見てもまた逢ふ夜 若紫09章06

2021-05-14

原文 読み 意味

 見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな
と むせかへりたまふさまも さすがにいみじければ

05141/難易度:☆☆☆

 み/て/も/また/あふ/よ/まれ/なる/ゆめ/の/うち/に/やがて/まぎるる/わがみ/ともがな
と むせかへり/たまふ/さま/も さすが/に/いみじけれ/ば

《こうして愛し合ってもまた逢う夜はなかなかおとずれない このお逢いできている夢のなかに このまま我が身を紛れ込ましてしまいたい》
と歌の激しさばかりか、むせ返りになるご様子も、さすがに激しいので、

 見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな
と むせかへりたまふさまも さすがにいみじければ

大構造と係り受け

古語探訪

見ても 05141

性交渉をしても。

また 05141

「あふ」にも「まれなる」にもかかる。限定しきらないのが歌の技巧。

逢ふ 05141

逢瀬の意味と夢がかなうの二重の意味。

夢 05141

寝てみる夢と希望の実現した瞬間の二重の意味がある。

まれなる 05141

やはり二句に取り残され、「あふ」のが稀である意味と稀な「夢」の二重にかかる。稀な夢とは、いま藤壺と抱き合っているこの現実を夢の世界(二重性の両方の意味)におきかえ、その中にまぎれこんでしまいたいと望むのである。「くらぶの山に宿りもとらまほしげ」がここで生きる。現実には夜明けのない場所などないが、そんな夢の世界に行って、いつまでも藤壺と抱き合っていたいと言うのである。今あっているこの現実を夢(願望充足)だととらえている点に注意したい。

さすがに 05141

現代語は肯定的な意味で賞賛する際などに使用するが、古文では否定的な文脈でつかう。ここも話者の非難の意識が反映していると考えるべきである。その非難は「いみじ」に対して、すなわち、感情が激しすぎる、すなわち光の藤壺への愛情が強すぎることを非難しているのだ。

むせかへりたまふさまも 05141

「も」はその激しい歌ばかりかむせかえりお泣きになる様子までが激しいのだ。この激しさは、二人を破滅に導く恐れがあるからである。帝に知れる危険性があるし、人に知られないでも仏教的には執着の激しさを意味し、来世への悪因果となる。そこで藤壺は、光とは距離をおいた諭しの歌となる。「さすがに」をさすがに藤壺は感じ入ってと諸注は解釈するが、それでは藤壺の距離をおいた歌の真意は汲み取れない。

Posted by 管理者