さるべきもの作りて 若紫01章05

2021-04-26

原文 読み 意味

さるべきもの作りて すかせたてまつり 加持など参るほど 日高くさし上がりぬ

05005/難易度:☆☆☆

さるべき/もの/つくり/て すかせ/たてまつり かぢ/など/まゐる/ほど ひ/たかく/さし-あがり/ぬ

ありがたい護符を書いて、お飲ませ申し上げる。加持など奉じる頃には、日はすっかりのぼっていた。

さるべきもの作りて すかせたてまつり 加持など参るほど 日高くさし上がりぬ

大構造と係り受け

古語探訪

さるべきもの 05005

服用するために紙にかかれた梵字だという。

すかせ 05005

飲ませる。

加持など参るほど 05005

「加持などあげるうちに」と諸注は訳すがどうであろう。この意味を考えるには、時間の経緯をたどる必要がある。
A出発時「暁」
B道中
C北山到着、挨拶、加持祈祷「日高くさしあがりぬ」
D僧都の房に女の見る
E仏前の読経「日たくるるままに」
F山の上から見下ろす、諸国物語
G「暮れかかりぬれど」
となる。
旧暦三月つごもりとあり、新暦のいつかは特定できないが、桜の時期と考えて間違いない。これを今の時間に直すと
A五時から六時頃
C九時頃?
E十二時前と考えられているが問題あり。
G五時か六時頃
さて、遠回りだが、決定できるところから決定する。これまでの解釈であると、光は、昼日中の十二時頃から夕方近くまで、山の上で物語をしていたことになるが、平安人の行動として納得しがたい。また、物語の進行時間から考えても、少しの話題で五六時間持たせるには無理がある。「日たくるままに」は日が高くなるではなく、日が更ける、すなわち、日が傾き出すの意味だろう。「たく」には高くなる意味と円熟するの意味があり、辞書の説明では、日が主語に来た場合、もっぱら日が高くなるの意味でしか使われないように述べられているが、ここはそうとるのは不自然である。光は午後三時頃から日の沈みかける午後五時くらいまで、山の上にいたのだと思う。その前二時間くらい、光は読経をし、昼前後に女を見る。その前が加持祈祷の時間。加持祈祷がはじまる時間が「日高くさしあがりぬ」であろうと思う。
まとめると、夜明けまえに出発し、何時間か歩いて、加持祈祷をした後に、「日が高くあがっていた」のではなく、加持祈祷を始めた時点で「日が高くあがっていた」の。「さしあげる」は、すうっとあがること。山の端の上まで出切ることをいう。この表現は昼ではなく朝の時間帯。八時では、移動時間が少なすぎるし、十時では遅い。九時頃であろう。「加持など参るほど」の「ほど」は経過(~のうちに)でなく、時間(頃)の意味だ。「ほど」にはもちろん、どちらの意味もあるし、ここだけ読むならどちらでも意味は通る。さらにいえば、意味の違いが問題にならないことの方が多いくらいだ。だからといって、どちらの意味で訳すか、その判断基準を明確にせずに訳すのは無責任である。どちらでもよいという証明を行った上でどちらかの意味に訳すのなら問題はない。しかし、そんな面倒な手続きを踏む訳者はいないものだ。というより、無意識のうちに訳をつくってしまっているため反省のしようがない。どこまで綿密に精読できるかが、その人の読解力を示すと見てよい。意図せぬ過ちは避けようがないのだ。

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