はるかに霞みわたり 若紫01章10

2022-03-19

原文 読み 意味

はるかに霞みわたりて 四方の梢そこはかとなう煙りわたれるほど 絵にいとよくも似たるかな かかる所に住む人 心に思ひ残すことはあらじかし とのたまへば これは いと浅くはべり 人の国などにはべる海 山のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば いかに 御絵いみじうまさらせたまはむ 富士の山 なにがしの嶽など 語りきこゆるもあり また西国のおもしろき浦々 磯の上を言ひ続くるもありて よろづに紛らはしきこゆ

05010/難易度:★☆☆

はるか/に/かすみ/わたり/て よも/の/こずゑ/そこはかとなう/けぶり/わたれ/る/ほど ゑ/に/いと/よく/も/に/たる/かな かかる/ところ/に/すむ/ひと こころ/に/おもひ/のこす/こと/は/あら/じ/かし と/のたまへ/ば これ/は いと/あさく/はべり ひと/の/くに/など/に/はべる/うみ やま/の/ありさま/など/を/ごらんぜ/させ/て/はべら/ば いかに おほむ-ゑ/いみじう/まさら/せ/たまは/む ふじ/の/やま なにがし/の/たけ など かたり/きこゆる/も/あり また/にしくに/の/おもしろ/き/うらうら いそ/の/うへ/を/いひ/つづくる/も/あり/て よろづ/に まぎらはし/きこゆ

はるか遠くまで霞がひろがり、四方の梢がそこはかとなく煙っている具合は、「よくもまあ絵に似たものだな。こんな所に暮らしている僧侶たちは、心に思い残す悩みはないだろうな」とおっしゃると、「これはまだ序の口です。よその国などにございます海山のありさまなんかをご覧にいれられましたら、どんなに絵が今以上ご上手になられましょう」「富士の山、なんとか岳」などとお話申し上げる者もあり、また、西の国の興味をひく浦々や磯の景色について話つづける者もありして、いろいろなことにお気持ちを紛らわし申し上げる。

はるかに霞みわたりて 四方の梢そこはかとなう煙りわたれるほど 絵にいとよくも似たるかな かかる所に住む人 心に思ひ残すことはあらじかし とのたまへば これは いと浅くはべり 人の国などにはべる海 山のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば いかに 御絵いみじうまさらせたまはむ 富士の山 なにがしの嶽など 語りきこゆるもあり また西国のおもしろき浦々 磯の上を言ひ続くるもありて よろづに紛らはしきこゆ

大構造と係り受け

古語探訪

はるかに霞みわたりて 05010

この部分から光の会話とする注もあるが取らない。

よくも 05010

「も」はこれほどまでに。

かかる所に住む人 05010

僧房で生活している出家人を指す。

心に思ひ残すことはあらじ 05010

感興を味わいつくす意味ではない。主語(かかる所に住む人)が僧侶であることを考えれば、「思ひ残す」とは、出家の邪魔になる世俗への思いということになる。出家の願いは、光の底流にいつも流れている。源氏物語の主題の一つ、最大ではなくとも小さくはない主題の一つに出家がある。平安人の精神構造として、恋と出家は相反するものではない。恋をしながら出家を願い、出家に思いを馳せながら恋をするのである。

思ひ残すこと

「思ひ残すことなし」とは、思いを他に残すことなく、ひたむきに何かにひたることが原義であろう。すなわち、余念がないこと、他事にかまけぬこと、もっぱら何かに打ち込むことなどの意味となる。
ここで注意したいのは、主体は「かかる所に住む人(こういいう場所に住んでいる人、僧侶がその代表)」になっているが、それは間接的ではあるが、自分もここに住み「思ひ残す」身になりたいという、光の願望吐露となっている点である。聖や僧侶などが「かかる所に住む人」の代表なのだから、諸注釈に見られるようなこの風景を味わい尽くすなどの解釈が成り立ち得ないことは明白である。それでは、何に打ち込みたいと光が考えたのか、それを文脈から復元してみよう。
ヒント一、これはいと浅くはべり(従者の言葉)
光の言葉「かかる所に住む人 心に思ひ残すことはあらじかし」に対して,「よろづに紛らはしきこ」えた従者の言葉のひとつ。ここ北山はたいそう浅い場所であるとの意味。注釈書は、もっぱらこれを北山という土地の風情の問題と捉えているが、それでは文脈が途切れてしまう。光が打ち込む場所として、ここよりもっとふさわしい場所があると、従者は言っているのだ。
ヒント二、播磨の明石の浦こそ なほことにはべれ
中でも明石の浦は、光の望みを実現する場所として特別であるとの意味。では、なぜ明石の浦は特別な場所なのか。
ヒント三、後の世の勤めもいとよくして なかなか法師まさりしたる人になむはべりける
明石の浦が特別なのは、明石入道という光の望みを実現した先例が住んでいる場所だからである。
以上を元に「思ひ残すことなし」の文意を復元すれば、世俗のことは忘れ、ひたすら仏道修行に明け暮れること、となる。
北山に病気を治しに来たところが、ここは風情ある場所だから、思い残すことなくここで仏道三昧したいと、光がほのめかしたところ、従者としては、こんなところで出家されては一大事、何とかはぐらかさねばと持ち出したのが明石入道の例である。出家には北山よりもふさわしい場所があるし、それ相応に蓄財もし、立派な住処も立てた上でのことにしてはと、出家問題を先送りしたのだ。
「かかる所に住む人 心に思ひ残すことはあらじかし」と口にした光の言葉から明石入道の紹介までを、未完の出家劇として一続きに読むことでドラマ性が生まれるのである。こういうテキストの絡み合いを紐解く努力なしに源氏物語を読むと、だらだらと長い駄文という感想になるのだろう。
もっとも従者の心配はよそに、光の出家願望は「さてその女は」と明石入道が手塩にかけている娘にへと目移りする。ここで大切な点がある。従者が入道を紹介したのは、あくまで光の出家願望に即して出したわけであって、娘を紹介する意図は本来なかった点である。「さてその女は」と光が話題を転じたから娘のことに説き及ぶはめになったが、それは従者の意図せぬことであったのだ。むろん、後の明石の上となる女性をここで紹介することが、この箇所の最大の眼目ではあるが、それはあくまで付随的な形で行うべきものである。光の出家願望とその先例としての明石入道が一連の流れであるからこそ、娘のことに話題が転じても自然な流れとして読めるのである。出家というキーワード(ピボットターム)を抜きにして、明石というトポスをただ北山よりも風光明媚な場所として読むだけでは、娘を持ち出すためのとってつけた文章になってしまう。

浅く 05010

感興が。

御覧ぜさせて 05010

「させ」は使役。光に見てもらう。

なにがしの嶽 05010

富士山と併称されることから、浅間山であろうとされている。これらは東国の山の話。一方、西国の話は山ではなく、海について。

おもしろき 05010

風情があるのではなく、興味を引くの意味、光が気病みせぬよう紛らせるためにする話のこと。

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