あやしきことなれど 若紫04章09

2021-04-28

原文 読み 意味

あやしきことなれど 幼き御後見に思すべく 聞こえたまひてむや 思ふ心ありて 行きかかづらふ方もはべりながら 世に心の染まぬにやあらむ 独り住みにてのみなむ まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへて はしたなくや などのたまへば

05061/難易度:☆☆☆

あやしき/こと/なれ/ど をさなき/おほむ-うしろみ/に/おぼす/べく きこエ/たまひ/て/む/や おもふ/こころ/あり/て ゆき/かかづらふ/かた/も/はべり/ながら よ/に/こころ/の/しま/ぬ/に/や/あら/む ひとりずみ/にて/のみ/なむ まだ/にげなき/ほど/と/つね/の/ひと/に/おぼし/なづらへ/て はしたなく/や など/のたまへ/ば

「自分でも不思議な気持ちだけれど、幼いお方の後見にお考えいただけるよう、どうかその方に申し入れて下さらぬか。思うところがあって、通い行き関わりあいを持っている方もありながら、心からの愛情が湧かないためであろうか、独り暮らしばかりしている次第で。まだふさわしからぬ年齢であると、世の女一般に比してお考えになっては、きまりの悪いことでしょう」などとおっしゃると、

あやしきことなれど 幼き御後見に思すべく 聞こえたまひてむや 思ふ心ありて 行きかかづらふ方もはべりながら 世に心の染まぬにやあらむ 独り住みにてのみなむ まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへて はしたなくや などのたまへば

大構造と係り受け

古語探訪

あやしきこと 05061

僧都が不審がることへの先回りした弁明ともとれる(訳は「妙なことを言うようですが」)が、後見なりたいという自分の感情に対して「あやしことこ」と言っているとも取れる。訳文は後者として取った。

思すべく聞こえ 05061

「思す」の主体について諸注は判然としないが、「聞こえ」の主体は尼君と考える。しかし、どちらも紫を主体とすべきである。これは文法の問題ではなく、結婚の話を紫にするのか、親代わりの尼君にするのかという問題である。当時の結婚形態としては、先に親に話を持ち掛けるというのが自然ではあるが、この部分の会話の焦点が、尼君に向っているのか、紫であるのかを熟考すべきである。先ず、光は「後見」という表現を用いているが、これは妻にする、すなわち、セックスの対象を意味する。だからこそ、僧都は「ご覧じがたくや」と、妻にしがたいだろうと答えているのである。尼君がどういうかという問題ではない。これが決め手であるが、もっとわかりやすいところがあるので、そちらで説明すると、「思すべく聞こえたまひてんや」と光依頼したのに対して、「くはしくはとり申さず、かの叔母(=尼君)に語らひはべりて聞こえさせむ」と僧都は答えている。光が尼君に話をしてほしいと言っているなら、「かの叔母」とはならない。「叔母」でいいわけだ。「かの」とつけたのは、今の話題に叔母は関係ないからこそ、遠い場所のものをひっぱってくる働きをもつ「かの」を心理的に入れたくなったのである。ついでながら、「聞こえさせむ」は、光に返事をするとの意味で解釈されてきたが、それも間違いである。(尼君と相談して)紫に結婚話を伝えましょうの意味である。光が「(紫に)聞こえ」てほしいと申し入れたのを受け、「(紫に)聞こえさせむ」と僧都は答えたのである。

世に 05061

打ち消しの語と呼応して、まったく(ない)の意味でも用いるが、男女の気持ちとしての意味でもあり、二重性を帯びた言葉。濃度としては後者の方が多い気がする。実字としての「世」があって、虚字の「よ~打消し」が裏で働くのである。

まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへてはしたなくや 05061

諸注は、光が自分に対して言っている表現ととるが、間違いである。話の焦点が「紫」であることを見落としてはならない、これが一番大切だが、上の解釈は文法的に間違っているので、それも記しておく。形容詞の連用形につく「や」は、疑問・推量であり、「あらむ」などの省略である。上の解釈は「や」を詠嘆ととっているが、詠嘆の「や」は形容詞につく場合は「終止形」につながる。「はしたなしや」であれば、光が自分をはしたないと感じていることになる。しかし、「はしたなくや」とあれば、はしたない気持ちを抱くであろうの意味である。その主体は、話の焦点である「紫」にほかならない。まだ結婚する年齢にはなっていないと、ほかの少女と比較しては、いたたまれない気持ちになるだろうとの意味である。

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