 02-237

空蝉への好奇心に縛られた状態から解放されて、ぐっすりと眠りに落ちること、それができないでいる。うちとけても寝られない。「とてけても…ず」で陳述の副詞と考えて良い。

いたづら臥し 02-237

臥すことで期待できる効果が表れないこと、効果なくむだに臥すだけした状態でいても、その効果が期待できないこと。狸寝入りではないではない。恋人を待って独り寝するとの注もあるが、空蝉からの訪問を期待できるわけではない。思いをこめて眠りにつくと、思い人に会えるという王朝人の夢に託した期待が、眠りにつけないので期待できないことを指す。

と思さるるに御目覚めて 02-237

『せめて夢で会えないものかと期待して、空蝉のことを思って寝付いたが、ゆめうつつの中、眠りにも落ちず、空蝉のことが頭からも離れず、ああ、夢でも会えないのか、いたづら臥しだなと思ったところで、目が覚めた。「に」は、その時に、その瞬間に意識がはっきりとした。目覚めてもまだ横たわった状態。

この北の障子 02-237

空蝉たちが休む寝殿の西側の、北の廂と北の簀子を隔てる障子(図のX)。おそらく先に女房たちが自分のことをうわさしているのを立ち聞きした襖障子である。「この」と言えるためには、北の障子が見える位置で休んでいなければならない。そうすると、北の廂(図のD)ではなく、北の簀子(図のB)に現在いるはずである。後の小君の発言「廂にぞ大殿籠もりぬる/02-242」からは北の廂(図のD)で休んでいるはずだが、これは光源氏と挨拶を交わした場所に過ぎない。ただし、小君としてはそこで休まれたと思い込んだのだ。しかし、「酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ静まりぬ/02-236」とあり、酔いと暑さのために誰もが簀子で寝に就き、敬語は用いられていないものの、光源氏もその中に混じったと考えざるを得ない。「皆人びと」という複数形をたくみに使い、光源氏の位置をぼかした点については前述した。

あなた 02-237

向こう側。北の障子より光源氏は北に位置しているので、「あなた」は北の障子より南となり、空蝉の居場所に合致する。光源氏が東の廂や南の廂から北の障子を見て「あなた」と言ったとしたら、空蝉の居場所は北の簀子となり、二人の位置関係はちんぷんかんぷんとなってしまう。

中川の家の構造について

A:北の簀子の西部屋
B:北の簀子の東部屋(光の寝所)
C:北の廂の西部屋(空蝉の女房たちと小君の寝所、)
D:北の廂の東部屋
E:母屋の西部屋
F:奥の御座所(空蝉と契り)
G:南の廂(従来光の寝所とされている場所)
H:光の立ち位置(小君と空蝉の会話を立ち聞き)
U:空蝉の寝所
V:奥の御座所
X:北の障子(中将が湯を使いに出たため鍵が空いている)
Y:几帳
Z:従来几帳の位置とされていたところ

こなた 02-238

「この北の障子のあなた/02-235」、寝殿の西側の、北の廂(図のC)または母屋(図のU)を指す。実際に空蝉がいたのは図のU。

かくいふ 02-238

紀伊守の発言「不意にかくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も定まりたることはべらね。中についても、女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる/02-231」を主に指す。

あはれや 02-238

心が強く揺さぶられている状態。この場合、恋心およびは同情心のため。

やをら起きて立ち聞き 02-238

場所を図のBから図のHまで移動。

02-239
◇ 「かれたる声のをかしき」(AのB連体形)→「にて」

ありつる子の声 02-239

小君の声。

ものけたまはる 02-239

「ものうけたまはる」を子供らしく略したものとされる。呼びかけの語。

かれたる声 02-239

変声期の声。

をかしきにて 02-239

光源氏が興味を示していることを表す。

いかに近からむと思ひつるをされどけ遠かりけり 02-240

光源氏の身分からすれば、本来は母屋の東部屋の奥の御座所(図V)で休むはずである。そうなれば、母屋の西側の御座所で寝る空蝉は、障子を隔てるのみで、いかにも近く感じられたことだろう。事実、光源氏にしても「衣の音なひはらはらとして若き声どもにくからず/02-212」と、距離の近さを感じていた。しかし、光源氏が寝所としたのは、図のBあたりの東の簀子である。いるはずの奥の御座所に人の気配を感じられず、空蝉にはけ遠さを覚えたが、光源氏はすでにすぐ間近に迫り、聞き耳を立てていたことを空蝉は知らないでいる。このあたりの二人の空間的位置と心理的距離のギャップの描き別けを、さらりと会話で行ったところは秀逸である。

02-241
◇ 「寝たりける声のしどけなき」(AのB連体形):「似通ひたれ」「聞きたまひつ」の主語。

しどけなき 02-241

用心する気持ちがない。光源氏はすでにプライベート空間に入っているが、それを知られていないことがわかる。

いもうと 02-241

小君の姉。古語は年齢の上下に関わりなく女兄弟を「いもうと」と言う。

廂にぞ 02-242

寝殿の東側の北の廂を指す。小君はそこで光源氏と体面を果たしたため、その場所で寝たものと考えていたが、実際には北の簀子で寝に就いていた。

大殿籠もりぬる 02-242

身分の高い方がお休みになる。

音に聞きつる 02-242

うわさが評判となって耳に入っていたこと。

めでたかりけれ 02-242

「めでたし」は賛美する気持ち。「けれ」は詠嘆。それまで噂でしかなかった光源氏を目の当たりにした時の感動。

みそかに 02-242

特別な秘密を明かすかのように。声が小さいだけではなく、特別感を小君は持って得意げに姉に伝えている感覚を見逃したくない。小君は心理的にすでに光源氏の側に立っていることがわかる。

ましかば…まし 02-243

反実仮想。事実に反する願望。

てまし 02-243

確述「つ」の未然形+「まし」

ねぶたげに 02-243

小君のときめきと対照的である。

顔ひき入れつる 02-243

夜具の中に顔を入れる。

声す 02-243

夜具に顔を引き入れる物音とも、あーあなど実際の声とも考えられる。

ねたう 02-244

「ねたし」のウ音便。自分の噂を耳にしている光の心内語。

心とどめて 02-244

気持ちをこめて。思い入れをしてなど、いい加減な言い方でなく、話題にもっと気を入れて。

問ひ聞けかし 02-244

小君にあれこれ自分のことを問いかけよ。「かし」は念押し。

あぢきなく思す 02-244

「あぢきなく」は不満足な感慨。形容詞の連用形+「思ふ」。

まろ 02-245

一人称で自分。小君の自身のこと。

灯かかげなどすべし 02-245

子供なので、暗いより明るくして寝たいのだろう。これにより、光は空蝉の部屋に入った時に、暗くて何も見えないということがなくなる。さて、従来のように、光が図のGにいたのでは、灯をかかぐ様子はわからないはずである。図のHにいたから、障子の上の格子から漏れる光が強まったために、「灯かかげなどすべし」と想像できたのである。

障子口筋違ひたる 02-246

光源氏が立つ図のHに対して、Uの位置。

べき 02-246

語り手が光源氏の立場にたって、空蝉のいる位置を推量する。もし語り手の視点が第三者の立ち場なら(神の視点)空蝉の位置を述べるのに推量は必要ない。こうした語り手の推量表現が、話にふくらみを持たせる。

02-247
◇ 「言ふなれば」→「言ふ」 
◇ 「長押の下に人びと臥して答へすなり」:挿入句

中将の君 02-247

光源氏も帚木の冒頭で中将の位であることが読者に知らされている。「まだ中将などにものしたまひし時は内裏にのみさぶらひようしたまひて/02-003」

人げ遠き心地 02-247

光源氏に対しても「されどけ遠かりけり/02-240」と感じていた。五月の梅雨明けで暑気が増える季節。空蝉はそれとなく体調の悪さを感じていたのかもしれない。光源氏もまた「人近からむなむうれしかるべき 女遠き旅寝はもの恐ろしき心地すべきを」と同様な感慨を抱いている。すでに心理的なシンクロが始まっているのだ。

もの恐ろし 02-247

「もの」は人力を超えた力。

なれ(と言ふなれば) 02-247

伝聞。光源氏の身になって空蝉の発言を聞いてみよう。目が覚め、立ち聞きすると自分の噂をしている。言葉が途切れ女が寝静まったと思ったら、自分の名が呼ばれ、そばにいてくれないと怖いと誘われたことに、一瞬耳を疑ったろう、もちろん、すぐに勘違いとわかるが。その間の心の揺れが「なれ」一語から伝わってくる。自分でないことにがっかりすると同時に、なり変わってやれと咄嗟に考えたに違いない。読み過ぎかもしれないが、もしこの「なれ」がなければ、同じ名の女房がいるなんてあざとすぎると、トリックの安直さに不満を覚えただろう。しかし、この「なれ」の一語があるから、作り事といった反感を感じず、読者は光源氏の体験を通して空蝉の言葉を聞いてしまうのだ。
この後、光源氏は歯の浮くような言葉で、空蝉に言い寄る。この求愛に違和感を覚える学者が多い。宮仕えを予定していながら父の死により意を曲げざるを得なかった空蝉の存在を、帝から聞き知った時点から、空蝉を狙っていたとみているので、以下の光源氏の言葉は素直に受け入れられる。ただ現代小説であればもうすこし前振りをしたであろうから、それがないために違和感を覚えるらしい。空蝉を狙っていたとの解釈はともかく、それを受け入れなくても、自分の名が呼ばれ寝所に招かれたという、この聞き違い体験が導火線となって、擬似的恋愛から恋情へと一気に爆発させたと考えるのは不思議ではない。現代人が光源氏となって強姦して捕まれば言うだろう、空蝉の方から火をつけたのだと。

長押の下 02-247

母屋と廂は長押で区分され、廂は一段低くなっている。上座の母屋に対して、下座の廂であり、長押のしもという表現が成り立つ。要するに寝殿の西側、北の廂(図のC)。

人びと 02-247

空蝉付きの女房たち。

下に湯におりて 02-247

紀伊守の発言「皆下屋におろしはべりぬる/02-235」で触れられた「下屋」。寝殿の北の対の北にある、雑用場所で湯などを使う場所もあった。体を拭いていたのだろう。

ただ今参らむ 02-247

中将の君の発言をそのまま伝えた直接話法。

皆静まりたるけはひなれば 02-248

空蝉と女房とのやりとりの後、しばらく時間が経過した。

掛金 02-248

従来は、母屋の西部屋と東部屋の間を仕切る鍵と考えられていたが、それでは、鍵をかけずに寝た空蝉は、最初から浮気を望んでいたことになる。そういう論文もあるが、それは無理な設定である。この鍵が空いていた理由は簡単で、中将の君が湯を使いに出たから空いていたのである。従って、図のXに当たる北の障子の掛金であり、光源氏はここから侵入したのである。実のところ、私はこの掛金から逆算し、光は南の廂に寝たのではなく、北の簀子にいたはずだと推測し、その論拠として「几帳のうしろに」という言葉を思い起こしたわけである。繰り返すが、光がGにいたのでは、次のような矛盾が生じる。
一、空蝉はけ遠いと感じているのに、光ははっきりと二人の会話を聞き取っている。
二、灯かかげなどすべしと、光が理解した根拠が不明となる。
三、のちにあれほど光を避ける空蝉が、二人の間を仕切る鍵をかけなかった理由がわからない。
この理由は致命的である。他にも、北の障子の位置が決まらないなど。

几帳 02-249

カーテン風なもので、可動式であり、簡易に部屋の仕切りとして用いる。

障子口 02-249

簀子と廂を隔てる北の障子の廂側の出入り口。北の障子は中将の君がしたように、雑用で出入りする場所だから、人目を避けるために、几帳を立てたのである。

灯はほの暗き 02-249

光はまだ廂に入らず、几帳越しに漏れる明かりを見ているのであろう。小君がかかげた明かり。

唐櫃だつ物 02-249

「だつ」とあるので、明かりが届かず、はっきりとしない。足のついたつづら風の容れ物。

分け入りたまへれば 02-249

中の配置を確認したうえで、おもむろに中に押し入る。

ささやかに 02-249

眠る姿がこじんまりとした感じで。体の小ささの表現は、別に「いと小さやかなればかき抱きて/02-258」とある。

02-250
◇ 「なまわづらはしけれど」→「思へり」

なまわづらわしけれ 02-250

こちらは眠いのに、夜具を剥がして顔をのぞこうとする者がいる。その者に対する空蝉の不快感。光源氏の申し訳なく思う気持ちという説がある。「思へり」に係ることを考えると、光源氏は一考に値しない。

求めつる人 02-250

先に「いづくにぞ」と空蝉が居場所を尋ねた中将の君。

02-251
◇ 「人知れぬ思ひのしるしある」(AのB連体形)→「心地し」

中将召しつればなむ 02-251

後ろに「まゐりたる」などの省略。空蝉の発言「中将の君はいづくにぞ/02-247」を受ける。

しるし 02-251

ずっと思っていたことが実際にかなったこと。側近く会えることを望んでいたとの弁。一般にはその場のつくろいと解釈されている。しかし、父衛門督が空蝉を宮中に出そうと願っていた事実を、光源氏は帝から聞いていた「主上にも聞こし召しおきて 宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし いかになりにけむと いつぞやのたまはせし/02-230」。それ以来、亡き母である桐壺、かなわない恋の対象である藤壺への思いと重ね合わせ、空蝉のことを思っていたとしても不思議ではない。空蝉はいわば藤壺に対する代償行為とみてよい。藤壺との密会ももちろん光源氏による強姦であったろう。それを描くことは帝に対する恐れから(この帝の呪いの力はすさまじく、夢でにらみつけられた朱雀帝は眼病を患い退位してしまう)出来なかった代わりに、空蝉の強姦を克明に描いていのだと思う。

ともかくも 02-252

こうともああとも。夜具を押しやり、自分に話しかけてくる相手の正体が誰とも。

物に襲はるる 02-252

物に襲はるる

や 02-252

おどろいた時に発する言葉。

おびゆれ 02-252

「怯ゆ・脅ゆ」ラ行下二段活用の已然形。こわがる、おびえる。

顔に衣のさはりて 02-252

すでに衣を押しやったのだから、自然と触ることはない。怖くて顔を背けた先に衣があったか、光源氏が声を立てぬようにやんわりと押し当てたのか、想像に任されている。そのために声がくぐもった。

02-253
◇ 「うちつけに」「深からぬ心のほどと」(並列)→「見たまふらむ」

うちつけに 02-253

突然であり、ぶしつけだ。

深からぬ心のほど 02-253

「ほど」は程度。浅くて軽い感情。

ことわりなれど 02-253

そのように思うのももっともだけど。

年ごろ 02-253

長年。

思ひわたる 02-253

思い続ける。「わたる」は時間の継続。まったくのデタラメとは考えない理由は/02-247,/02-251などで説明した。

とてなむ 02-253

後ろに「まゐりぬる」などが省略。

かかるをり 02-253

光源氏が宮中の妻の左大臣邸に行ったことが方塞がりとなり、そのため急遽、ここに泊まることになった機会。

待ち出でたる 02-253

待った挙句にそれを実現させる。

さらに浅くはあらじ 02-253

「さらに…じ」は決して…ではないだろう。ふたつの解釈がありえる。方違えという意図せむ理由によりこうして二人が出逢えたのは二人のえにしは浅くない。長く待ったその挙句にこんな偶然の機会で逢えたのだから自分の気持ちは決して浅いものではない。浅くないは、二人の関係性とも、自分の愛情とも取れる。ただし、「待ち出でたる」と意図的表現を受けるので、後者の意味合いが強いであろう。今この瞬間だけを見ると浅く見えるかもしれないが、ずっと前から思ってきたのだ、決して浅くはないのだということ。この後、「浅く」がキーワードとなる。

思ひなしたまへ 02-253

自然とそう思われるのではなく、意図してそう思うようにつとめよ。

02-254
◇ 「心地はた」:「はしたなく」「あさましく」をつなぐ 
◇ 「鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、ここに人ともえののしらず」「心地はた、わびしくあるまじきことと思へば、あさましく、人違へにこそはべるめれと言ふも息の下なり」:対句表現

鬼神も荒だつまじきけはひ 02-254

話し手の説明。鬼神でも気がなだらかになるのだから、まして空蝉はという論法で、現代人にとってはあまり説得力のない論理展開と受け取ってしまいがちだが、論理は逆。光源氏の言葉に空蝉は声も出せなくなってしまった。事実が出発点。それは光源氏の物言いから空蝉が「はしたなく」感じたからで、なぜ「はしたなく」感じたかと言えば、「鬼神も荒だつまじきけはひ」であったからだという結果から出来事を説明しているのだと思う。

はしたなく 02-254

中途半端で極まりが悪い。人を呼んだ結果として出来する顛末は決して収まりのよいものにはならないということ。仮に人を呼んだとしよう。強姦未遂事件は、夫である伊予介の知ることになる。光源氏の評判はかなり下がる。未遂でななかったとの評判も広まる。伊予介は同情されるどころか、監督不行き届きで処罰される。紀伊守も同様。空蝉が一瞬にしてどれだけのことを想像したかは定かでない。しかし、王朝人の意識として、こうしたことが明るみに出た結果は決して好ましものにはならないことは既知であったはずである。

ここに人 02-254

ここに怪しい人がいるから誰か来てとの意図であろう。

ののしらず 02-254

大声を立てて騒ぐような真似はしない。

はた 02-254

ちょうどその時、同時に。折しも。時に関して二つ以上重なるのが「はた」、時と限定しないのが「また」。露見しては外聞が悪いと思うと同時、唯々諾々と犯されては、みじめであってはならないことだと思うと、「あさましく」。

わびしくあるまじきこと 02-254

「わびしく」+「あるまじき」と解釈するのが一般だろうが、「あり」は補助動詞、わびしい状態でいることはあってはならないと解釈する。「わびし」は自分の力のなさから来る無力感が原義。相手が帝の息子だからといって、無理に強姦される時に無抵抗でいていいはずがないと咄嗟に思ったのだ。そう思うと「あさましく」なってきたとつづく。

あさましく 02-254

事のよしあしとは別にして(露見して外聞が悪くなろうがそんなことより)、驚きあきれるばかりだ、無体だ。話にならぬ。こんなことが許されていいはずがないと感情が動き出した。空蝉の心情をもっとも捉えた重要語である。

息の下 02-254

息が荒く出るばかりで声にならない状態。一般には息も絶え絶えとされているが、ここは興奮のあまり息が上がって声にならない状態であろう。「わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど 息の下にひき入れ言少ななるが いとよくもて隠すなりけり/02-055」別に危篤に陥っているわけではない。

消えまどへる 02-255

「消え」は消える、死ぬ。「まどふ」は補助動詞で前の動詞が著しい状態にある。「る」は存続の「り」。

心苦しく 02-255

光源氏の心境。相手の身の上を思って心が痛む状態。

らうたげ 02-255

相手の労をいたわってやりたい、慰めてやりたいという気持ち。可憐の意味もあるが、ここでは放っておけない気持ち。

をかし 02-255

いろいろな状況で強く心が揺さぶられている。深い愛情とかわいそうだとの同情。

しるべ 02-256

導き。偶然の機会ではあるが、以前から持ち続けてきた空蝉への深い愛情に導かれてここにやって来たのに。

思はずにも 02-256

光源氏にとっては思いも掛けず。

おぼめいたまふ 02-256

「い」は「き」の音便変化。「おぼめく」はわからない振りをしてはぐらかす。「人違へにこそはべるめれ/02-254」と言った空蝉の言葉を受けた表現。

好きがましきさま 02-257

無体な真似、要するに相手の気持ちを無視して強姦すること。実際には強姦にちかい。

よに…じ 02-257

よもや…することはない。

見えたてまつら 02-257

光源氏が空蝉にそういう様子を見せる。「見え」は「たてまつる」に続くので、受け身ではなく使役。

小さやか 02-258

「さやか」は見た目にはっきり表れている。いかにも小さい。

障子のもと 02-258

中将が湯をつかいに出た場所であり、光源氏が侵入した場所である、北の障子。

出でたまふにぞ 02-258

ちょうど障子を出かかったところに。「ぞ」はまさしくその時にという強調。

求めつる 02-258

空蝉が寝苦しく「中将の君はいづくにぞ/02-247」と呼んだことを受ける。

いみじく 02-259

神聖なもの・不浄なものなど、日常感覚から離れた、触れてはならないものに接したときの感覚。

匂ひみち 02-259

光源氏の美質として特殊な匂いを発する点があげられる。「名高うおはする宮の御容貌にもなほ匂はしさはたとへむ方なく/01-140」(名高くいらっしゃっる東宮の御容貌であっても、匂い立つ美質は比べようがなく)。

くゆりかかる 02-259

匂いがまとわりつく。臭覚としてだけではなく、触覚として神々しい匂いに触れた。

思ひ寄りぬ 02-259

その特殊な匂いから相手が誰とわかった。もちろん、中将がそれまでに光源氏の匂いを知っていたわけではない。神々しい感覚に捕らわれたため、それは誰かと思えば、もはや光源氏以外にないと判断したのである。

02-260
◇ 「あさましう」→「思ひまどはるれ」

あさましう 02-260

とんでもないことに驚きあきれる。

いかなることぞ 02-260

なぜこういう事態になっているのか。光源氏が侵入できるはずないのに、どうして主人がさらわれているのか。

まどはるれ 02-260

「まどふ」は補助動詞で前の動詞が著しい状態にある。「るれ」は自発「る」の已然形。

聞こえむ方なし 02-260

相手が高貴すぎて、どう言葉をかけてよいのか、その仕方がない。

荒らかにも 02-261

荒々しい手段をつかってでも。

かなぐらめ 02-261

ひきむしる、無理に奪いとる。

それだに 02-261

無理矢理に奪い返すことができたとしても。

人のあまた知らむ 02-261

騒ぎを聞きつけ、多くの人に知られることとなり、留守である空蝉の主人、伊予介の耳に入ることになる。それを恐れた。

慕ひ来たれ 02-262

寝殿の西側にある北の障子から、東側の母屋の前まで、主人を心配して着いてきたが。

動もなくて 02-262

後に女房が着いてきても、光源氏は一向に動じることなく。

奥なる御座所 02-262

本来光源氏の寝所として与えられていた、寝殿東側の母屋内の寝所。図のV。

奥なる 02-262

ここから先は貴人のプライベート空間なので、立ち入ることができないという空間感覚をいうのであろう。

ひきたて 02-263

人の口に戸を立てるなど、「たてる」は戸口の出入りをふさぎ止めること。

暁 02-263

夜が白み出す頃。男女の別れの時間。

ものせよ 02-263

来る・行く・食べるなどの動作を直言するのを避ける代動詞。

02-264
◇ 「女は…いと悩ましげなる」:AはB連体形

女 02-264

男女の関係に入ったことを暗示する表現。空蝉。

この人 02-264

中将の君。

思ふらむことさへ 02-264

「らむ」は現在推量、今思っている内容。「さへ」はまでも。光の行動ばかりか、味方である女房がどう思っているかということまでもが。危急の状態でどこまで頭が働いたかは覚束ないが、男が侵入を成功させるには、女房たちのうちの誰かの手引きが必要であり、それがないとすれば、女主人自らが招き入れたと考えざるをえない。自分に非はないのに、男を入れた責任を着せられてはとやきもきするのだ。

わりなき 02-264

状況を打開する道がない閉塞状態。

流るるまで汗になり 02-264

この表現を入れる必然性はないだけに、この表現は文学的だ。女の汗が性的興奮を高めている。空蝉のどこに惹かれるのか、この時期思いをかけながら思うようにならない藤壺の身代わりという以上の魅力を、正直感じられないが、この箇所だけはリアルだ。他の女が示さなかった汗にまつわる匂いの魅力こそが、光源氏をして忘れられぬ女にしたのだろう。

悩ましげ 02-264

悩んでいるように見える様。

02-265
◇ 「いとほしけれど」→「のたまひ尽くす」 
◇ 「例の」→「のたまひ尽くす」 
◇ 「いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ」:挿入句

いとほしけれ 02-265

弱者に対する同情心。

ど 02-265

逆接。同情心が沸き起こりながらも、口説かずにはおかない屈折がこの逆接。

例の 02-265

光源氏の本性であるところの。

あはれ知らる 02-265

「あはれ」は深い感情、この場合愛情、性愛。「知らる」は「知る」+自発の「る」。聞いているだけで、感情が高ぶってくる。言葉で女を興奮させるのだ。すでに体に火がついている。

情け情けしく 02-265

情のこまやかな様子。

ここはそれまでのやりとりをまとめている箇所なので、これまでの光源氏の言葉と空蝉の心理を簡単に整理しておく。
・「深からぬ心のほど」と見えるだろうが長く待ってやっと会う機会を得たのだから「さらに浅くはあらじと思ひなしたまへ/02-253」
・「あるまじきことと思へばあさましく/02-254」
・「あはれ知らるばかり情け情けしくのたまひ尽くすべかめれ/02-265」
・「なほいとあさましき/02-266」

02-266
◇ 「いとあさましきに」→「と(て)」 
◇ 「とて」→「思ひ入りたる/02-267」

なほ 02-266

上で整理した通り、当初、夫がある身で強姦などあってはならないと「あさましく」感じ、光源氏の言葉に体は反応、すでに体は濡れてきているけれど「あはれ知らるばかり」、それでもやはり。

あさましき 02-266

見下げられたことに対する反発。すぐに寝る女ではないというプライド。

現ともおぼえずこそ 02-266

「こそ」は前に原因が述べられ、だからこそ…なのだとその帰結が後ろで述べられる。それが省略されている。光源氏の言葉によって受け入れ体制はできているが、身分の差を意識が乗り越えられない。そのため光源氏に言い寄られても愛される理由が実感できず、本心を疑ってしまうのだ。「こそ」の後には身を任せられない等が隠れている。体は光源氏に反応しているが、頭と気持ちはまだ抵抗せずにはいられない。

数ならぬ身ながらも 02-266

空蝉自身、今では人数にも入らない低い身分ではあっても。

思しくたしける 02-266

見下す。もともと帝の子を孕もうと思っていたほど気位が高いので、社会的ランクが落ちた今、かえって光源氏とのランクさがコンプレックスとして全面に出てしまうのだ。

御心ばへのほども 02-266

こうした行動は愚か、あなた様のお気持ちまでもが。

いかが…ざらむ 02-266

どうしてしないだろうか。いやする。

浅くは思うたまへ 02-266

浅く思えてしまう。深くは感じられない。「さらに浅くはあらじと思ひなしたまへ」に対して、そうは思えないという切り返し。

いとかやうなる際は際とこそはべなれ 02-266

どの注釈も手を焼いている箇所。こういう場合、一番いいのは、つじつま合わせはやめて、素直に解釈することである。先ず、「こそ+已然形」は後ろに逆接でつながるという基本を思い出そう。「なれ」は伝聞。光源氏の真意を突こうとしているのであって、どこからか聞いてきた話を今しているわけではない。「際」は筋と筋の境で、それがはっきりしていることが「際立つ」。区別ははっきりしていることが「際」。従ってこの場合は、光源氏との身分の違いをいう。高い身分は高い身分、卑しい身分は卑しい身分、それが「際は際」の意味。もちろん、ここは空蝉の卑下である。卑しい身分はその身分にふさわしく、抵抗するなということでしょうが。そうは参りません。

02-267
◇ 「深く」→「思ひ入りたる」 
◇ 「情けなく」「憂し」:並列 
◇ 「心恥づかしきけはひなれば」→「よろづにのたまへ/02-268」

おし立ち 02-267

無理強い。空蝉の気持ちを無視して強姦しようとしていること。

げにいとほしく 02-267

「げに」は本当に。「いとほしけれど/02-265」に対して。「いとほし」は弱者に対する同情心。光源氏は身分違いの空蝉は抵抗し切れないことを知っている。「いとほし」にはそうした心のゆとりがある。

心恥づかしきけはひ 02-267

空蝉が光源氏に対して抵抗しながらも、その高貴さと光源氏のもつ美質に惹かれて立派だと賛嘆する感情が内面から外に現れ出ている。「けはひ」は内から外へ出ている様子。

02-268
◇ 「聞きたまふ」:客体は「あながちなる好き心は、さらにならはぬを」 
◇ 「さるべきにや」→「ことわりなる」 
◇ 「げに」:挿入句 
◇ 「かくあはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを」:「心まどひを、かくあはめられたてまつるも、ことわりなる」の倒置表現 
◇ 「のたまへど」→「つれなくのみもてなしたり/02-269」

その際々を 02-268

空蝉の言葉「いとかやうなる際は際とこそはべなれ/02-266」を受けた表現。「際は際」だと言うが、その際々の区別がつかないウブだから。

初事 02-268

初体験ではなく、まだうぶい、経験が浅いことを言う。

おしなべたる列 02-268

並みの人と同列。

うたて 02-268

気に入らぬ。

あながちなるすき心 02-268

要するに無理に手籠めにすること。

さるべきにや 02-268

平たく訳せば、そうであるのが同然だからなのだろう。何に対して言っているのかというと、経験が浅くて気が動顛していることを、人妻からばかにされるのも当然だ。空蝉は身分差を訴えているのに対して、光源氏は経験豊な人妻と経験の浅い自分という対立にもちこみ、わたしの純情な思いを馬鹿に見えるだろうと自嘲的な態度に出て、相手を丸め込もうとしているのだ。

げに 02-268

「さるべきにや」はそうに違いないとの客観的判断、「げに」は確かにそうだとの実感、同じことを客観と主観で繰り返した。

あはめられたてまつる 02-268

「動詞の受け身+謙譲の補助動詞」。「あはめ」は、軽んずる。主語は光源氏で、空蝉から軽んじられるの意味。謙譲語の対象は主語には向かわないので、空蝉に対して働く。空蝉が主語、光源氏が目的語であれば、謙譲語は光源氏に対して働く。「たてまつる」は受け身と一緒に用いられることが多いので注意したい。

心まどひ 02-268

惑乱。

あやしきまで 02-268

「まで」とあるので、心理的にはあやしく思う程度がよほど進んでいるということ。従って、単に不思議だではなく、不思議でならぬというニュアンス。

まめだちて 02-268

誠実であろうと努める。(雨夜の品定め冒頭参照)、見せかけるのではない。

02-269
◇ 「すくよかに」「心づきなし」(並列)→「見えたてまつる」

いとたぐひなき御ありさま 02-269

光源氏の様子。「ありさま」はこの時、五感でとらえ得た光源氏の情報すべて。暗がりなので視覚のみではない。におい、話し方、身のこなし、抱擁テクニックなど。

うちとけきこえむ 02-269

気持ちを許し、自らの意思で光源氏を受け入れること。

わびしけれ 02-269

荒寥とした気分が深まる。これも本来、帝の子を妊るつもりでいたのに、父を失い、受領の後妻に成り下がったことが後をひいている。すでに状況を打開する力が無い状態をさらにひしと感じるのが「わびし」。

すくよかに 02-269

体や心がすくみあがった状態無愛想。

心づきなし 02-269

こころがつく、すなわち愛情がわくの意味、それがない状態が「心づきなし」。

見えたてまつるとも 02-269

そのように光源氏から思われようとも。受け身につきた「たてまつる」。見られる主体は空蝉、相手は光源氏からで、「たてまつる」は光源氏に対する敬意。

さる方の言ふかひな 02-269

そういう方面ではいくらく言っても効果がないものの意味。要するに、いくらくどいても決して落ちることがない。

過ぐしてむ 02-269

この場をやり過ごそう。要するに、強姦されるのは避けられないが、気持ちとしてそれを決して許しはしないという意思。

つれなし 02-269

気持ちとしては愛情を持ちながら、それを表面に出さず、冷淡にふるまうこと。

人柄のたをやぎたるに 02-270

性格が柔軟でしなやか。その上に。「に」は添加・累加であって、逆接ではない。「人柄のたをやぎたる」を示す描写はなかったように思う。強いて挙げれば「昼ならましかば覗きて見たてまつりてまし とねぶたげに言ひて顔ひき入れつる声す/02-243」くらいか。考えられるとすれば、宮中に上がり帝の情愛を射止めるつもりでいたのに、受領の後妻に収まり、生活してゆく柔軟性だろうか。

強き心 02-270

意思。具体的には「さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむ/02-269」の「てむ」に強い意志が表れている。

なよ竹 02-270

「なよ」は柔らか。一見ひよわそうなのに「竹」であるから折れにくい性質を持っているのである。「折る」は無理に遂げようとすれば、竹の性質として反発する。それはできそうにない「折るべくもあらず」。しかし、「たをやぎ」「なよ」という本来の性質に訴えれば牙城は崩れる。この二重性がこめられていることを先ず理解したい。「折る」は力で折ること。現時点では、力ずくでやりおおすことにはためらいがある。※ここで注意したいのは、話し手が光源氏の気持ちに入り込むことで、敬語が消えていることである。こうした現象がこの後にも続くのか注視したい。

心やましく 02-271

どうにもならない状況に対する不満で、空蝉の心境。

あながちなる御心ばへ 02-271

いくら抵抗しても気持ちを変えようとしない光の心のあり方。

言ふ方なし 02-271

言葉で光源氏の行動を阻止することはできないと覚悟した状態。空蝉はすでに「さる方かたの言いふかひなきにて過すぐしてむ/02-269」で、逃れられない状況をあきらめ、決して合意の上ではないことを最後の心のより所にすることを決めている。それが行動となって光源氏の眼に映るのが「言ふ方なしと思ひて泣く」である。

いとあはれなり 02-271

心が強く動く。同情もあり、愛情が深まり、情欲も高まる。それらが未分離の状態。

心苦しく 02-272

相手の様子を見て、気持ちがシンクロし、自分も苦しく胸が詰まる様子。光源氏が空蝉に対して抱く気持ち。

見ざらましかば 02-272

ここで思いを遂げなければ。「見る」は女性の顔を見ること。女性の顔を見ることができる状況とは、男女の関係になる時であり、性的関係を結ぶ意味となる。

口惜しからまし 02-272

後々悔しいだろうの意味であって、悔しかっただろうという過去の気持ちを言うのではない。女の涙でためらうの気持ちもよぎるが、それをかき消し、まさにこの瞬間に強姦することを決断したのである。直後に実事がなされたであろうが、その描写はない。事が成就し光源氏が慰めの言葉をかけるところから、物語は再開する。

疎ましきもの 02-273

ただただうとましいという存在。

おぼえなきさま 02-273

想像もしない出会い、要するに強姦なのだが、光はこれを正当化しようとしている。

契りある 02-273

縁がある。

世 02-273

男女のこと。すなわち、性愛。

おぼほれたまふ 02-273

頭が朧ろで呆けた状態。分別のなさ。大人であれば当然わかるはずのことがわからないという意味と、強姦されて呆然自失している状態の両用の意味をもつ。

恨み 02-273

男女間での恨み言。

02-274
◇ 「たぐひなく」→「(思うたまへ)まどはるる」

憂き身のほど 02-274

地方官の後妻という身分。

ありしながらの身 02-274

昔のままの体で。意味から考え過去のことと解釈がなされがちだが、今、十三四の体であればという現在の仮定である。こうした仮定が出るということは、女が今を見つめず、過去の自分を本当の自分であると思い込んでいる証拠になる。

かかる御心ばへ 02-274

「かかる」の意味を諸注は逃している。「見直したまふ」が愛情をもってやさしく抱いてもらうことであるのに対し、「かかる御心ばへ」はこのように身勝手な強姦を指す。逃してならないポイントは、女は強姦を否定せず、強姦そのものを見据えていること。強姦により空蝉はすでに光の女となったのである。ただ、かつて帝の正妻になりたいとまで高望みした空蝉は、今の身の上を肯定できないゆえ、光の愛も受け入れられないのである。いわば、空蝉は過去の時間の中に生きているのだ。

我が頼み 02-274

自分勝手な期待。

見直したまふ 02-274

愛情をもってやさしく抱いてもらうことであるのに対し、「かかる御心ばへ」はこのように身勝手な強姦を指す。逃してならないポイントは、女は強姦否定せず、強姦そのものを見据えていること。強姦により空蝉はすでに光の女となったのである。ただ、かつて帝の正妻になりたいとまで高望みした空蝉は、今の身の上を肯定できないゆえ、光の愛も受け入れられないのである。いわば、空蝉は過去の時間の中に生きているのだ。

後瀬 02-274

いまの逢瀬に対して、後にまた逢うこと。さらには、後に夫婦として結ばれること。

仮なる 02-274

一時のと訳されているが、後瀬を肯定しているからは、一時的にでも距離がひらくことは想定されているのだから、この仮りは時間的なこととは考えにくい。また、仮りであることを、愛情のない強姦と考える考え方もあるが、これも、ありしながらの身であれば強姦も認めていることを考えれば、強姦は仮りの要素ではない。時間の長短でも、愛情の有無でもなく、この出会いを仮りであるとしている要素は、今の身の上が本当の自分でないという現実感覚の欠乏にあるとしか考えようがない。

浮き寝 02-274

水鳥が浮いたまま寝ることに、つらいの憂しをかけた言葉。

見き 02-275

女と寝たこと。

な……そ 02-275

やわらなか命令、依頼。

多かるべし 02-276

話者の推測。いろいろと将来を約束して、女を慰めるになることだろう。

2020-05-23

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