ことと明くなれば障 帚木14章02
原文 読み 意味
ことと明くなれば 障子口まで送りたまふ 内も外も人騒がしければ 引き立てて 別れたまふほど 心細く 隔つる関と見えたり 御直衣など着たまひて 南の高欄にしばしうち眺めたまふ 西面の格子そそき上げて 人びと覗くべかめる 簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを 身にしむばかり思へる好き心どもあめり 月は有明にて 光をさまれるものから かげけざやかに見えて なかなかをかしき曙なり 何心なき空のけしきも ただ見る人から 艶にもすごくも見ゆるなりけり 人知れぬ御心には いと胸いたく 言伝てやらむよすがだになきをと かへりみがちにて出でたまひぬ 殿に帰りたまひても とみにもまどろまれたまはず またあひ見るべき方なきを まして かの人の思ふらむ心の中 いかならむと 心苦しく思ひやりたまふ すぐれたることはなけれど めやすくもてつけてもありつる中の品かな 隈なく見集めたる人の言ひしことは げにと思し合はせられけり
02129/難易度:☆☆☆
こと/と/あかく/なれ/ば さうじぐち/まで/おくり/たまふ うち/も/と/も/ひと/さわがしけれ/ば ひき/たて/て わかれ/たまふ/ほど こころぼそく へだつる/せき/と/みエ/たり おほむ-なほし/など/き/たまひ/て みなみ/の/かうらん/に/しばし/うち-ながめ/たまふ にしおもて/の/かうし/そそき/あげ/て ひとびと/のぞく/べか/める すのこ/の/なか/の/ほど/に/たて/たる/こさうじ/の/かみ/より/ほのか/に/みエ/たまへ/る/おほむ-ありさま/を み/に/しむ/ばかり/おもへ/る/すきごころ-ども/あ/めり つき/は/ありあけ/にて ひかり/をさまれ/る/ものから かげ/けざやか/に/みエ/て なかなか/をかしき/あけぼの/なり なにごこころなき/そら/の/けしき/も ただ/みる/ひと/から えん/に/も/すごく/も/みゆる/なり/けり ひと/しれ/ぬ/みこころ/に/は いと/むね/いたく ことづて/やら/む/よすが/だに/なき/を/と かへりみ-がち/にて/いで/たまひ/ぬ との/に/かへり/たまひ/て/も とみ/に/も/まどろま/れ/たまは/ず また/あひ/みる/べき/かた/なき/を まして かの/ひと/の/おもふ/らむ/こころ/の/うち いかなら/む/と こころぐるしく/おもひやり/たまふ すぐれ/たる/こと/は/なけれ/ど めやすく/もてつけ/て/も/ありつる/なかのしな/かな くまなく/み/あつめ/たる/ひと/の/いひ/し/こと/は げに/と/おぼし/あはせ/られ/けり
見る間に明けゆくので、障子口まで女をお送りになる。家の中でも外でも人気が騒がしいので、襖を締め立ててお別れする時には、心細くて、これが歌枕にあるあの隔ての関かと悲しまれた。御直衣などをお召しになって、南に面したおばしまで、しばしぼんやりとしておられる。西側の格子をそそくさと上げて、人々がのぞいているようだ。東西をはしる縁側の中ほどに立てた低いつい立ての上からかろうじてお見受けできるお姿に、身にしむばかり思いをつのらせる多情な女房たちもいるようだ。月は有明の月で光はかそけきながら、輪郭がくっきりとあらわれて、望月よりもかえって趣き深いあけぼのである。心などない空のけしきも、ただそれを見る人の心しだいで、艶美にも凄絶にも見えるものであった。人知れぬお心のうちはとても苦しく、逢えぬばかりか言葉を伝える方途さえないとは、とふりかえりふりかえり戻ってゆかれた。二条院にお帰りになっても、すぐにはお休みにならず、ふたたび相見る手立てもないのにと悩むにもまして、あの人はどういうお気持ちですごしておいでだろうか、その心持が知りたいと、心苦しいほど空蝉のことを思いやっておいでである。群を抜くというのではないが、よくたしなみを身につけてもいた中の品だな、あらゆる女性の型を知り尽くした左馬頭が言っていたのは、まったくだなと思い合せになるのだった。
ことと明くなれば 障子口まで送りたまふ 内も外も人騒がしければ 引き立てて 別れたまふほど 心細く 隔つる関と見えたり 御直衣など着たまひて 南の高欄にしばしうち眺めたまふ 西面の格子そそき上げて 人びと覗くべかめる 簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを 身にしむばかり思へる好き心どもあめり 月は有明にて 光をさまれるものから かげけざやかに見えて なかなかをかしき曙なり 何心なき空のけしきも ただ見る人から 艶にもすごくも見ゆるなりけり 人知れぬ御心には いと胸いたく 言伝てやらむよすがだになきをと かへりみがちにて出でたまひぬ 殿に帰りたまひても とみにもまどろまれたまはず またあひ見るべき方なきを まして かの人の思ふらむ心の中 いかならむと 心苦しく思ひやりたまふ すぐれたることはなけれど めやすくもてつけてもありつる中の品かな 隈なく見集めたる人の言ひしことは げにと思し合はせられけり
大構造と係り受け
古語探訪
ことと 02129
スピード感。
障子口 02129
空蝉の寝所である母屋の西部屋と光の寝所であり、二人が契りを交わした場所である母屋の東部屋との間をし切る襖障子である。
隔つる関 02129
歌枕で、愛し合う男女を引き裂くものとして、和歌によく詠まれた。
高欄 02129
欄干、おばしま。
西面の格子 02129
寝殿の西側の格子であろう。
簀子 02129
縁側。
ほのか 02129
感知されている部分の少なさ(欠如)を言うというよりも、見えていない部分に対する興味が大きいこと(充実)を表す表現である。量的には少ないがプラスである。
「月は有明にて 02129」で始まる一文
この文は、当時の王朝の美意識にない紫式部独自の美意識をいわば宣言した一文として有名である。完全なるものより欠けたものへの美、いわば「みやび」に対する「わび」である。この読みはたしかに当を得ていようが、読みとして決定的に大事な視点が欠けている。先ず、整理すべきは、満月と有明の月を比較をしているのではなく、満月の夜のあけぼのと有明の月のあけぼのが比較されているのである。満月の夜の明るさを現代の感覚で理解してはいけない。その明るさでは、忍んで恋人に逢いにゆくことはためらわれたことであろう。恋人と別れである後朝の歌は、有明の月と不可分に結びついている。従って、この一文は、新しい美意識の宣言であるより、後朝の朝の感覚は特別なものであるという、実に王朝の美そのものと言えるのではないか。その特別な感覚をもって見ると、空のけしきも見る人により、艶にもすごくにも見えるのである。「何心なき空のけしきも」の一文を、後朝の朝と切り離して読んでは、まったく文脈を離れて哲学問答になる。また再び逢える恋人たちには、空のけしきが艶に映るであろうし、再び逢えぬ見こみのない恋人たちには、同じけしきがすさまじいものに映るであろう。後朝の別れという感情の振幅が、普段では意識させないものを意識させるのである。なお、艶は女房たちの意識、すごしは光の意識という読みがあるらしいが馬鹿げているにもほどがある。「艶にもすごくも」は並列の関係であって、この文ではどちらに重きもない。それを女房と光に当てはめうるのは、この場面で光と女房が対等に扱われている限りにおいてである。しかし、そんな読みが成立しないことは、明らかである。一文にしかあらわれない女房と光を対等にはおけるはずもない。女房は艶の側、光はすごしの側であるということは、結果として引き出せることであるが、「艶にもすごくも」の個所を指し、艶は女房の意識と読む読みは、本末転倒で、根本的に読みの態度が間違っている。文章構成の上で対等に扱われているのは光と空蝉である。しかし、二人をそれぞれに振り分けることは、文脈上できないのであるから、この一文は、光たちの後朝を念頭におきながらも、恋人たちの後朝一般に視点を広げていると考えるよりない。明言しないでも、光と空蝉が後者の部類に属することは知られるからだ。
かげ 02129
月の輪郭。
なかなか 02129
かえって。満月よりもかえって趣き深いの意味。興味を引く。
殿 02129
自邸である二条院。次回に出る「大殿」は妻の実家である左大臣邸。そうした区別はないという意見もある。確実にここは二条院、ここは左大臣邸とわかる個所において、この区別に矛盾はなく、さらにそう読み分けたほうが、より深く理解できると思われるので、すべてにこの区別があてはまるのかは、検証してゆかねばならないが、この区別を採用してゆくつもりでいる。因みにここは、二条院とも左大臣邸とも判然としがたいが、浮気して来た朝帰りに帰る先としては、二条院である可能性が高いであろう。
方 02129
方策、方法。
まして 02129
逢える方法はないかと自分の欲求を満たすことを考える以上に、強引なし方で関係を結んだ人妻の空蝉のことを考えているということ。人を好きになれば、自分のことより、先ず相手のことを考えるのは自然な感情であろう。
らむ 02129
「思ふらむ」の「らむ」は現在推量。今、どう思っているだろうか。
めやすくもてつけてもありつる 02129
「めやすく」の原義は見た目に感じがよい、安心して見ていられるということ。「もてつく」は努力して身につける意味である。従って、「めやすく」は生まれついた顔や姿の美醜を言うのではない。努力して得られた結果、感じ良くみせるものということで、広くたしなみを言うと考えてよい。ただし、エピソード内では、逃げ惑っていただけの感じもして、そうしたたしなみを示す場面はあったようにもないが、会話や光への返歌に教養が忍ばれるのであろう。もっともそれらは、光がこれまで馴染んできた上流階層の女性たちには劣っていた。それが「すぐれたることはなけれど」である。一級の女性のたしなみには劣るが、考えてみると、感じがいいくらいには身につけてもいたのである。「もてつけてもありつる」の「も」のニュアンスに留意したい。すぐにそれとわかるほどめやすいわけではなく、もてつけてないこともなかったのである。この意識は重要で、空蝉に対しては惚れたと言ってよかろうが、一般に解釈されているように、それが即、中の品へ夢中になった、とは言いがたい。上流階級以外にも悪くない女がいるという発見をし、そうした見方から中の品の女を見直しているのである。従って、左馬頭守の意見に同意しているのは、中の品にも見所のある女がいるのだなということであって、一般に考えられているように、中の品の女はすばらしいというのではない。第一、中の品を推奨した個所もあるにはあるが、左馬頭守の結論は、女はわからないというものであった。