さていと久しくまか 帚木10章03

2021-05-14

目次

原文 読み 意味

さて いと久しくまからざりしに もののたよりに立ち寄りてはべれば 常のうちとけゐたる方にははべらで 心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる ふすぶるにやと をこがましくも また よきふしなりとも思ひたまふるに このさかし人はた 軽々しきもの怨じすべきにもあらず 世の道理を思ひとりて恨みざりけり 声もはやりかにて言ふやう 月ごろ 風病重きに堪へかねて 極熱の草薬を服して いと臭きによりなむ え対面賜はらぬ 目のあたりならずとも さるべからむ雑事らは承らむ と いとあはれにむべむべしく言ひはべり 答へに何とかは ただ承りぬとて 立ち出ではべるに さうざうしくやおぼえけむ この香失せなむ時に立ち寄りたまへ と高やかに言ふを 聞き過ぐさむもいとほし しばしやすらふべきに はたはべらねば げにそのにほひさへ はなやかにたち添へるも術なくて 逃げ目をつかひて
 ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせといふがあやなさ
いかなることつけぞやと 言ひも果てず走り出ではべりぬるに 追ひて
 逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひる間も何かまばゆからまし
さすがに口疾くなどははべりき と しづしづと申せば 君達あさましと思ひて 嘘言 とて笑ひたまふ いづこのさる女かあるべき おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ むくつけきこと と爪弾きをして 言はむ方なし と 式部をあはめ憎みて すこしよろしからむことを申せ と責めたまへど これよりめづらしきことはさぶらひなむやとてをり

02115/難易度:☆☆☆

さて いと/ひさしく/まから/ざり/し/に もの/の/たより/に/たちより/て/はべれ/ば つね/の/うちとけ/ゐ/たる/かた/に/は/はべら/で こころやましき/ものごし/にて/なむ/あひ/て/はべる ふすぶる/に/や/と をこがましく/も また よき/ふし/なり/と/も/おもひ/たまふる/に この/さかしびと/はた かろがろしき/もの-ゑんじ/す/べき/に/も/あら/ず よ/の/だうり/を/おもひ-とり/て/うらみ/ざり/けり こゑ/も/はやりか/に/て/いふ/やう つきごろ ふびやう/おもき/に/たへ/かね/て ごくねち/の/さうやく/を/ぶくし/て いと/くさき/に/より/なむ え/たいめん/たまはら/ぬ まのあたり/なら/ず/とも さるべから/む/ざうじ-ら/は/うけたまはら/む/と いと/あはれ/に/むべむべしく/いひ/はべり いらへ/に/なに/と/かは ただうけたまはり/ぬ/とて たち/いで/はべる/に さうざうしく/や/おぼエ/けむ この/か/うせ/な/む/とき/に/たちより/たまへ と/たかやか/に/いふ/を きき/すぐさ/む/も/いとほし しばし/やすらふ/べき/に はた/はべら/ね/ば げに/その/にほひ/さへ はなやか/に/たち/そへ/る/も/すべなく/て にげめ/を/つかひ/て
 ささがに/の/ふるまひ/しるき/ゆふぐれ/に/ひるま/すぐせ/と/いふ/が/あや/なさ
いかなる/ことつけ/ぞ/や/と いひ/も/はて/ず/はしり/いで/はべり/ぬる/に おひ/て
 あふ/こと/の/よ/を/し/へだて/ぬ/なか/なら/ば/ひるま/も/なに/か/まばゆから/まし
さすが/に/くちとく/など/は/はべり/き/と しづしづ/と/まうせ/ば きみたち/あさまし/と/おもひ/て そらごと/とて/わらひ/たまふ いづこ/の/さる/をむな/か/ある/べき おイらか/に/おに/と/こそ/むかひ/ゐ/たら/め むくつけき/こと と/つまはじき/を/し/て いはむかたなし/と しきぶ/を/あはめ/にくみ/て すこし/よろしから/む/こと/を/まうせ と/せめ/たまへ/ど これ/より/めづらしき/こと/は/さぶらひ/な/む/や/とて をり

「さて、すっかり足が遠のいていたのですが、あるよんどころない事情があって立ち寄りましたところ、いつもの気安く過ごした部屋ではございませんで、じれったい物越しでの対面なのです。焼いているのかと滑稽に感じる一方で、離縁に持ってこいの機会だと思いますのに、この賢女はいかにも軽々と嫉妬口にする様子もみせず、男と女の情理をわきまえ知って恨んだりいたしません。声もせかせかした調子で言うには、「この幾月か風病のひどさに耐えかねて、極熱冷ましの薬草を服してひどく臭きがゆえ対面しいたしかねます。面前ならずとも、妻のいたすべき雑用などは承ります」と、とても心を込めながら理屈然と述べ立てるのです。返事に何と言えましょう、ただ「わかりました」と坐を立って出ようとしますにものさびしく思えたのでしょう、「このにおいが消えました時にまたお立ち寄りください」と、声高に言うのを聞き流すのも気の毒ながら、しばしなりとくつろいでいられる状況ではさらさらございませんで、実際そのにおいまでぷんぷんと纏いつくもせん方なくて、逃げ目を使い、
《蜘蛛が巣作りする そのふるまい方で 私がまた来ることはすでにわかっているはずの夕暮れだというのに 蒜(ヒル)のにおいが消えるまで昼間を待ち過ごせと言うとは 理屈にあわぬではないか》
においが消えたらなどと遭いたくない口実をよく言えたものだ」と言いも終わらぬうちに走り出ましたところ、すぐ後を追って、
《お会いするのが一夜も間をあけられぬほど愛し合う仲であるならば 昼間であろうと蒜のにおいがしようと どうしていたたまれない気になりましょう》
さすがに間髪入れぬ詠みぶりではありましたよ」としずしず申しますと、君達はよくもしゃあしゃあと抜かしたものだとあきれはてて、「こしらえごとだ」とお笑いになる。「どこぞの子女にそんなのがいよう。いっそのこと鬼と暮らしたがよかろう。気味が悪いと言った」と爪弾きをして、「何とも評しようがないな」と式部を小馬鹿にし腐して、「もっと実のある話を申せ」と頭中将はお責めになるが、「これより珍しい話がございましょうか」と黙然とすましこんでいる。

大構造と係り受け

さて いと久しくまからざりしに もののたよりに立ち寄りてはべれば 常のうちとけゐたる方にははべらで 心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる ふすぶるにやと をこがましくも また よきふしなりとも思ひたまふるに このさかし人はた 軽々しきもの怨じすべきにもあらず 世の道理を思ひとりて恨みざりけり 声もはやりかにて言ふやう 月ごろ 風病重きに堪へかねて 極熱の草薬を服して いと臭きによりなむ え対面賜はらぬ 目のあたりならずとも さるべからむ雑事らは承らむ と いとあはれにむべむべしく言ひはべり 答へに何とかは ただ承りぬとて 立ち出ではべるに さうざうしくやおぼえけむ この香失せなむ時に立ち寄りたまへ と高やかに言ふを 聞き過ぐさむもいとほし しばしやすらふべきに はたはべらねば げにそのにほひさへ はなやかにたち添へるも術なくて 逃げ目をつかひて
 ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせといふがあやなさ
いかなることつけぞやと 言ひも果てず走り出ではべりぬるに 追ひて
 逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひる間も何かまばゆからまし
さすがに口疾くなどははべりき と しづしづと申せば 君達あさましと思ひて 嘘言 とて笑ひたまふ いづこのさる女かあるべき おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ むくつけきこと と爪弾きをして 言はむ方なし と 式部をあはめ憎みて すこしよろしからむことを申せ と責めたまへど これよりめづらしきことはさぶらひなむやとてをり

古語探訪

もののたより 02115

ある避けられない事情、多くは法事を指す。「もののたより」は源氏物語で六例あるが、あきらかに法事を指す例が半数を数える。「もの」は動かせないものの形容、あるいは霊。

方 02115

部屋、建物。

心やましき 02115

自分の力の及ばないものに対するじれた気持ち。

ふすぶるにや 02115

岡焼き、焼き餅を焼くの意味に、後に続く薬草をふすべるの意をかける。

をこがましくも 02115

嫉妬しているにしてはそうした態度が滑稽であること。現代語のをこがましいではない。

よきふし 02115

離婚を申し出るのによい機会。

さかし 02115

情よりも理性が優先するタイプ。

もの怨じすべきにもあらず 02115

左馬頭が語った「指を喰う女」を意識して、そのような女ではない。

世の道理 02115

男女の情理。要するに、男は外で浮気をするものだという理解。ただし、このことを頭で理解しているからといって、腹が立たないわけではない。プライドの高いだけに、それを口にできないので、かっかかっかと内部では火がおこっているのだ。極熱の草薬は内なる怒りを隠す。

思ひとり 02115

悟る、わきまえる。

◇ 「風病」「重きに」「堪へかね」「極熱」「草薬」「服し」「臭きに」「により」「対面」「ならずとも」など、漢語や漢語調の表現。男言葉であり、女が用いるのを聞くとやや滑稽に聞こえたであろう。

はやりか 02115

うわついて。落ち着かないさま。

月ごろ 02115

この何ヶ月かの間。藤式部丞の通いが何ヶ月もないことを暗示する。

風病 02115

神経痛とされる。

極熱の草薬 02115

『医心房』に「大蒜ハ熱ナリ、風ヲ除ク」とある。

え対面賜はらぬ 02115

「賜はる」は「受ける」の謙譲語。「え…ぬ」は不可能。藤式部丞との対面を受けられないの意味で、藤式部丞に対する敬意。

目のあたりならずとも 02115

直に対面していなくても。

さるべからむ雑事ら 02115

妻としてしっかりと努めなければならない雑用。

あはれに 02115

心をこめて。

むべむべしく 02115

こちらが、その通りその通りと理解できるように、また否定できないように。窮屈さを感じさせる語。

◇ 「聞き過ぐさむもいとほし」「そのにほひさへ…たち添へるも術なくて/並列 Aも、Bも):それぞれ挿入句 
◇ 「言ふを、(しばしやすらふべきにはたはべらねば)、逃げ目をつかひて」:文構造の骨子

何とかは 02115

何と言えようか。「かは」は反語で、答える言葉がみつからなかったことを意味する。

承りぬ 02115

承知しました。状況を理解したとの答え。

さうざうしく 02115

さびしく。

いとほし 02115

相手にすまないと思う気持ち。申し訳ない。

やすらふ 02115

とどまって様子をうかがう。

にほひさへはなやかにたち添へるも 02115

「やすらふ」べきものでない女の態度に、蒜の臭いまで加わって。

はなやかに 02115

はっきりと見て取れるような。ここは大げさな比喩的表現でおかしみを出そうとしている。女の歌「まばゆからまし」と呼応させる狙いがあるのだろう。臭覚を視覚よりに表現しようとしている。

逃げ目をつかひ 02115

逃げながらも目配せで相手に訴える様子。逃げることより目配せに動作の主体がある。さらに分析すれば、「聞き過ぐさむもいとほし」に対しては目での訴えが、「にほひさへはなやかにたち添へるも術なくて」に対しては逃げるが行動の主となるアンビバレントな状況をいう。

ささがにのふるまひしるき 02115

「わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも」を下に敷く。「ささがに」は蜘蛛を指す雅語。朝、女の家の軒に蜘蛛が巣を張ると、その夕方は久しく来ない夫が訪ねてくる予兆とされた。「しるき」ははっきりと見て取れる。見誤りようがない事実だ。

ひるま 02115

「昼間」と「蒜をくすべている間」をかける。

あやなさ 02115

理屈に合わない。もう夕方なのに昼間を過ごせとは非合理だ。

いかなることつけぞ 02115

「ことつけ」は口実。薬草を理由に夫を追い出したり、臭いが消えたらまた立ち寄れなど、浮気をしていたりして、夫を寄せ付けたくない理由が薬草以外にあるのではないかとの難癖。もちろん、藤式部丞の方こそ、別れ話を切り出す口実をさがしている。

夜をし隔てぬ 02115

「し」は強調。また「をし」は「惜し」に通じる。一夜も隔てるのが惜しくてできない。

仲ならば 02115

未然形+「ば」で仮定条件。そういう仲ではないことが前提。

ひる間 02115

「昼間」と「蒜をくすべている間」をかけるのは藤式部丞の歌に同じ。

まばゆからまし 02115

「まばゆし」は相手が立派で気恥ずかしいの意味。「まし」は反実仮想。藤式部丞の前言「なつかしき妻子とうち頼まむには無才の人なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに恥づかしくなむ見えはべりし/02114」とあるように、蒜の女の欠点は立派すぎること。一夜も離れていられない間柄なら、相手が立派すぎると敬遠することもないはずだと、男の一番痛いところにスポットを当てる。

さすがに口疾くなどは 02115

賢い女だけにさすがにすぐに返歌を寄越したということ。ここから逆に、普通返歌には時間がかかることが知られる。「などは」は、蔑みなどの感情をこめる。早いだけは早かったのですが。

しづしづと 02115

女の歌を効果を狙って意図的にゆっくりと歌い上げる。

君達 02115

親王や摂関家など上流貴族の子息。ここでは光源氏や頭中将を指す。単数・複数どちらにも使う。

嘘言 02115

つくりごと。

いづこの…か…連体形 02115

反語。どこの…が…だろうか。

おいらかに 02115

いっそのこと。

鬼とこそ向かひゐたらむ 02115

鬼と向かい合って過ごす方がよかろう。「ゐる」は座る。滞在する。住む。「む」は二人称に対して勧誘。すでに完了したことに対して「む」は使用しないので、鬼と対峙していたのだろうなどの解釈は無理がある。それなら「けむ」。

むくつけき 02115

鬼や物の怪に対した時のように、正体が不明で不気味。

爪弾き 02115

人を非難するときの動作。指弾をいうが、ここは鬼に対する邪気を払う仕草であろう。

あはめ 02115

軽蔑する。

憎み 02115

非難する。

めづらしき 02115

もっと見たい、もっと知りたいと欲求するような状況。

なむや 02115

完了「ぬ」の未然形+推量「む」の終始形+係助詞「や」、反語をあらわす。…であろうかいやない。

をり 02115

すわっている。

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