原文《若紫》索引&検索(05001-05271)
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05若紫01章01段(001-005)
05001 瘧病にわづらひたまひて よろづにまじなひ加持など参らせたまへど しるしなくて あまたたびおこりたまひければ ある人 北山になむ なにがし寺といふ所に かしこき行ひ人はべる 去年の夏も世におこりて 人びとまじなひわづらひしを やがてとどむるたぐひ あまたはべりき ししこらかしつる時はうたてはべるを とくこそ試みさせたまはめ など聞こゆれば 召しに遣はしたるに 老いかがまりて 室の外にもまかでず と申したれば いかがはせむ いと忍びてものせむ とのたまひて 御供にむつましき四 五人ばかりして まだ暁におはす
05002 やや深う入る所なりけり 三月のつごもりなれば 京の花盛りはみな過ぎにけり 山の桜はまだ盛りにて 入りもておはするままに 霞のたたずまひもをかしう見ゆれば かかるありさまもならひたまはず 所狭き御身にて めづらしう思されけり
05003 寺のさまもいとあはれなり 峰高く 深き巖屋の中にぞ 聖入りゐたりける
05004 登りたまひて 誰とも知らせたまはず いといたうやつれたまへれど しるき御さまなれば あな かしこや 一日 召しはべりしにやおはしますらむ 今は この世のことを思ひたまへねば 験方の行ひも捨て忘れてはべるを いかで かうおはしましつらむと おどろき騒ぎ うち笑みつつ見たてまつる いと尊き大徳なりけり
05005 さるべきもの作りて すかせたてまつり 加持など参るほど 日高くさし上がりぬ
05若紫01章02段(006-008)
05006 すこし立ち出でつつ見渡したまへば 高き所にて ここかしこ 僧坊どもあらはに見おろさるる ただこのつづら折の下に 同じ小柴なれど うるはしくし渡して 清げなる屋 廊など続けて 木立いとよしあるは 何人の住むにか と問ひたまへば 御供なる人 これなむ なにがし僧都の 二年籠もりはべる方にはべるなる 心恥づかしき人住むなる所にこそあなれ あやしうも あまりやつしけるかな 聞きもこそすれ などのたまふ
05007 清げなる童などあまた出で来て 閼伽たてまつり 花折りなどするもあらはに見ゆ かしこに 女こそありけれ 僧都は よも さやうには 据ゑたまはじを いかなる人ならむ と口々言ふ
05008 下りて覗くもあり をかしげなる女子ども 若き人 童女なむ見ゆる と言ふ
05若紫01章03段(009-015)
05009 君は 行ひしたまひつつ 日たくるままに いかならむと思したるを とかう紛らはさせたまひて 思し入れぬなむ よくはべる と聞こゆれば 後への山に立ち出でて 京の方を見たまふ
05010 はるかに霞みわたりて 四方の梢そこはかとなう煙りわたれるほど 絵にいとよくも似たるかな かかる所に住む人 心に思ひ残すことはあらじかし とのたまへば これは いと浅くはべり 人の国などにはべる海 山のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば いかに 御絵いみじうまさらせたまはむ 富士の山 なにがしの嶽など 語りきこゆるもあり また西国のおもしろき浦々 磯の上を言ひ続くるもありて よろづに紛らはしきこゆ
05011 近き所には 播磨の明石の浦こそ なほことにはべれ 何の至り深き隈はなけれど ただ 海の面を見わたしたるほどなむ あやしく異所に似ず ゆほびかなる所にはべる
05012 かの国の前の守 新発意の 女かしづきたる家 いといたしかし 大臣の後にて 出で立ちもすべかりける人の 世のひがものにて 交じらひもせず 近衛の中将を捨てて 申し賜はれりける司なれど かの国の人にもすこしあなづられて 何の面目にてか また都にも帰らむ と言ひて 頭も下ろしはべりにけるを すこし奥まりたる山住みもせで さる海づらに出でゐたる ひがひがしきやうなれど げに かの国のうちに さも 人の籠もりゐぬべき所々はありながら 深き里は 人離れ心すごく 若き妻子の思ひわびぬべきにより かつは心をやれる住まひになむはべる
05013 先つころ まかり下りてはべりしついでに ありさま見たまへに寄りてはべりしかば 京にてこそ所得ぬやうなりけれ そこらはるかに いかめしう占めて造れるさま さは言へど 国の司にてし置きけることなれば 残りの齢ゆたかに経べき心構へも 二なくしたりけり 後の世の勤めも いとよくして なかなか法師まさりしたる人になむはべりける と申せば さて その女は と 問ひたまふ
05014 けしうはあらず 容貌 心ばせなどはべるなり 代々の国の司など 用意ことにして さる心ばへ見すなれど さらにうけひかず 我が身のかくいたづらに沈めるだにあるを この人ひとりにこそあれ 思ふさまことなり もし我に後れてその志とげず この思ひおきつる宿世違はば 海に入りね と 常に遺言しおきてはべるなる と聞こゆれば 君もをかしと聞きたまふ
05015 人びと 海龍王の后になるべきいつき女ななり 心高さ苦しや とて笑ふ
05若紫01章04段(016-021)
05016 かく言ふは 播磨守の子の 蔵人より 今年 かうぶり得たるなりけり いと好きたる者なれば かの入道の遺言破りつべき心はあらむかし さて たたずみ寄るならむ と言ひあへり
05017 いで さ言ふとも 田舎びたらむ 幼くよりさる所に生ひ出でて 古めいたる親にのみ従ひたらむは
05018 母こそゆゑあるべけれ よき若人 童など 都のやむごとなき所々より 類にふれて尋ねとりて まばゆくこそもてなすなれ
05019 情けなき人なりて行かば さて心安くてしも え置きたらじをや など言ふもあり
05020 君 何心ありて 海の底まで深う思ひ入るらむ 底の みるめ も ものむつかしうなどのたまひて ただならず思したり
05021 かやうにても なべてならず もてひがみたること好みたまふ御心なれば 御耳とどまらむをや と見たてまつる
05若紫01章05段(022-023)
05022 暮れかかりぬれど おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ はや帰らせたまひなむ とあるを 大徳 御もののけなど 加はれるさまにおはしましけるを 今宵は なほ静かに加持など参りて 出でさせたまへ と申す
05023 さもあること と 皆人申す 君も かかる旅寝も慣らひたまはねば さすがにをかしくて さらば暁に とのたまふ
05若紫02章01段(024-027)
05024 人なくて つれづれなれば 夕暮のいたう霞みたるに紛れて かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ
05025 人びとは帰したまひて 惟光朝臣と覗きたまへば ただこの西面にしも 仏据ゑたてまつりて行ふ 尼なりけり
05026 簾すこし上げて 花たてまつるめり 中の柱に寄りゐて 脇息の上に経を置きて いとなやましげに読みゐたる尼君 ただ人と見えず
05027 四十余ばかりにて いと白うあてに 痩せたれど つらつきふくらかに まみのほど 髪のうつくしげにそがれたる末も なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと あはれに見たまふ
05若紫02章02段(028-036)
05028 清げなる大人二人ばかり さては童女ぞ出で入り遊ぶ 中に十ばかりやあらむと見えて 白き衣 山吹などの萎えたる着て 走り来たる女子 あまた見えつる子どもに似るべうもあらず いみじく生ひさき見えて うつくしげなる容貌なり
05029 髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして 顔はいと赤くすりなして立てり
05030 何ごとぞや 童女と腹立ちたまへるか とて 尼君の見上げたるに すこしおぼえたるところあれば 子なめり と見たまふ
05031 雀の子を犬君が逃がしつる 伏籠のうちに籠めたりつるものを とて いと口惜しと思へり
05032 このゐたる大人 例の 心なしの かかるわざをして さいなまるるこそ いと心づきなけれ いづ方へかまかりぬる いとをかしう やうやうなりつるものを 烏などもこそ見つくれ とて 立ちて行く
05033 髪ゆるるかにいと長く めやすき人なめり 少納言の乳母とこそ人言ふめるは この子の後見なるべし
05034 尼君 いで あな幼や 言ふかひなうものしたまふかな おのが かく 今日明日におぼゆる命をば 何とも思したらで 雀慕ひたまふほどよ 罪得ることぞと 常に聞こゆるを 心憂く とて こちや と言へば ついゐたり
05035 つらつきいとらうたげにて 眉のわたりうちけぶり いはけなくかいやりたる額つき 髪ざし いみじううつくし ねびゆかむさまゆかしき人かな と 目とまりたまふ
05036 さるは 限りなう心を尽くしきこゆる人に いとよう似たてまつれるが まもらるるなりけり と 思ふにも涙ぞ落つる
05若紫02章03段(037-042)
05037 尼君 髪をかき撫でつつ 梳ることをうるさがりたまへど をかしの御髪や いとはかなうものしたまふこそ あはれにうしろめたけれ かばかりになれば いとかからぬ人もあるものを 故姫君は 十ばかりにて殿に後れたまひしほど いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし ただ今 おのれ見捨てたてまつらば いかで世におはせむとすらむ とて いみじく泣くを見たまふも すずろに悲し
05038 幼心地にも さすがにうちまもりて 伏目になりてうつぶしたるに こぼれかかりたる髪 つやつやとめでたう見ゆ
05039 生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき
05040 またゐたる大人 げに と うち泣きて
初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに
05041 僧都 あなたより来て こなたはあらはにやはべらむ 今日しも 端におはしましけるかな この上の聖の方に 源氏の中将の瘧病まじなひにものしたまひけるを ただ今なむ 聞きつけはべる いみじう忍びたまひければ 知りはべらで ここにはべりながら 御とぶらひにもまでざりける とのたまへば あないみじや いとあやしきさまを 人や見つらむ とて 簾下ろしつ
05042 この世に ののしりたまふ光る源氏 かかるついでに見たてまつりたまはむや 世を捨てたる法師の心地にも いみじう世の憂へ忘れ 齢延ぶる人の御ありさまなり いで 御消息聞こえむ とて 立つ音すれば 帰りたまひぬ
05若紫02章04段(043-044)
05043 あはれなる人を見つるかな かかれば この好き者どもは かかる歩きをのみして よくさるまじき人をも見つくるなりけり たまさかに立ち出づるだに かく思ひのほかなることを見るよ と をかしう思す
05044 さても いとうつくしかりつる児かな 何人ならむ かの人の御代はりに 明け暮れの慰めにも見ばや と思ふ心 深うつきぬ
05若紫03章01段(045-047)
05045 うち臥したまへるに 僧都の御弟子 惟光を呼び出でさす ほどなき所なれば 君もやがて聞きたまふ
05046 過りおはしましけるよし ただ今なむ 人申すに おどろきながら さぶらべきを なにがしこの寺に籠もりはべりとは しろしめしながら 忍びさせたまへるを 憂はしく思ひたまへてなむ 草の御むしろも この坊にこそ設けはべるべけれ いと本意なきこと と申したまへり
05047 いぬる十余日のほどより 瘧病にわづらひはべるを 度重なりて堪へがたくはべれば 人の教へのまま にはかに尋ね入りはべりつれど かやうなる人の験あらはさぬ時 はしたなかるべきも ただなるよりは いとほしう思ひたまへつつみてなむ いたう忍びはべりつる 今 そなたにも とのたまへり
05若紫03章02段(048-052)
05048 すなはち 僧都参りたまへり 法師なれど いと心恥づかしく人柄もやむごとなく 世に思はれたまへる人なれば 軽々しき御ありさまを はしたなう思す
05049 かく籠もれるほどの御物語など聞こえたまひて 同じ柴の庵なれど すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ と せちに聞こえたまへば かの まだ見ぬ人びとにことことしう言ひ聞かせつるを つつましう思せど あはれなりつるありさまもいぶかしくて おはしぬ
05050 げに いと心ことによしありて 同じ木草をも植ゑなしたまへり
05051 月もなきころなれば 遣水に篝火ともし 灯籠なども参りたり 南面いと清げにしつらひたまへり
05052 そらだきもの いと心にくく薫り出で 名香の香など匂ひみちたるに 君の御追風いとことなれば 内の人びとも心づかひすべかめり
05若紫04章01段(053-055)
05053 僧都 世の常なき御物語 後世のことなど聞こえ知らせたまふ 我が罪のほど恐ろしう あぢきなきことに心をしめて 生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり
05054 まして後の世のいみじかるべき 思し続けて かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから 昼の面影心にかかりて恋しければ ここにものしたまふは 誰れにか 尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな 今日なむ思ひあはせつる と聞こえたまへば
05055 うち笑ひて うちつけなる御夢語りにぞはべるなる 尋ねさせたまひても 御心劣りせさせたまひぬべし 故按察使大納言は 世になくて久しくなりはべりぬれば えしろしめさじかし その北の方なむ なにがしが妹にはべる かの按察使かくれて後 世を背きてはべるが このごろ わづらふことはべるにより かく京にもまかでねば 頼もし所に籠もりてものしはべるなり と聞こえたまふ
05若紫04章02段(056-057)
05056 かの大納言の御女 ものしたまふと聞きたまへしは 好き好きしき方にはあらで まめやかに聞こゆるなり と 推し当てにのたまへば
05057 女ただ一人はべりし 亡せて この十余年にやなりはべりぬらむ 故大納言 内裏にたてまつらむなど かしこういつきはべりしを その本意のごとくもものしはべらで 過ぎはべりにしかば ただこの尼君一人もてあつかひはべりしほどに いかなる人のしわざにか 兵部卿宮なむ 忍びて語らひつきたまへりけるを 本の北の方 やむごとなくなどして 安からぬこと多くて 明け暮れ物を思ひてなむ 亡くなりはべりにし 物思ひに病づくものと 目に近く見たまへし など申したまふ
05若紫04章03段(058-060)
05058 さらば その子なりけり と思しあはせつ 親王の御筋にて かの人にもかよひきこえたるにや と いとどあはれに見まほし 人のほどもあてにをかしう なかなかのさかしら心なく うち語らひて 心のままに教へ生ほし立てて見ばや と思す
05059 いとあはれにものしたまふことかな それは とどめたまふ形見もなきかと 幼かりつる行方の なほ確かに知らまほしくて 問ひたまへば
05060 亡くなりはべりしほどにこそ はべりしか それも 女にてぞ それにつけて物思ひのもよほしになむ 齢の末に思ひたまへ嘆きはべるめる と聞こえたまふ さればよ と思さる
05若紫04章04段(061-063)
05061 あやしきことなれど 幼き御後見に思すべく 聞こえたまひてむや 思ふ心ありて 行きかかづらふ方もはべりながら 世に心の染まぬにやあらむ 独り住みにてのみなむ まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへて はしたなくや などのたまへば
05062 いとうれしかるべき仰せ言なるを まだむげにいはきなきほどにはべるめれば たはぶれにても 御覧じがたくや そもそも 女人は 人にもてなされて大人にもなりたまふものなれば 詳しくはえとり申さず かの祖母に語らひはべりて聞こえさせむ と すくよかに言ひて ものごはきさましたまへれば 若き御心に恥づかしくて えよくも聞こえたまはず
05063 阿弥陀仏ものしたまふ堂に することはべるころになむ 初夜 いまだ勤めはべらず 過ぐしてさぶらはむ とて 上りたまひぬ
05若紫05章01段(064-071)
05064 君は 心地もいと悩ましきに 雨すこしうちそそき 山風ひややかに吹きたるに 滝のよどみもまさりて 音高う聞こゆ
05065 すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど すずろなる人も 所からものあはれなり まして 思しめぐらすこと多くて まどろませたまはず 初夜と言ひしかども 夜もいたう更けにけり
05066 内にも 人の寝ぬけはひしるくて いと忍びたれど 数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ なつかしううちそよめく音なひ あてはかなりと聞きたまひて ほどもなく近ければ 外に立てわたしたる屏風の中を すこし引き開けて 扇を鳴らしたまへば おぼえなき心地すべかめれど 聞き知らぬやうにやとて ゐざり出づる人あなり
05067 すこし退きて あやし ひが耳にや とたどるを 聞きたまひて 仏の御しるべは 暗きに入りても さらに違ふまじかなるものを とのたまふ御声の いと若うあてなるに うち出でむ声づかひも 恥づかしけれど いかなる方の 御しるべにか おぼつかなく と聞こゆ
05068 げに うちつけなりとおぼめきたまはむも 道理なれど
初草の若葉の上を見つるより旅寝の袖も露ぞ乾かぬ
と聞こえたまひてむや とのたまふ
05069 さらに かやうの御消息 うけたまはりわくべき人もものしたまはぬさまは しろしめしたりげなるを 誰れにかは と聞こゆ
05070 おのづからさるやうありて聞こゆるならむと思ひなしたまへかし とのたまへば 入りて聞こゆ
05071 あな 今めかし この君や 世づいたるほどにおはするとぞ 思すらむ さるにては かの 若草 を いかで聞いたまへることぞ と さまざまあやしきに 心乱れて 久しうなれば 情けなしとて
枕結ふ今宵ばかりの露けさを深山の苔に比べざらなむ
乾がたうはべるものを と聞こえたまふ
05若紫05章02段(072-074)
05072 かうやうのついでなる御消息は まださらに聞こえ知らず ならはぬことになむ かたじけなくとも かかるついでに まめまめしう聞こえさすべきことなむ と聞こえたまへれば
05073 尼君 ひがこと聞きたまへるならむ いとむつかしき御けはひに 何ごとをかは答へきこえむ とのたまへば はしたなうもこそ思せ と人びと聞こゆ
05074 げに 若やかなる人こそうたてもあらめ まめやかにのたまふ かたじけなし とて ゐざり寄りたまへり
05若紫05章03段(075-080)
05075 うちつけに あさはかなりと 御覧ぜられぬべきついでなれど 心にはさもおぼえはべらねば 仏はおのづから とて おとなおとなしう 恥づかしげなるにつつまれて とみにもえうち出でたまはず
05076 げに 思ひたまへ寄りがたきついでに かくまでのたまはせ 聞こえさするも いかが とのたまふ
05077 あはれにうけたまはる御ありさまを かの過ぎたまひにけむ御かはりに 思しないてむや 言ふかひなきほどの齢にて むつましかるべき人にも立ち後れはべりにければ あやしう浮きたるやうにて 年月をこそ重ねはべれ 同じさまにものしたまふなるを たぐひになさせたまへと いと聞こえまほしきを かかる折はべりがたくてなむ 思されむところをも憚らず うち出ではべりぬる と聞こえたまへば
05078 いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながらも 聞こしめしひがめたることなどやはべらむと つつましうなむ あやしき身一つを頼もし人にする人なむはべれど いとまだ言ふかひなきほどにて 御覧じ許さるる方もはべりがたげなれば えなむうけたまはりとどめられざりける とのたまふ
05079 みな おぼつかなからずうけたまはるものを 所狭う思し憚らで 思ひたまへ寄るさまことなる心のほどを 御覧ぜよ と聞こえたまへど いと似げなきことを さも知らでのたまふ と思して 心解けたる御答へもなし
05080 僧都おはしぬれば よし かう聞こえそめはべりぬれば いと頼もしうなむ とて おし立てたまひつ
05若紫05章04段(081-083)
05081 暁方になりにければ 法華三昧行ふ堂の懺法の声 山おろしにつきて聞こえくる いと尊く 滝の音に響きあひたり
05082 吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな
05083 さしぐみに袖ぬらしける山水に澄める心は騒ぎやはする
耳馴れはべりにけりや と聞こえたまふ
05若紫05章05段(084-086)
05084 明けゆく空は いといたう霞みて 山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり
05085 名も知らぬ木草の花どもも いろいろに散りまじり 錦を敷けると見ゆるに 鹿のたたずみ歩くも めづらしく見たまふに 悩ましさも紛れ果てぬ
05086 聖 動きもえせねど とかうして護身参らせたまふ かれたる声の いといたうすきひがめるも あはれに功づきて 陀羅尼誦みたり
05若紫06章01段(087-094)
05087 御迎への人びと参りて おこたりたまへる喜び聞こえ 内裏よりも御とぶらひあり 僧都 世に見えぬさまの御くだもの 何くれと 谷の底まで堀り出で いとなみきこえたまふ
05088 今年ばかりの誓ひ深うはべりて 御送りにもえ参りはべるまじきこと なかなかにも思ひたまへらるべきかな など聞こえたまひて 大御酒参りたまふ
05089 山水に心とまりはべりぬれど 内裏よりもおぼつかながらせたまへるも かしこければなむ 今 この花の折過ぐさず参り来む
05090 宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来てもみるべく
とのたまふ御もてなし 声づかひさへ 目もあやなるに
05091 優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそ移らね
と聞こえたまへば ほほゑみて 時ありて 一度開くなるは かたかなるものを とのたまふ
05092 聖 御土器賜はりて
奥山の松のとぼそをまれに開けてまだ見ぬ花の顔を見るかな
と うち泣きて見たてまつる
05093 聖 御まもりに 独鈷たてまつる 見たまひて 僧都 聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の 玉の装束したる やがてその国より入れたる筥の 唐めいたるを 透きたる袋に入れて 五葉の枝に付けて 紺瑠璃の壺どもに 御薬ども入れて 藤 桜などに付けて 所につけたる御贈物ども ささげたてまつりたまふ
05094 君 聖よりはじめ 読経しつる法師の布施ども まうけの物ども さまざまに取りにつかはしたりければ そのわたりの山がつまで さるべき物ども賜ひ 御誦経などして出でたまふ
05若紫06章02段(095-097)
05095 内に僧都入りたまひて かの聞こえたまひしこと まねびきこえたまへど ともかくも ただ今は 聞こえむかたなし もし 御志あらば いま四 五年を過ぐしてこそは ともかくも とのたまへば さなむ と同じさまにのみあるを 本意なしと思す
05096 御消息 僧都のもとなる小さき童して
夕まぐれほのかに花の色を見て今朝は霞の立ちぞわづらふ
05097 御返し
まことにや花のあたりは立ち憂きと霞むる空の気色をも見む
と よしある手の いとあてなるを うち捨て書いたまへり
05若紫06章02段(098-103)
05098 御車にたてまつるほど 大殿より いづちともなくて おはしましにけること とて 御迎への人びと 君達などあまた参りたまへり
05099 頭中将 左中弁 さらぬ君達も慕ひきこえて かうやうの御供には 仕うまつりはべらむ と思ひたまふるを あさましく おくらさせたまへること と恨みきこえて いといみじき花の蔭に しばしもやすらはず 立ち帰りはべらむは 飽かぬわざかな とのたまふ
05100 岩隠れの苔の上に並みゐて 土器参る 落ち来る水のさまなど ゆゑある滝のもとなり
05101 頭中将 懐なりける笛取り出でて 吹きすましたり 弁の君 扇はかなううち鳴らして 豊浦の寺の 西なるや と歌ふ 人よりは異なる君達を 源氏の君 いといたううち悩みて 岩に寄りゐたまへるは たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ 何ごとにも目移るまじかりける
05102 例の 篳篥吹く随身 笙の笛持たせたる好き者などあり
05103 僧都 琴をみづから持て参りて これ ただ御手一つあそばして 同じうは 山の鳥もおどろかしはべらむ
と切に聞こえたまへば 乱り心地 いと堪へがたきものを と聞こえたまへど けに憎からずかき鳴らして 皆立ちたまひぬ
05若紫06章03段(104-108)
05104 飽かず口惜しと 言ふかひなき法師 童べも 涙を落としあへり まして 内には 年老いたる尼君たちなど まださらにかかる人の御ありさまを見ざりつれば この世のものともおぼえたまはず と聞こえあへり
05105 僧都も あはれ 何の契りにて かかる御さまながら いとむつかしき日本の末の世に生まれたまへらむと見るに いとなむ悲しき とて 目おしのごひたまふ
05106 この若君 幼な心地に めでたき人かな と見たまひて 宮の御ありさまよりも まさりたまへるかな などのたまふ
05107 さらば かの人の御子になりておはしませよ と聞こゆれば うちうなづきて いとようありなむ と思したり
05108 雛遊びにも 絵描いたまふにも 源氏の君 と作り出でて きよらなる衣着せ かしづきたまふ
05若紫07章01段(109-112)
05109 君は まづ内裏に参りたまひて 日ごろの御物語など聞こえたまふ
05110 いといたう衰へにけり とて ゆゆしと思し召したり 聖の尊かりけることなど 問はせたまふ 詳しく奏したまへば 阿闍梨などにもなるべき者にこそあなれ 行ひの労は積もりて 朝廷にしろしめされざりけること と 尊がりのたまはせけり
05111 大殿 参りあひたまひて 御迎へにもと思ひたまへつれど 忍びたる御歩きに いかがと思ひ憚りてなむ のどやかに一 二日うち休みたまへ とて やがて 御送り仕うまつらむ と申したまへば さしも思さねど 引かされてまかでたまふ
05112 我が御車に乗せたてまつりたまうて 自らは引き入りてたてまつれり もてかしづききこえたまへる御心ばへのあはれなるをぞ さすがに心苦しく思しける
05若紫07章02段(113-118)
05113 殿にも おはしますらむと心づかひしたまひて 久しく見たまはぬほど いとど玉の台に磨きしつらひ よろづをととのへたまへり
05114 女君 例の はひ隠れて とみにも出でたまはぬを 大臣 切に聞こえたまひて からうして渡りたまへり
05115 ただ絵に描きたるものの姫君のやうに し据ゑられて うちみじろきたまふこともかたく うるはしうてものしたまへば 思ふこともうちかすめ 山道の物語をも聞こえむ 言ふかひありて をかしういらへたまはばこそ あはれならめ 世には心も解けず うとく恥づかしきものに思して 年のかさなるに添へて 御心の隔てもまさるを いと苦しく 思はずに 時々は 世の常なる御気色を見ばや 堪へがたうわづらひはべりしをも いかがとだに 問ひたまはぬこそ めづらしからぬことなれど なほうらめしう と聞こえたまふ
05116 からうして 問はぬは つらきものにやあらむ と 後目に見おこせたまへるまみ いと恥づかしげに 気高ううつくしげなる御容貌なり
05117 まれまれは あさましの御ことや 訪はぬ など言ふ際は 異にこそはべるなれ 心憂くものたまひなすかな 世とともにはしたなき御もてなしを もし 思し直る折もやと とざまかうさまに試みきこゆるほど いとど思ほし疎むなめりかし よしや 命だに とて 夜の御座に入りたまひぬ
05118 女君 ふとも入りたまはず 聞こえわづらひたまひて うち嘆きて臥したまへるも なま心づきなきにやあらむ ねぶたげにもてなして とかう世を思し乱るること多かり
05若紫07章03段(119-120)
05119 この若草の生ひ出でむほどのなほゆかしきを 似げないほどと思へりしも 道理ぞかし 言ひ寄りがたきことにもあるかな いかにかまへて ただ心やすく迎へ取りて 明け暮れの慰めに見む 兵部卿宮は いとあてになまめいたまへれど 匂ひやかになどもあらぬを いかで かの一族におぼえたまふらむ ひとつ后腹なればにや など思す
05120 ゆかりいとむつましきに いかでかと 深うおぼゆ
05若紫08章01段(121-129)
05121 またの日 御文たてまつれたまへり 僧都にもほのめかしたまふべし
05122 尼上には もて離れたりし御気色のつつましさに 思ひたまふるさまをも えあらはし果てはべらずなりにしをなむ かばかり聞こゆるにても おしなべたらぬ志のほどを御覧じ知らば いかにうれしう などあり
05123 中に 小さく引き結びて
面影は身をも離れず山桜心の限りとめて来しかど
夜の間の風も うしろめたくなむ とあり
05124 御手などはさるものにて ただはかなうおし包みたまへるさまも さだすぎたる御目どもには 目もあやにこのましう見ゆ あな かたはらいたや いかが聞こえむ と 思しわづらふ
05125 ゆくての御ことは なほざりにも思ひたまへなされしを ふりはへさせたまへるに 聞こえさせむかたなくなむ まだ 難波津 をだに はかばかしう続けはべらざめれば かひなくなむ
05126 さても
嵐吹く尾の上の桜散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ
いとどうしろめたう とあり
05127 僧都の御返りも同じさまなれば 口惜しくて 二 三日ありて 惟光をぞたてまつれたまふ
05128 少納言の乳母と言ふ人あべし 尋ねて 詳しう語らへ などのたまひ知らす
05129 さも かからぬ隈なき御心かな さばかりいはけなげなりしけはひを と まほならねども 見しほどを思ひやるもをかし
05若紫08章02段(130-135)
05130 わざと かう御文あるを 僧都もかしこまり聞こえたまふ
05131 少納言に消息して会ひたり 詳しく 思しのたまふさま おほかたの御ありさまなど語る
05132 言葉多かる人にて つきづきしう言ひ続くれど いとわりなき御ほどを いかに思すにか と ゆゆしうなむ 誰も誰も思しける
05133 御文にも いとねむごろに書いたまひて 例の 中に かの御放ち書きなむ なほ見たまへまほしき とて
あさか山浅くも人を思はぬになど山の井のかけ離るらむ
05134 御返し
汲み初めてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影を見るべき
05135 惟光も同じことを聞こゆ このわづらひたまふことよろしくは このごろ過ぐして 京の殿に渡りたまひてなむ 聞こえさすべき とあるを 心もとなう思す
05若紫09章01段(136-139)
05136 藤壺の宮 悩みたまふことありて まかでたまへり
05137 主上の おぼつかながり 嘆ききこえたまふ御気色も いといとほしう見たてまつりながら かかる折だにと 心もあくがれ惑ひて 何処にも何処にも まうでたまはず 内裏にても里にても 昼はつれづれと眺め暮らして 暮るれば 王命婦を責め歩きたまふ
05138 いかがたばかりけむ いとわりなくて見たてまつるほどさへ 現とはおぼえぬぞ わびしきや
05139 宮も あさましかりしを思し出づるだに 世とともの御もの思ひなるを さてだにやみなむと深う思したるに いと憂くて いみじき御気色なるものから なつかしうらうたげに さりとてうちとけず 心深う恥づかしげなる御もてなしなどの なほ人に似させたまはぬを などか なのめなることだにうち交じりたまはざりけむ と つらうさへぞ思さるる
05若紫09章02段(140-143)
05140 何ごとをかは聞こえ尽くしたまはむ くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど あやにくなる短夜にて あさましう なかなかなり
05141 見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな
と むせかへりたまふさまも さすがにいみじければ
05142 世語りに人や伝へむたぐひなく憂き身を覚めぬ夢になしても
思し乱れたるさまも いと道理にかたじけなし
05143 命婦の君ぞ 御直衣などは かき集め持て来たる
05若紫09章03段(144-145)
05144 殿におはして 泣き寝に臥し暮らしたまひつ 御文なども 例の 御覧じ入れぬよしのみあれば 常のことながらも つらういみじう思しほれて 内裏へも参らで 二 三日籠もりおはすれば また いかなるにか と 御心動かせたまふべかめるも 恐ろしうのみおぼえたまふ
05145 宮も なほいと心憂き身なりけりと 思し嘆くに 悩ましさもまさりたまひて とく参りたまふべき御使 しきれど 思しも立たず まことに 御心地 例のやうにもおはしまさぬは いかなるにかと 人知れず思すこともありければ 心憂く いかならむ とのみ思し乱る
05若紫09章04段(146-151)
05146 暑きほどは いとど起きも上がりたまはず 三月になりたまへば いとしるきほどにて 人びと見たてまつりとがむるに あさましき御宿世のほど 心憂し
05147 人は思ひ寄らぬことなれば この月まで 奏せさせたまはざりけること と 驚ききこゆ
05148 我が御心一つには しるう思しわくこともありけり
05149 御湯殿などにも親しう仕うまつりて 何事の御気色をもしるく見たてまつり知れる御乳母子の弁 命婦などぞ あやしと思へど かたみに言ひあはすべきにあらねば なほ逃れがたかりける御宿世をぞ 命婦はあさましと思ふ
05150 内裏には 御物の怪の紛れにて とみに気色なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし 見る人もさのみ思ひけり
05151 いとどあはれに限りなう思されて 御使などのひまなきも そら恐ろしう ものを思すこと ひまなし
05若紫09章05段(152-153)
05152 中将の君も おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて 合はする者を召して 問はせたまへば 及びなう思しもかけぬ筋のことを合はせけり
05153 その中に 違ひ目ありて 慎しませたまふべきことなむはべる と言ふに わづらはしくおぼえて みづからの夢にはあらず 人の御ことを語るなり この夢合ふまで また人にまねぶな とのたまひて 心のうちには いかなることならむ と思しわたるに この女宮の御こと聞きたまひて もしさるやうもや と 思し合はせたまふに いとどしくいみじき言の葉尽くしきこえたまへど 命婦も思ふに いとむくつけう わづらはしさまさりて さらにたばかるべきかたなし はかなき一行の御返りのたまさかなりしも 絶え果てにたり
05若紫09章06段(154-156)
04154 七月になりてぞ参りたまひける めづらしうあはれにて いとどしき御思ひのほど限りなし すこしふくらかになりたまひて うちなやみ 面痩せたまへる はた げに似るものなくめでたし
04155 例の 明け暮れ こなたにのみおはしまして 御遊びもやうやうをかしき空なれば 源氏の君も暇なく召しまつはしつつ 御琴 笛など さまざまに仕うまつらせたまふ
04156 いみじうつつみたまへど 忍びがたき気色の漏り出づる折々 宮も さすがなる事どもを多く思し続けけり
05若紫10章01段(157-158)
05157 かの山寺の人は よろしくなりて出でたまひにけり 京の御住処尋ねて 時々の御消息などあり
05158 同じさまにのみあるも道理なるうちに この月ごろは ありしにまさる物思ひに 異事なくて過ぎゆく
05若紫10章02段(159-163)
05159 秋の末つ方 いともの心細くて嘆きたまふ 月のをかしき夜 忍びたる所にからうして思ひ立ちたまへるを 時雨めいてうちそそく
05160 おはする所は六条京極わたりにて 内裏よりなれば すこしほど遠き心地するに 荒れたる家の木立いともの古りて木暗く見えたるあり
05161 例の御供に離れぬ惟光なむ 故按察使大納言の家にはべりて もののたよりにとぶらひてはべりしかば かの尼上 いたう弱りたまひにたれば 何ごともおぼえず となむ申してはべりし と聞こゆれば
05162 あはれのことや とぶらふべかりけるを などか さなむとものせざりし 入りて消息せよ とのたまへば 人入れて案内せさす
05163 わざとかう立ち寄りたまへることと言はせたれば 入りて かく御とぶらひになむおはしましたる と言ふに おどろきて いとかたはらいたきことかな この日ごろ むげにいと頼もしげなくならせたまひにたれば 御対面などもあるまじ と言へども 帰したてまつらむはかしこしとて 南の廂ひきつくろひて 入れたてまつる
05若紫10章03段(164-171)
05164 いとむつかしげにはべれど かしこまりをだにとて ゆくりなう もの深き御座所になむ と聞こゆ げにかかる所は 例に違ひて思さる
05165 常に思ひたまへ立ちながら かひなきさまにのみもてなさせたまふに つつまれはべりてなむ 悩ませたまふこと 重くとも うけたまはらざりけるおぼつかなさ など聞こえたまふ
05166 乱り心地は いつともなくのみはべるが 限りのさまになりはべりて いとかたじけなく 立ち寄らせたまへるに みづから聞こえさせぬこと のたまはすることの筋 たまさかにも思し召し変はらぬやうはべらば かくわりなき齢過ぎはべりて かならず数まへさせたまへ いみじう心細げに見たまへ置くなむ 願ひはべる道のほだしに思ひたまへられぬべき など聞こえたまへり
05167 いと近ければ 心細げなる御声絶え絶え聞こえて いと かたじけなきわざにもはべるかな この君だに かしこまりも聞こえたまつべきほどならましかば とのたまふ
05168 あはれに聞きたまひて 何か 浅う思ひたまへむことゆゑ かう好き好きしきさまを見えたてまつらむ いかなる契りにか 見たてまつりそめしより あはれに思ひきこゆるも あやしきまで この世のことにはおぼえはべらぬ などのたまひて かひなき心地のみしはべるを かのいはけなうものしたまふ御一声 いかで とのたまへば
05169 いでや よろづ思し知らぬさまに 大殿籠もり入りて など聞こゆる折しも あなたより来る音して 上こそ この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ など見たまはぬ とのたまふを 人びと いとかたはらいたしと思ひて あなかま と聞こゆ
05170 いさ 見しかば心地の悪しさなぐさみき とのたまひしかばぞかし と かしこきこと聞こえたりと思してのたまふ
05171 いとをかしと聞いたまへど 人びとの苦しと思ひたれば 聞かぬやうにて まめやかなる御とぶらひを聞こえ置きたまひて 帰りたまひぬ げに 言ふかひなのけはひや さりとも いとよう教へてむ と思す
05若紫10章04段(172-173)
05172 またの日も いとまめやかにとぶらひきこえたまふ 例の 小さくて
いはけなき鶴の一声聞きしより葦間になづむ舟ぞえならぬ
同じ人にや と ことさら幼く書きなしたまへるも いみじうをかしげなれば やがて御手本に と 人びと聞こゆ
05173 少納言ぞ聞こえたる 問はせたまへるは 今日をも過ぐしがたげなるさまにて 山寺にまかりわたるほどにて かう問はせたまへるかしこまりは この世ならでも聞こえさせむ とあり いとあはれと思す
05若紫10章05段(174-175)
05174 秋の夕べは まして 心のいとまなく思し乱るる人の御あたりに心をかけて あながちなるゆかりも尋ねまほしき心もまさりたまふなるべし 消えむ空なき とありし夕べ思し出でられて 恋しくも また 見ば劣りやせむと さすがにあやふし
05175 手に摘みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草
05若紫11章01段(176-177)
05176 十月に朱雀院の行幸あるべし
05177 舞人など やむごとなき家の子ども 上達部 殿上人どもなども その方につきづきしきは みな選らせたまへれば 親王達 大臣よりはじめて とりどりの才ども習ひたまふ いとまなし
05若紫11章02段(178-180)
05178 山里人にも 久しく訪れたまはざりけるを 思し出でて ふりはへ遣はしたりければ 僧都の返り事のみあり
05179 立ちぬる月の二十日のほどになむ つひに空しく見たまへなして 世間の道理なれど 悲しび思ひたまふる
などあるを見たまふに 世の中のはかなさもあはれに うしろめたげに思へりし人もいかならむ 幼きほどに 恋ひやすらむ 故御息所に後れたてまつりし など はかばかしからねど 思ひ出でて 浅からずとぶらひたまへり
05180 少納言 ゆゑなからず御返りなど聞こえたり
05若紫11章03段(181-187)
05181 忌みなど過ぎて京の殿になど聞きたまへば ほど経て みづから のどかなる夜おはしたり
05182 いとすごげに荒れたる所の 人少ななるに いかに幼き人恐ろしからむと見ゆ
05183 例の所に入れたてまつりて 少納言 御ありさまなど うち泣きつつ聞こえ続くるに あいなう 御袖もただならず
05184 宮に渡したてまつらむとはべるめるを 故姫君の いと情けなく憂きものに思ひきこえたまへりしに いとむげに児ならぬ齢の まだはかばかしう人のおもむけをも見知りたまはず 中空なる御ほどにて あまたものしたまふなる中の あなづらはしき人にてや交じりたまはむ など 過ぎたまひぬるも 世とともに思し嘆きつること しるきこと多くはべるに かくかたじけなきなげの御言の葉は 後の御心もたどりきこえさせず いとうれしう思ひたまへられぬべき折節にはべりながら すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず 御年よりも若びてならひたまへれば いとかたはらいたくはべる と聞こゆ
05185 何か かう繰り返し聞こえ知らする心のほどを つつみたまふらむ その言ふかひなき御心のありさまの あはれにゆかしうおぼえたまふも 契りことになむ 心ながら思ひ知られける なほ 人伝てならで 聞こえ知らせばや
あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは
めざましからむ とのたまへば
05186 げにこそ いとかしこけれ とて
寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる
わりなきこと と聞こゆるさまの馴れたるに すこし罪ゆるされたまふ
05187 なぞ越えざらむ と うち誦じたまへるを 身にしみて若き人びと思へり
05若紫11章04段(188-191)
05188 君は 上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに 御遊びがたきどもの 直衣着たる人のおはする 宮のおはしますなめり と聞こゆれば 起き出でたまひて 少納言よ 直衣着たりつらむは いづら 宮のおはするか とて 寄りおはしたる御声 いとらうたし
05189 宮にはあらねど また思し放つべうもあらず こち とのたまふを 恥づかしかりし人と さすがに聞きなして 悪しう言ひてけりと思して 乳母にさし寄りて いざかし ねぶたきに とのたまへば 今さらに など忍びたまふらむ この膝の上に大殿籠もれよ 今すこし寄りたまへ とのたまへば 乳母の さればこそ かう世づかぬ御ほどにてなむ とて 押し寄せたてまつりたれば 何心もなくゐたまへるに 手をさし入れて探りたまへれば なよらかなる御衣に 髪はつやつやとかかりて 末のふさやかに探りつけられたる いとうつくしう思ひやらる
05190 手をとらへたまへれば うたて例ならぬ人の かく近づきたまへるは 恐ろしうて 寝なむ と言ふものを とて 強ひて引き入りたまふにつきてすべり入りて 今は まろぞ思ふべき人 な疎みたまひそ とのたまふ
05191 乳母 いで あなうたてや ゆゆしうもはべるかな 聞こえさせ知らせたまふとも さらに何のしるしもはべらじものを とて 苦しげに思ひたれば さりとも かかる御ほどをいかがはあらむ なほ ただ世に知らぬ心ざしのほどを見果てたまへ とのたまふ
05若紫12章01段(192-195)
05192 霰降り荒れて すごき夜のさまなり0
05193 いかで かう人少なに心細うて 過ぐしたまふらむ と うち泣いたまひて いと見棄てがたきほどなれば
御格子参りね もの恐ろしき夜のさまなめるを 宿直人にてはべらむ 人びと 近うさぶらはれよかし とて いと馴れ顔に御帳のうちに入りたまへば あやしう思ひのほかにもと あきれて 誰も誰もゐたり
05194 乳母は うしろめたなうわりなしと思へど 荒ましう聞こえ騒ぐべきならねば うち嘆きつつゐたり
05195 若君は いと恐ろしう いかならむとわななかれて いとうつくしき御肌つきも そぞろ寒げに思したるを らうたくおぼえて 単衣ばかりを押しくくみて わが御心地も かつはうたておぼえたまへど あはれにうち語らひたまひて いざ たまへよ をかしき絵など多く 雛遊びなどする所に と 心につくべきことをのたまふけはひの いとなつかしきを 幼き心地にも いといたう怖ぢず さすがに むつかしう寝も入らずおぼえて 身じろき臥したまへり
05若紫12章02段(196-200)
05196 夜一夜 風吹き荒るるに げに かう おはせざらましかば いかに心細からまし 同じくは よろしきほどにおはしまさましかば とささめきあへり
05197 乳母は うしろめたさに いと近うさぶらふ
05198 風すこし吹きやみたるに 夜深う出でたまふも ことあり顔なりや
05199 いとあはれに見たてまつる御ありさまを 今はまして 片時の間もおぼつかなかるべし 明け暮れ眺めはべる所に渡したてまつらむ かくてのみは いかが もの怖ぢしたまはざりけり とのたまへば
05200 宮も御迎へになど聞こえのたまふめれど この御四十九日過ぐしてや など思うたまふる と聞こゆれば
頼もしき筋ながらも よそよそにてならひたまへるは 同じうこそ疎うおぼえたまはめ 今より見たてまつれど 浅からぬ心ざしはまさりぬべくなむ とて かい撫でつつ かへりみがちにて出でたまひぬ
05若紫12章03段(201-207)
05201 いみじう霧りわたれる空もただならぬに 霜はいと白うおきて まことの懸想もをかしかりぬべきに さうざうしう思ひおはす
05202 いと忍びて通ひたまふ所の道なりけるを思し出でて 門うちたたかせたまへど 聞きつくる人なし
05203 かひなくて 御供に声ある人して歌はせたまふ
朝ぼらけ霧立つ空のまよひにも行き過ぎがたき妹が門かな
と 二返りばかり歌ひたるに
05204 よしある下仕ひを出だして
立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草のとざしにさはりしもせじ
と言ひかけて 入りぬ
05205 また人も出で来ねば 帰るも情けなけれど 明けゆく空もはしたなくて殿へおはしぬ
05206 をかしかりつる人のなごり恋しく 独り笑みしつつ臥したまへり
05207 日高う大殿籠もり起きて 文やりたまふに 書くべき言葉も例ならねば 筆うち置きつつすさびゐたまへり をかしき絵などをやりたまふ
05若紫13章01段(208-215)
05208 かしこには 今日しも 宮わたりたまへり
05209 年ごろよりもこよなう荒れまさり 広うもの古りたる所の いとど人少なに久しければ 見わたしたまひて
かかる所には いかでか しばしも幼き人の過ぐしたまはむ なほ かしこに渡したてまつりてむ 何の所狭きほどにもあらず 乳母は 曹司などしてさぶらひなむ 君は 若き人びとあれば もろともに遊びて いとようものしたまひなむ などのたまふ
05210 近う呼び寄せたてまつりたまへるに かの御移り香の いみじう艶に染みかへらせたまへれば をかしの御匂ひや 御衣はいと萎えて と 心苦しげに思いたり
05211 年ごろも あつしくさだ過ぎたまへる人に添ひたまへるよ かしこにわたりて見ならしたまへなど ものせしを あやしう疎みたまひて 人も心置くめりしを かかる折にしもものしたまはむも 心苦しう などのたまへば
05212 何かは 心細くとも しばしはかくておはしましなむ すこしものの心思し知りなむにわたらせたまはむこそ よくははべるべけれ と聞こゆ
05213 夜昼恋ひきこえたまふに はかなきものもきこしめさず とて げにいといたう面痩せたまへれど いとあてにうつくしく なかなか見えたまふ
05214 何か さしも思す 今は世に亡き人の御ことはかひなし おのれあれば など語らひきこえたまひて 暮るれば帰らせたまふを いと心細しと思いて泣いたまへば 宮うち泣きたまひて いとかう思ひな入りたまひそ 今日明日 渡したてまつらむ など 返す返すこしらへおきて 出でたまひぬ
05215 なごりも慰めがたう泣きゐたまへり 行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず ただ年ごろ立ち離るる折なうまつはしならひて 今は亡き人となりたまひにける と思すがいみじきに 幼き御心地なれど 胸つとふたがりて 例のやうにも遊びたまはず 昼はさても紛らはしたまふを 夕暮となれば いみじく屈したまへば かくてはいかでか過ごしたまはむと 慰めわびて 乳母も泣きあへり
05若紫13章02段(216-218)
05216 君の御もとよりは 惟光をたてまつれたまへり 参り来べきを 内裏より召あればなむ 心苦しう見たてまつりしも しづ心なく とて 宿直人たてまつれたまへり
05217 あぢきなうもあるかな 戯れにても もののはじめにこの御ことよ 宮聞こし召しつけば さぶらふ人びとのおろかなるにぞさいなまむ あなかしこ もののついでに いはけなくうち出できこえさせたまふな など 言ふも それをば何とも思したらぬぞ あさましきや
05218 少納言は 惟光にあはれなる物語どもして あり経て後や さるべき御宿世 逃れきこえたまはぬやうもあらむ ただ今は かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを あやしう思しのたまはするも いかなる御心にか 思ひ寄るかたなう乱れはべる 今日も 宮渡らせたまひて うしろやすく仕うまつれ 心幼くもてなしきこゆな とのたまはせつるも いとわづらはしう ただなるよりは かかる御好き事も思ひ出でられはべりつる など言ひて この人もことあり顔にや思はむ など あいなければ いたう嘆かしげにも言ひなさず 大夫も いかなることにかあらむ と 心得がたう思ふ
05若紫13章03段(219-221)
05219 参りて ありさまなど聞こえければ あはれに思しやらるれど さて通ひたまはむも さすがにすずろなる心地して 軽々しうもてひがめたると 人もや漏り聞かむ など つつましければ ただ迎へてむ と思す
05220 御文はたびたびたてまつれたまふ 暮るれば 例の大夫をぞたてまつれたまふ 障はる事どものありて え参り来ぬを おろかにや などあり
05221 宮より 明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば 心あわたたしくてなむ 年ごろの蓬生を離れなむも さすがに心細く さぶらふ人びとも思ひ乱れて と 言少なに言ひて をさをさあへしらはず もの縫ひいとなむけはひなど しるければ 参りぬ
05若紫14章01段(222-227)
05222 君は大殿におはしけるに 例の 女君とみにも対面したまはず ものむつかしくおぼえたまひて あづまをすががきて 常陸には田をこそ作れ といふ歌を 声はいとなまめきて すさびゐたまへり
05223 参りたれば 召し寄せてありさま問ひたまふ しかしかなど聞こゆれば 口惜しう思して かの宮に渡りなば わざと迎へ出でむも 好き好きしかるべし 幼き人を盗み出でたりと もどきおひなむ そのさきに しばし 人にも口固めて 渡してむ と思して 暁かしこにものせむ 車の装束さながら 随身一人二人仰せおきたれ とのたまふ うけたまはりて立ちぬ
05224 君 いかにせまし 聞こえありて好きがましきやうなるべきこと 人のほどだにものを思ひ知り 女の心交はしけることと推し測られぬべくは 世の常なり 父宮の尋ね出でたまへらむも はしたなう すずろなるべきを と 思し乱るれど さて外してむはいと口惜しかべければ まだ夜深う出でたまふ
05225 女君 例のしぶしぶに 心もとけずものしたまふ
05226 かしこに いとせちに見るべきことのはべるを思ひたまへ出でて 立ちかへり参り来なむ とて 出でたまへば さぶらふ人びとも知らざりけり
05227 わが御方にて 御直衣などはたてまつる 惟光ばかりを馬に乗せておはしぬ
05若紫14章02段(228-230)
05228 門うちたたかせたまへば 心知らぬ者の開けたるに 御車をやをら引き入れさせて 大夫 妻戸を鳴らして しはぶけば 少納言聞き知りて 出で来たり
05229 ここに おはします と言へば 幼き人は 御殿籠もりてなむ などか いと夜深うは出でさせたまへる と もののたよりと思ひて言ふ
05230 宮へ渡らせたまふべかなるを そのさきに聞こえ置かむとてなむ とのたまへば 何ごとにかはべらむ いかにはかばかしき御答へ聞こえさせたまはむ とて うち笑ひてゐたり
05若紫14章03段(231-234)
05231 君 入りたまへば いとかたはらいたく うちとけて あやしき古人どものはべるに と聞こえさす
05232 まだ おどろいたまはじな いで 御目覚ましきこえむ かかる朝霧を知らでは 寝るものか とて 入りたまへば や とも え聞こえず
05233 君は何心もなく寝たまへるを 抱きおどろかしたまふに おどろきて 宮の御迎へにおはしたると 寝おびれて思したり
05234 御髪かき繕ひなどしたまひて いざ たまへ 宮の御使にて参り来つるぞ とのたまふに あらざりけり と あきれて 恐ろしと思ひたれば あな 心憂 まろも同じ人ぞ とて かき抱きて出でたまへば 大輔 少納言など こは いかに と聞こゆ
05若紫14章04段(235-238)
05235 ここには 常にもえ参らぬがおぼつかなければ 心やすき所にと聞こえしを 心憂く 渡りたまへるなれば まして聞こえがたかべければ 人一人参られよかし とのたまへば
05236 心あわたたしくて 今日は いと便なくなむはべるべき 宮の渡らせたまはむには いかさまにか聞こえやらむ おのづから ほど経て さるべきにおはしまさば ともかうもはべりなむを いと思ひやりなきほどのことにはべれば さぶらふ人びと苦しうはべるべし と聞こゆれば よし 後にも人は参りなむ とて 御車寄せさせたまへば あさましう いかさまにと思ひあへり
05237 若君も あやしと思して泣いたまふ
05238 少納言 とどめきこえむかたなければ 昨夜縫ひし御衣どもひきさげて 自らもよろしき衣着かへて 乗りぬ
05若紫15章01段(239-241)
05239 二条院は近ければ まだ明うもならぬほどにおはして 西の対に御車寄せて下りたまふ 若君をば いと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ
05240 少納言 なほ いと夢の心地しはべるを いかにしはべるべきことにか と やすらへば そは 心ななり 御自ら渡したてまつりつれば 帰りなむとあらば 送りせむかし とのたまふに 笑ひて下りぬ
05241 にはかに あさましう 胸も静かならず 宮の思しのたまはむこと いかになり果てたまふべき御ありさまにか とてもかくても 頼もしき人びとに後れたまへるがいみじさ と思ふに 涙の止まらぬを さすがにゆゆしければ 念じゐたり
05若紫15章02段(242-246)
05242 こなたは住みたまはぬ対なれば 御帳などもなかりけり 惟光召して 御帳 御屏風など あたりあたり仕立てさせたまふ
05243 御几帳の帷子引き下ろし 御座などただひき繕ふばかりにてあれば 東の対に 御宿直物召しに遣はして 大殿籠もりぬ
05244 若君は いとむくつけく いかにすることならむと ふるはれたまへど さすがに声立ててもえ泣きたまはず 少納言がもとに寝む とのたまふ声 いと若し
05245 今は さは大殿籠もるまじきぞよ と教へきこえたまへば いとわびしくて泣き臥したまへり
05246 乳母はうちも臥されず ものもおぼえず起きゐたり
05若紫15章03段(247-250)
05247 明けゆくままに 見わたせば 御殿の造りざま しつらひざま さらにも言はず 庭の砂子も玉を重ねたらむやうに見えて かかやく心地するに はしたなく思ひゐたれど こなたには女などもさぶらはざりけり
05248 け疎き客人などの参る折節の方なりければ 男どもぞ御簾の外にありける
05249 かく 人迎へたまへりと 聞く人 誰れならむ おぼろけにはあらじ と ささめく
05250 御手水 御粥など こなたに参る
05若紫15章04段(251-256)
05251 日高う寝起きたまひて 人なくて 悪しかめるを さるべき人びと 夕づけてこそは迎へさせたまはめ
とのたまひて 対に童女召しにつかはす 小さき限り ことさらに参れ とありければ いとをかしげにて 四人参りたり
05252 君は御衣にまとはれて臥したまへるを せめて起こして かう 心憂くなおはせそ すずろなる人は かうはありなむや 女は心柔らかなるなむよき など 今より教へきこえたまふ
05253 御容貌は さし離れて見しよりも 清らにて なつかしううち語らひつつ をかしき絵 遊びものども取りに遣はして 見せたてまつり 御心につくことどもをしたまふ
05254 やうやう起きゐて見たまふに 鈍色のこまやかなるが うち萎えたるどもを着て 何心なくうち笑みなどしてゐたまへるが いとうつくしきに 我もうち笑まれて見たまふ
05255 東の対に渡りたまへるに 立ち出でて 庭の木立 池の方など覗きたまへば 霜枯れの前栽 絵に描けるやうにおもしろくて 見も知らぬ四位 五位こきまぜに 隙なう出で入りつつ げに をかしき所かな と思す
05256 御屏風どもなど いとをかしき絵を見つつ 慰めておはするもはかなしや
05若紫16章01段(257-263)
05257 君は 二 三日 内裏へも参りたまはで この人をなつけ語らひきこえたまふ やがて本にと思すにや 手習 絵などさまざまに書きつつ 見せたてまつりたまふ いみじうをかしげに書き集めたまへり
05258 武蔵野と言へばかこたれぬ と 紫の紙に書いたまへる墨つきの いとことなるを取りて見ゐたまへり
05259 すこし小さくて
ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを
とあり
05260 いで 君も書いたまへ とあれば まだ ようは書かず とて 見上げたまへるが 何心なくうつくしげなれば うちほほ笑みて よからねど むげに書かぬこそ悪ろけれ 教へきこえむかし とのたまへば うちそばみて書いたまふ手つき 筆とりたまへるさまの幼げなるも らうたうのみおぼゆれば 心ながらあやしと思す
05261 書きそこなひつ と恥ぢて隠したまふを せめて見たまへば
かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ
と いと若けれど 生ひ先見えて ふくよかに書いたまへり
05262 故尼君のにぞ似たりける 今めかしき手本習はば いとよう書いたまひてむ と見たまふ
05263 雛など わざと屋ども作り続けて もろともに遊びつつ こよなきもの思ひの紛らはしなり
05若紫16章02段(264-267)
05264 かのとまりにし人びと 宮渡りたまひて 尋ねきこえたまひけるに 聞こえやる方なくてぞ わびあへりける しばし 人に知らせじ と君ものたまひ 少納言も思ふことなれば せちに口固めやりたり
05265 ただ 行方も知らず 少納言が率て隠しきこえたる とのみ聞こえさするに 宮も言ふかひなう思して 故尼君も かしこに渡りたまはむことを いとものしと思したりしことなれば 乳母の いとさし過ぐしたる心ばせのあまり おいらかに渡さむを 便なし などは言はで 心にまかせ 率てはふらかしつるなめり と 泣く泣く帰りたまひぬ
05266 もし 聞き出でたてまつらば 告げよ とのたまふも わづらはしく 僧都の御もとにも 尋ねきこえたまへど あとはかなくて あたらしかりし御容貌など 恋しく悲しと思す
05267 北の方も 母君を憎しと思ひきこえたまひける心も失せて わが心にまかせつべう思しけるに違ひぬるは 口惜しう思しけり
05若紫16章03段(268-271)
05268 やうやう人参り集りぬ 御遊びがたきの童女 児ども いとめづらかに今めかしき御ありさまどもなれば 思ふことなくて遊びあへり
05269 君は 男君のおはせずなどして さうざうしき夕暮などばかりぞ 尼君を恋ひきこえたまひて うち泣きなどしたまへど 宮をばことに思ひ出できこえたまはず もとより見ならひきこえたまはでならひたまへれば 今はただこの後の親を いみじう睦びまつはしきこえたまふ
05270 ものよりおはすれば まづ出でむかひて あはれにうち語らひ 御懐に入りゐて いささか疎く恥づかしとも思ひたらず さるかたに いみじうらうたきわざなりけり
05271 さかしら心あり 何くれとむつかしき筋になりぬれば わが心地もすこし違ふふしも出で来やと 心おかれ 人も恨みがちに 思ひのほかのこと おのづから出で来るを いとをかしきもてあそびなり 女などはた かばかりになれば 心やすくうちふるまひ 隔てなきさまに臥し起きなどは えしもすまじきを これは いとさまかはりたるかしづきぐさなりと 思ほいためり