人びと渡殿より出で 帚木12章03
- 1. 原文 読み 意味
- 1.1. 大構造と係り受け
- 1.1.1. 古語探訪
- 1.1.1.1. 人びと 02121
- 1.1.1.2. 渡殿 02121
- 1.1.1.3. 出でたる泉 02121
- 1.1.1.4. のぞきゐて 02121
- 1.1.1.5. 主人も 02121
- 1.1.1.6. 肴求む 02121
- 1.1.1.7. ほど 02121
- 1.1.1.8. かの 02121
- 1.1.1.9. 中の品 02121
- 1.1.1.10. この並 02121
- 1.1.1.11. 思ひ上がれる気色 02121
- 1.1.1.12. 女 02121
- 1.1.1.13. 西面 02121
- 1.1.1.14. 音なひ 02121
- 1.1.1.15. にくからず 02121
- 1.1.1.16. さすがに 02121
- 1.1.1.17. 忍びて笑ひ 02121
- 1.1.1.18. ことさらび 02121
- 1.1.1.19. 格子を上げたりけれ 02121
- 1.1.1.20. 守 02121
- 1.1.1.21. 心なし 02121
- 1.1.1.22. 下し 02121
- 1.1.1.23. 透影 02121
- 1.1.1.24. 障子の上 02121
- 1.1.1.25. 見ゆや 02121
- 1.1.1.26. 隙もなければ 02121
- 1.1.1.27. 聞きたまふに 02121
- 1.1.1.28. 聞きたまへば 02121
- 1.1.1.29. うちささめき 02121
- 1.1.1.30. わが御上なるべし 02121
- 1.1.1.31. べし 02121
- 1.1.1.32. いといとうまめだちて 02121
- 1.1.1.33. まだきに 02121
- 1.1.1.34. やむごとなきよすが 02121
- 1.1.1.35. さうざうしかめれ 02121
- 1.1.1.36. さるべき 02121
- 1.1.1.37. 隈 02121
- 1.1.1.38. 隠れ歩きたまふなれ 02121
- 1.1.1.39. 思すこと 02121
- 1.1.1.40. ついで 02121
- 1.1.1.41. 聞きつけたらむ時 02121
- 1.1.1.42. ことなること 02121
- 1.1.1.43. 聞きさし 02121
- 1.1.1.44. 式部卿宮 02121
- 1.1.1.45. 姫君 02121
- 1.1.1.46. 朝顔奉りたまひし歌 02121
- 1.1.1.47. 頬ゆがめて 02121
- 1.1.1.48. くつろぎがましく 02121
- 1.1.1.49. 歌誦じがち 02121
- 1.1.1.50. なほ見劣りはしなむかし 02121
- 1.1.1. 古語探訪
- 1.1. 大構造と係り受け
原文 読み 意味
人びと 渡殿より出でたる泉にのぞきゐて 酒呑む 主人も肴求むと こゆるぎのいそぎありくほど 君はのどやかに眺めたまひて かの 中の品に取り出でて言ひし この並ならむかしと思し出づ 思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば ゆかしくて耳とどめたまへるに この西面にぞ人のけはひする 衣の音なひはらはらとして 若き声どもにくからず さすがに忍びて 笑ひなどするけはひ ことさらびたり 格子を上げたりけれど 守 心なし とむつかりて下しつれば 火灯したる透影 障子の上より漏りたるに やをら寄りたまひて 見ゆや と思せど 隙もなければ しばし聞きたまふに この近き母屋に集ひゐたるなるべし うちささめき言ふことどもを聞きたまへば わが御上なるべし いといたうまめだちて まだきに やむごとなきよすが定まりたまへるこそ さうざうしかめれ されどさるべき隈には よくこそ 隠れ歩きたまふなれ など言ふにも 思すことのみ心にかかりたまへば まづ胸つぶれて かやうのついでにも 人の言ひ漏らさむを 聞きつけたらむ時 などおぼえたまふ ことなることなければ 聞きさしたまひつ 式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを すこしほほゆがめて語るも聞こゆ くつろぎがましく 歌誦じがちにもあるかな なほ見劣りはしなむかし と思す
02121/難易度:★☆☆
ひとびと わたどの/より/いで/たる/いづみ/に/のぞき/ゐ/て さけ/のむ あるじ/も/さかな/もとむ/と こゆるぎ/の/いそぎ/ありく/ほど きみ/は/のどやか/に/ながめ/たまひ/て かの なかのしな/に/とり/いで/て/いひ/し この/なみ/なら/む/かし/と/おぼし/いづ おもひあがれ/る/けしき/に/ききおき/たまへ/る/むすめ/なれ/ば ゆかしく/て/みみ/とどめ/たまへ/る/に この/にしおもて/に/ぞ/ひと/の/けはひ/する きぬ/の/おとなひ/はらはら/と/し/て わかき/こゑ-ども/にくから/ず さすが/に/しのび/て わらひ/など/する/けはひ ことさらび/たり かうし/を/あげ/たり/けれ/ど かみ こころなし/と/むつかり/て/おろし/つれ/ば ひ/ともし/たる/すきかげ さうじ/の/かみ/より/もり/たる/に やをら/より/たまひ/て みゆ/や と/おぼせ/ど ひま/も/なけれ/ば しばし/きき/たまふ/に この/ちかき/もや/に/つどひ/ゐ/たる/なる/べし うち-ささめき/いふ/こと-ども/を/きき/たまへ/ば わが/おほむ-うへ/なる/べし いと/いたう/まめだち/て まだき/に やむごとなき/よすが/さだまり/たまへ/る/こそ さうざうしか/めれ されど さるべき/くま/に/は よく/こそ かくれ/ありき/たまふ/なれ など/いふ/に/も おぼす/こと/のみ/こころ/に/かかり/たまへ/ば まづ/むね/つぶれ/て かやう/の/ついで/に/も ひと/の/いひ/もらさ/む/を ききつけ/たら/む/とき など/おぼエ/たまふ ことなる/こと/なけれ/ば ききさし/たまひ/つ しきぶきやう-の-みや/の/ひめぎみ/に/あさがほ/たてまつり/たまひ/し/うた/など/を すこし/ほほゆがめ/て/かたる/も/きこゆ くつろぎ-がましく うた/ずんじ-がち/に/も/ある/かな なほ/みおとり/は/し/な/む/かし と/おぼす
供の者らは渡り廊下の下をくぐって流れる泉を見下ろす場所に座して酒をのむ。主人の紀伊守も風俗歌の主人がゆるぎの磯を酒の肴を求めてまわったようにあちこち酒宴の準備に立ち回っている間、光の君はあたりを心のどかにお眺めになって、あの時の左馬頭たちらが中の品として特に取り上げたのは、この家格あたりなのだろうと思い出しになった。伊予介の後妻は自分こそ貴人の妻にふさわしい女だと高望みしている様子だとかねがね聞き及んでいた娘なので、どんな女性か知りたくて聞き耳を立てていらっしゃると、この建物の西廂の間に女たちの気配がする。衣擦れの音がさらさらとして、若い女たちの声がするのもまんざら悪くはないが、さすがにこちらを気にして声をひそめて笑ったりする様子は不自然さを否めない。格子を上げ立てると、紀伊守が不用意だと小言を言うので下ろすことになり、火が点って人影が襖障子の上から漏れ出たので、光源氏はそっとお寄りになり見えるかしらと期待されたが襖は隙間もないので、しばらく聞き耳を立てていらっしゃると、この母屋のうちでもすぐ間近に女たちが集っているらしい、ひそひそとささめくことどもをお聞きになってみると、どうやらご自身のことのようであった。「極々まじめなお方で、まだうら若い身空でもう立派なご身分の奥方が決まっていらっしゃるなんて、つまらないでしょうね」「けれどちゃんと立派な隠し妻があって、よく忍んでお通いだとか」など言うにつけ、胸におさめた藤壺との一件ばかりが心にかかっておられるので、まづ胸がつぶれて、「こうした機会にも誰か言い漏らすようなことがあって、耳にすることになったら」などとぞっとなさる。しかしながら別段興味をそそるものでもなかったので、途中で聞くのをお止しになった。式部卿宮の姫君に朝顔を差し上げた折りの歌などを、得意げに尾ひれをつけて語るのも聞こえる。「気をゆるめるにも程があり人の秘め歌までも遠慮なく朗々と読み上げそうな勢いだな、女房がこれでは主人も会えばやはりがっかりするだろうな」とお思いになる。
人びと 渡殿より出でたる泉にのぞきゐて 酒呑む 主人も肴求むと こゆるぎのいそぎありくほど 君はのどやかに眺めたまひて かの 中の品に取り出でて言ひし この並ならむかしと思し出づ 思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば ゆかしくて耳とどめたまへるに この西面にぞ人のけはひする 衣の音なひはらはらとして 若き声どもにくからず さすがに忍びて 笑ひなどするけはひ ことさらびたり 格子を上げたりけれど 守 心なし とむつかりて下しつれば 火灯したる透影 障子の上より漏りたるに やをら寄りたまひて 見ゆや と思せど 隙もなければ しばし聞きたまふに この近き母屋に集ひゐたるなるべし うちささめき言ふことどもを聞きたまへば わが御上なるべし いといたうまめだちて まだきに やむごとなきよすが定まりたまへるこそ さうざうしかめれ されどさるべき隈には よくこそ 隠れ歩きたまふなれ など言ふにも 思すことのみ心にかかりたまへば まづ胸つぶれて かやうのついでにも 人の言ひ漏らさむを 聞きつけたらむ時 などおぼえたまふ ことなることなければ 聞きさしたまひつ 式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを すこしほほゆがめて語るも聞こゆ くつろぎがましく 歌誦じがちにもあるかな なほ見劣りはしなむかし と思す
大構造と係り受け
古語探訪
人びと 02121
光源氏の従者たち。
渡殿 02121
この場合、下に水の流れがあることから、寝殿と東の対屋をつなぐ屋根付きの渡り廊下であろう。屋根があるので泊まることもできた。
出でたる泉 02121
泉は湧き水の場合と引き入れた水の場合があるが、「中川のわたりなる家なむこのころ水せき入れて/02120」とあるので、堰き止めて引き入れた水である。
のぞきゐて 02121
「ゐる」は座る。
◇ 「こゆるぎの」:「いそぎ」に係る枕詞的用法。「こゆるぎ」は小さく体を揺すっての意味と、「余綾の磯(よろぎのいそ)神奈川県の大磯のあたり」をかける。
◇ 「いそぎ」:準備をするの意味の「いそぐ」と、磯をかける。
◇ 「かの…言ひし」:AのB連体形
主人も 02121
この邸の主人も、風俗歌(次注)の主人同様に。
肴求む 02121
「玉垂れの 小瓶(をがめ)を中に据ゑて あるじはも や 肴まぎに 肴とりに こゆるぎの磯の 若布(わかめ)刈り上げに 若布刈り上げに/風俗歌 玉垂れ)を受ける。大切なのは「若布刈り上げに」の部分。若布は若女(わかめ)に通じ、「刈り上げ」は「借り上げ」に通じる。紀伊守は酒宴の肴の準備をする一方で、期せずして光源氏のために若い女を物色している最中であることを暗示する。この部分がのちの光源氏の発言「とばり張」の下準備となっている。語り手の言葉があたかも影響して話中の主人公が動くという、近代小説にはできない語りを感じる。これも言葉が予期せず後に現実化する「(言=事)構造」であろう。
ほど 02121
している間。
かの 02121
「かの人びと」の略、すなわち、雨夜の品定で女性論を論じた頭中将や左馬頭。
中の品 02121
中流階級だが、もと上流階級ながら、時をえずして今は中流クラスでくすぶっている娘も中の品に入れるというのが、頭中将の考え。「元はやむごとなき筋なれど世に経るたづき少なく時世に移ろひておぼえ衰へぬれば心は心としてこと足らず悪ろびたることども出でくるわざなめればとりどりにことわりて中の品にぞ置くべき/02033」また「受領と言ひて人の国のことにかかづらひ営みて品定まりたる中にもまたきざみきざみありて中の品のけしうはあらぬ選り出でつべきころほひなり/02034」とある。
この並 02121
このクラス。
思ひ上がれる気色 02121
後に説明があり、亡き父(故衛門督)が宮仕えに出そうと考えていたとのことで、娘はそこで帝の正妻になろうと考えていた(「宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せしいかになりにけむ/02030」)。「思ひあがる」は単に気位が高いだけでなく、「はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々めざましきものにおとしめ嫉みたまふ/01002」でみたように、正妻となって皇子を産む気構えでいること。ここは空蝉を理解する上でのキーワードである。帝の子をもうけたいとまで思っていた娘が伊予介の後妻の地位で満足できるはずがない。光源氏を拒絶しきれず、貴種である光源氏に惹かれる要素が空蝉にはあるのだ。
女 02121
空蝉のこと。
西面 02121
寝殿の西側半分(母屋の西側半分、西の廂、北と南の廂の西側半分、および付随する簀子(すのこ)など)。
音なひ 02121
音が聞こえること。
にくからず 02121
かわいい、好ましい。
さすがに 02121
そうはいってもさすがに限度があり。
忍びて笑ひ 02121
周囲に聞かれないように声を押し殺すようにして笑う。
ことさらび 02121
わざとらしい。光源氏にすれば、自分に気兼ねされるとほしい情報が出てこないので、好ましくないのである。
◇ 「隙もなければ」:「見えず」などが後に省略。
◇ 「この近き母屋に集ひゐたるなるべし」:挿入句。
◇ 「うちささめき言ふことどもを聞きたまへば」:挿入句を挟んだので、「(しばし)聞きたまふに」を言い換えて繰り返した。
格子を上げたりけれ 02121
暑い季節なので風を通すために格子を上げさせた。格子を締め切ると部屋が真っ暗になるので火を入れたのである。火を入れた云々は省略されている。
守 02121
この邸の主人である紀伊守。
心なし 02121
不用心だ。思慮が足りない。光源氏という貴人が泊まりに来ているので、失礼があってはならない。
下し 02121
格子を下ろす。
透影 02121
隙間越しに透けて見える影。
障子の上 02121
「障子」は母屋を東と西に隔ている襖障子。襖障子の上は空間があいているので、空蝉たちのうごめく影が天井にぼんやりと映るのだ。ここを「障子の紙」とする説がある。障子紙は今の襖紙だから透けない。そのため、左右の障子の合わせ目から影が漏れ出ていると解釈されるが、「隙もなければ」とあり光源氏は透き見を試したがだめだったのだ。火があり、その周りに何らかの透ける紙があり、空蝉がいて、障子の上の隙間から天井にぼんやりと影がうつる。
見ゆや 02121
女たちが見えるだろうか。
隙もなければ 02121
障子の合わせ目がぴったり閉まって隙がないので。後に「見えざるにより」などが省略されている。隙を女との距離が近いのでと解釈するのは無理がある。
聞きたまふに 02121
透き見ができなかったので、その代わりとして、中の様子をうかがうために聞き耳を立てる動作をしたこと。
聞きたまへば 02121
ここは実際に音声が耳に入って来たこと。
うちささめき 02121
ひそひそ小声で話すこと。「うち」はちょっと。
わが御上なるべし 02121
敬語が間違っていると説明されるが、この「わが」は第三者に対して「わがこと」のように心配するとか、あの人も「わが身」を振り返るべきだなど、一人称ではなく自分のという意味の三人称で使用する表現。英語のmyではなくselfに当たる。さてまた「なるべし」は「聞きたまふに…なるべし」「聞きたまへば…なるべし」という呼応関係の中で成立している表現であるから、光源氏が推量しているのではなく、話し手が光源氏の立ち場にたって推量している表現である。ここがポイント。話し手が光源氏に対して御をつけたのであり、形は似ているが天皇が自分の行為に敬語を使う自敬表現とは別である。
べし 02121
「わが御上」と断定的でないこと。
◇ 「いといたうまめだちて」→「定まりたまへる」
いといとうまめだちて 02121
たいそう生真面目で。「いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて/02002」とあった。
まだきに 02121
はまだ若いのに、まだその時期でもないのに。ここでは、若くて正妻を迎える年でもないのに。
やむごとなきよすが 02121
左大臣の娘である妻の葵の上のこと。
さうざうしかめれ 02121
そんなに早く落ち着いてしまっては、自由に恋愛もできず、物足りないだろうなということ。「めり」は直接的で視覚的、「なり」は人づてで聴覚的(次項参照)、「めり」の方がより鮮明に距離感近く感じている内容を表す。話の内容から空蝉ではなくお付きの女房の話と思われるが、内容的には主人である空蝉の気持ちを代弁している。空蝉が宮仕えの華々しい暮らしに憧れていたことがあり、せっかく高貴な身分で自由恋愛を楽しめたのにという自ら叶えられなかった願望がある。
さるべき 02121
しかるべき、それ相応な、ちゃんとした。
隈 02121
目立たない場所。
隠れ歩きたまふなれ 02121
「なれ」は伝聞。「めり」との対比は前項参照。
思すこと 02121
案じていること。藤壺との肉体関係。
ついで 02121
機会。
聞きつけたらむ時 02121
藤壺との関係を人がうわさをするのを自分が耳にする時が来たらどうしようかという心配。「かかる好きごとどもを末の世にも聞き伝へて軽びたる名をや流さむと忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ/02001」とあり、不名誉な噂が流れることを貴族がひどく恐れたことがうかがえる。
ことなること 02121
(異なること・殊なること)。特別なこと。表面的な噂話以上のものでなく、安心できたから、興味を失った。
聞きさし 02121
聞くのを途中でやめる。
式部卿宮 02121
親王で式部省の長官に任じられた人の称。父桐壺帝の弟で、光源氏の叔父にあたる。
姫君 02121
姫君は光源氏から朝顔を贈られたことから、朝顔の姫君と呼ばれる。このエピソードは、これ以前には描かれておらず、「朝顔」の帖で回想(光源氏32才、現在17才)という形で述べられる。そのため、「かがやく日の宮」という今は失われたまぼろしの帖を想定し、そこで朝顔の姫君との歌の贈答や、藤壺との関係が描かれていたという仮説が古くからある。一方で、出来事の結果のみを描く、一種の省略技法とする解釈もある。わたしは現存する本文のみをテキストの対象と考えているので、後者の立場をとる。この一文は確かに唐突ではある。しかし、仮にこの文を省いたとしよう。すると、「思すことのみ心にかかりたまへばまづ胸つぶれてかやうのついでにも人の言ひ漏らさむを聞きつけたらむ時などおぼえたまふ/02216」は、藤壺との関係がオープンになることを光源氏は危惧していることはわかるが、実際どの程度ことが露見する可能性があるのか、具体性が見えてこない。具体性のない文の典型が帚木の冒頭「光る源氏名のみことことしう言ひ消たれたまふ咎多かなるにいとどかかる好きごとどもを末の世にも聞き伝へて軽びたる名をや流さむと忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ/02001」であろう。論じているだけで、人物が動き出していないから、物語性を欠いてしまっている。ここは帖の冒頭、雨夜の品定めという女性論へとつなぐ文章であるから、物語性を欠くことがマイナスに働くこととは言えないが、すでに物語が動き出しているこの場面では、抽象論はなじまない。具体的なエピソードがほしいところであろう。
朝顔奉りたまひし歌 02121
「朝顔」の帖に、「匂ひもことに変はれる」朝顔につけて贈った歌「見し折のつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ」とあり、朝顔の姫君の起きがけの顔を見た思い出が歌に読み込まれている。朝寝顔とあれば、前夜を共にしたことが前提である。ただし、後年、朝顔の姫君は賀茂の斎院に選ばれるので、契りがあったのか不明である。婚生活を再開する。
頬ゆがめて 02121
ここで光は女房たちの顔を直視しているわけではないので、「頬ゆがめて」は比喩であり、耳にした話からそう判断したことになる。通例は「言葉を違える」と解釈されるが、それでは次の「なほ見劣りはしなむかし」という判断に続いていかない。得意げに尾ひれをつけて話すこととの説もある。後とのつながりが出る。しかし、同じく「朝顔」の帖で、「見し折のつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ」に対する朝顔の姫君からの返歌に「ほほゆがむ」が用いられているので、あとの帖ではあるがここでこの語の意味を考えてみたい。
「 何のをかしきふしもなきをいかなるにか置きがたく御覧ずめり青鈍の紙のなよびかなる墨つきはしもをかしく見ゆめり人の御ほど書きざまなどに繕はれつつその折は罪なきことも つきづきしくまねびなすにはほほゆがむこともあめればこそさかしらに書き紛らはしつつおぼつかなきことも多かりけり(何の美的感興もないが、どうしたわけか、光源氏は片付けるのがおしくてじっと御覧になっておられる様子。青鈍色の紙になよやかなる墨つきこそが美しく見えるみたい。人柄や書きぶりなどで繕われてしまい、書かれた当初は欠点がないことでも、ほかの者がこんなふうだったとその人に似つかわしいように真似て言葉を伝えると、つい思い違いもあることなので、分かったつもりで取り繕って書いてゆくうちには、よくわからないものになってしまうことが多いものです)」。その人らしい言葉つきを真似ようとしながら実際の言葉とはズレてゆくこを指す。それをこの場面に当てはめると、光源氏が送った歌や朝顔の姫の返しをさも、実際に聞いていたかのように、口まねや言葉を真似て読むが、実際のやりとりとは異なっているという意味になる。すなわち、単に言葉を違えるのではなく、その人になり切り一人称で語りながら言葉を間違うのである。後者は真に迫るだけに嘘かどうか第三者には判断しづらくなる。このようにして自己増殖してゆく偽の光源氏像に対する恐れが、「光る源氏名のみことことしう言ひ消たれたまふ咎多かなるにいとどかかる好きごとどもを末の世にも聞き伝へて軽びたる名をや流さむと忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ/02001」帚木の冒頭部分で語られているのであろう。朝顔の姫君と「ほほゆがむ」の関係が二度まで語られているということは、この姫君と「語り/騙り」の二重性とは親和性があると見てよい。雨夜の品定めの冒頭で、頭中将が読みたがった手紙も朝顔からのものであったのかも知れない。姫君はその高貴さゆえに、葵の上さえ引けを感じるほどであり、葵の死後、光源氏の正妻候補として取り沙汰されるが、光源氏との恋愛に苦しむ六条御息所のような轍を踏まないで距離をおいたとされる。朝顔の姫君がもし光源氏と結婚していたらどうなったかは、女四の宮と光源氏の関係で想像することができる。朝顔は直接姿を見せずにあたかも透き影として立ち現れるのが面白い。親和性という点では藤壺に最も近いのかも知れない。後年、なびくことのない朝顔の姫君のことを諦めた光源氏は、過去の女性のことを紫の上に振り返りながら語る。その夜、夢に亡くなった藤壺があらわれ、罪が露見して苦しんでいるとの訴える。藤壺との関係はもちろん紫の上にも語ってはいながい、物語の背後で藤壺と朝顔は結びついているのである。
くつろぎがましく 02121
度を越したくつろぎ方をいう。朝顔と光源氏の関係は、失意なものであり、当人をすぐ近くにしてすべき話柄ではない。
歌誦じがち 02121
「がち」はしがち。「誦す」は声を出して歌う。歌を歌う傾向が強いことだが、これではさっぱりわからない。この女房は自分の歌をうたうのではなく、人の恋歌や秘め歌をうたうのであろう。歌は女主人ともっともプライベートなやりとりである。こういう女房がいたのでは、恋愛しづらい。
なほ見劣りはしなむかし 02121
見劣りするのは女房とする説と、空蝉とする説がある。女房は光源氏の恋の相手ではないから、女主人である空蝉と考えるべきだろう。頭中将の女性論、取り巻きが女のあらを隠し、いいことばかり伝えるので、「まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうはなくなむあるべき/02022」とあった。光源氏も空蝉の知識は得ている。しかし、女房がこうなら実際に接すると、頭中将の言う通りやはり見劣りするだろうとの意味。女房では「なほ」が意味をなさない。