例の明け暮れこなた 若紫09章20

2021-05-07

原文 読み 意味

例の 明け暮れ こなたにのみおはしまして 御遊びもやうやうをかしき空なれば 源氏の君も暇なく召しまつはしつつ 御琴笛など さまざまに仕うまつらせたまふ

05155/難易度:☆☆☆

れい/の あけくれ こなた/に/のみ/おはしまし/て おほむ-あそび/も/やうやう/をかしき/そら/なれ/ば げんじのきみ/も/いとま/なく/めし/まつはし/つつ おほむ-こと/ふえ/など さまざま/に/つかうまつら/せ/たまふ

いつものように帝は、朝となく暮れとなく、こちらにばかりいらっしゃって、管弦の遊びにしてもようやく趣き深い空の様子になったので、あろうことか源氏の君まで休みなく召し寄せお放しにならず、帝の御琴や御笛などを、藤壺や若君その他いろいろに演奏おさせになる。

例の 明け暮れ こなたにのみおはしまして 御遊びもやうやうをかしき空なれば 源氏の君も暇なく召しまつはしつつ 御琴 笛など さまざまに仕うまつらせたまふ

大構造と係り受け

古語探訪

こなた 05155

飛香舎(ひぎょうしゃ)である藤壺の局。

御遊びもやうやうをかしき空 05155

今は七月で初秋。秋は七夕、仲秋の月見など空にまつわる行事が多い。

御琴笛 05155

A「御琴」と「笛」なのか、「御琴」と「御笛」なのか。またこの「御」の尊敬の対象は誰かである。源氏の君を召しまとわせたとあるので、Aと考えれば、「御琴」は光が演奏し、「笛」は光以外でそれほど身分の高くない者が演奏したことになる。Bと考えるならば、琴と笛に軽重の差はなくなるため、二人の登場人物が必要となる。話題の焦点からして、ひとりは光であり、これと同等の相手となると、この管弦の会が催されている場所の主人公である藤壺以外にない。またこの読みを採用するならば、「大人になりたまひて後は、ありしやうに御簾の内にも入れたまはず、御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえ通ひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ(元服されてからは、帝は昔日のように御簾の内にもお入れにならない。管絃の遊びの折り折りには、藤壺の琴と笛の音を合わせあい、漏れ聞こえるお声を慰めにして、内裏住みばかり好ましくお思いになる)」(『桐壺』の帖)と呼応した読みが可能となる。帝の命令において演奏するこの場において、かつて気持ちを通わせあったことが、ふたたび繰り返されるのである。読みとしてこの方がずっと面白いであろう。楽器を演奏し合うということは、呼吸をそろえることであり、息遣いをともにし、ひとつの作品を作り上げることである。それは言うなれば、性交渉においてアクメに登りつめることの比ゆとしても働くのだ。気持ちの上で、光を拒む藤壺も、音楽の演奏により、心理的にはもう一度光と同調することになるのだ。このことが次の文章につながる具体的な契機となっていると読めば読みすぎであろうか。すなわち、この音楽での合奏がなければ、藤壺は光の気持ちを受け入れることがなかったかも知れない。帝の命により、ふたたび心理的な一体化がなされ、それがひきがねとなって、藤壺も心を開くのである。この合奏なしに、光の思いをさすがに藤壺も受け入れたとしたのでは、単に甘い恋愛ドラマになってしまう。ふたりが拒めない帝の命により行うところにドラマがあるのだ。藤壺にとってもドラマであり、帝にとってもドラマなのである。
ところで、「御琴」「御笛」の「御」だが、『桐壺』の帖では「琴笛」とあり、「御」はなかった。したがって、「御」のない「琴笛」は藤壺光それぞれの自前の楽器であり、「御」のつく楽器、すなわちここで使用された楽器は、帝の愛用の琴と笛ではないかと推察したくなる。しかし、同じ楽器に御をつけたりつけなかったりしただけなのかも知れない。しかし、形が違えば内容が違うとするのが、文章を読む大原則なので、一応先のように解釈することにする。

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