さてもいとうつくし 若紫02章21

2021-04-28

原文 読み 意味

さても いとうつくしかりつる児かな 何人ならむ かの人の御代はりに 明け暮れの慰めにも見ばや と思ふ心 深うつきぬ

05044/難易度:☆☆☆

さても いと/うつくしかり/つる/ちご/かな なにびと/なら/む かの/ひと/の/おほむ-かはり/に あけくれ/の/なぐさめ/に/も/み/ばや と/おもふ/こころ ふかう/つき/ぬ

それにしても、本当にかわいらしい子だったな。どういう人だろう。おのお方の身代わりに、明け暮れ心の慰めにでも一緒に過ごしたいものだと、そう思う気持ちが深く心に根ざした。

さても いとうつくしかりつる児かな 何人ならむ かの人の御代はりに 明け暮れの慰めにも見ばや と思ふ心 深うつきぬ

大構造と係り受け

古語探訪

かの人の御代はり 05044

「かの人」は藤壺を指す。「思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」『桐壺』が思い出されるくだり。 この段で注意すべきは、光は紫との出会いを絶対的なものと見ておらず、従者たちの忍び歩きでも出会えるもののひとつとして考えている点である。「あはれなる人」ではあるが、絶対的な人ではない。少なくとも出会いの時点ではそうである。源氏物語を先入観からロマンチックに読んではいけないのである。かかるがゆえに、この絶対的でない存在は、絶対的存在の藤壺の身代わりとしてしか、存在価値を与えられていないのだ。紫に対する光の愛の絶対値は、藤壺への愛の絶対値を超えられないのだという、枠組みを覚えておかねばならない。しかし、この枠組みが不動のものとしてかわらないかどうかは、物語を読み進めなければわからないことである。どんなに夫婦仲のよい場合でも、初恋の女性を忘れられない男もいれば、どんなに初恋の相手が忘れかねても、やはり生涯暮らした妻が大切である場合もある。もっとも、長編小説は、枠組みがなければ組みあがらないが、その枠組みが不変であるというケースは稀である。その枠組みに変化がないものは、古代文学を出ないか、古代以降の文学として稚拙であるかであろう。なお、ここで古代文学が稚拙であると言っているのではない、古代文学は厳格な約束事に則って書かれている形式であると言いたいだけである。逆にいつ書かれたかは別にして、そういう形式を守る文学は古代文学と呼べるのではないかと言うこと。もっといい呼び名があるのかも知れないが、今は古代文学という言い方以上のものが見つからないだけです。

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