内に僧都入りたまひ 若紫06章09

2021-05-04

原文 読み 意味

内に僧都入りたまひて かの聞こえたまひしこと まねびきこえたまへど ともかくも ただ今は 聞こえむかたなし もし 御志あらば いま四 五年を過ぐしてこそは ともかくも とのたまへば さなむ と同じさまにのみあるを 本意なしと思す

05095/難易度:☆☆☆

うち/に/そうづ/いり/たまひ/て かの/きこエ/たまひ/し/こと まねび/きこエ/たまへ/ど ともかくも ただいま/は きこエ/む/かた/なし もし みこころざし/あら/ば いま/よとせ いつとせ/を/すぐし/て/こそ/は ともかくも/と/のたまへ/ば さ/なむ と/おなじ/さま/に/のみ/ある/を ほい/なし/と/おぼす

坊の中に僧都はお入りになって、君からの申し出をお受けなされた例の件を、言葉通りにお伝えになられたけれど、「どうにもこうにも、ただ今はお伝えしようがございません。もしお気持ちがおありならば、いま四五年経ってからいかようなりとも」と尼君はおっしゃるので、それがいいと僧都も同じような様子をするだけなので、君はご不満をお感じになる。

内に僧都入りたまひて かの聞こえたまひしこと まねびきこえたまへど ともかくも ただ今は 聞こえむかたなし もし 御志あらば いま四 五年を過ぐしてこそは ともかくも とのたまへば さなむ と同じさまにのみあるを 本意なしと思す

大構造と係り受け

古語探訪

内に 05095

僧房内に。

かの聞こえたまひしこと 05095

「聞こゆ」は本動詞では「申し上げる」という謙譲語になるか、受身・自発・可能などとして「聞く」の意味である。ここの主語は光説と僧都説があるが、光説では光が僧都に「申し上げる」ことなってしまう。したがって、僧都が聞いたという受身と考えなければならない。その聞いた内容は、「幼き御後見に思すべく聞こえたまひてんや」というもの。「聞こえ」る相手が諸説では尼君であり、わたしは紫であると考えることについては、すでに述べた。同じ問題がまたすぐ後に出てくる。

まねびきこえたまへど 05095

まねび」は人から聞いた話を、自分の言葉に改めずに聞いたとおりに伝えること。「聞こえ」は補助動詞で、伝えた相手の尼君を高める敬語。「たまへ」は伝えた主体である僧都を高める敬語。

ともかくもただ今は聞こえむ方なし 05095

諸説は、どうにもこうにも光に対して返事の申し上げようがないと解釈する。すなわち、「聞こえ」の対象を光と考えるが、この解釈は認めがたい。「聞こえむ方なし」という表現だが、これはどうにも言葉につまった時の表現である。しかし、ここでは返事の仕様がないと言いながら、四五年後ならなんとでもなると返事を続けている。こういう使い方は源氏物語では他に例がない。常に言葉に窮して、そこで涙を飲むのである。先には続かないのだ。七例あるうちの一例だけ例外があるが、それは「聞こえむ方なきを」という形、すなわち、逆接の「を」がつくことではじめて、何とも言いようがないけれど……と続くことができるのだ。この申し上げようがないのは、紫に対してである。紫がまだ未熟なので、どうにも恋の話ができないという意味である。光から紫に後見の話を伝えてほしいと僧都が言われ、では尼君を通して紫に伝えようと返事をしたことは説いた。僧都は尼君から紫に伝えてほしいと頼んだのであるが、どうにも言いようがないという流れである。「方なし」は、すべなしと訳されているが、本来は、紫をくどき落とすポイント、場所、角度、方向がないとの意味である。

御志 05095

光の紫に対する愛情。

ともかくも 05095

後には「聞こえむ」や 「聞こえなむ」 が省略されていると考えられる。今は「ともかくも聞こえむ方なし」だが、四五年後なら「ともかうも聞こえむ」(どうにでも言える)のだ)。

さなむ 05095

「む」は推量でも意思でも勧誘(~する方がよい)でも、どうにでも訳せる。

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