君は御衣にまとはれ 若紫15章14
原文 読み 意味
君は御衣にまとはれて臥したまへるを せめて起こして かう 心憂くなおはせそ すずろなる人は かうはありなむや 女は心柔らかなるなむよき など 今より教へきこえたまふ
05252/難易度:☆☆☆
きみ/は/おほむ-ぞ/に/まとはれ/て/ふし/たまへ/る/を せめて/おこし/て かう こころうく/な/おはせ/そ すずろ/なる/ひと/は かう/は/あり/な/む/や をむな/は/こころ/やはらか/なる/なむ/よき など いま/より/をしへ/きこエ/たまふ
女君は召し物にまとわれて横になっていらっしゃるが、無理に起こして、「そんなうらめしそうになさるものではありません。特別な思いのない人がこんなにいたしましょうか。女は、心やわらかなのが一番」などと今から教え申し上げになられる。
君は御衣にまとはれて臥したまへるを せめて起こして かう 心憂くなおはせそ すずろなる人は かうはありなむや 女は心柔らかなるなむよき など 今より教へきこえたまふ
大構造と係り受け
古語探訪
かう心憂くなおはせそ 05252
紫が臥せっていることに対して見ている光が、そんな心憂く感じられるようにしていなでほしいと、諸注によればそのように解釈するのだそうである。「心憂し」を、紫の気持ちでなく、見ている光の気持ちと解釈しないといけないのか、その理由はわたしにはてんでわからない。強いて予想すれば、通常、相手の気持ち(この場合は紫)を推し量るのであれば、現代語でも、「うっとおしくするな」より、「うっとおしそうにするな」という感じで、推量表現が入るものである。ここにはそれがない。従って、「心憂し」は光の気持ちである。そんなところだろうか。しかし、推量表現があるかないかは、主体を決める絶対的根拠ではないし、この場合「かう」という程度表現が推量表現に準じると考えることが可能だと思う。結局は文脈にどちらが沿うかである。それを見るには、会話文全体が理解されていないとわからないので、まずその分の注釈を終わらせる。
すずろなる人 05252
関係のない人、つまり、自分のように面倒を見ようとも思っていない人の意味。「すずろ」は、特別の理由根拠がないの意味。紫に対してこれまで接してきたようなやり方が特別であり、そうでない人である。さらに具体的には、自分の欲望だけを考えて、強姦したであろう人である。光は、紫の夫的立場でもあり親的立場にもなっているのである。
かうはありなむや 05252
こんな風にやさしく接するであろうかの意味。
心柔らかなる 05252
何かに偏したりこだわったりすることなく、柔軟に対応できること。さて、改めて考えよう。最初の文と次の文の関係は、最初が主で後が従である。前の文「うっとおしくするな(うっとおしいと思われるような態度をするな)」という前の文に対して、「わたしでなければもっと強引にするのだから」との理由を示しているのがあとの文だからである。では、第二文は第三文とは直接関係がない。そうなると、第一文と第三文の関係はどうかである。「女は心やはらかなるがよき」が言いたいことであり、それから外れるから「かう心憂くなおはせそ」と光が言っているのであることは明らかであろう。とすれば、光自身がうっとうしいから、よせと言っているのか、紫はそんな風にしているのは、「心やはらか」でないからだめなのかという問題に行き着く。いつまでも臥している紫をみて、そんな嫌そうするなと取るのが自然だと思うがどうであろう、だからこそ、自分でなければもっと嫌なめに合ったという文が補足の意味をもち、嫌そうにしていないで、女は心が柔軟なのが一番だと自然に続いてゆくのである。「ただひたぶるに児(こ)めきてやはらかならむ人をとかくひきつくろひては、などか見ざらむ、心もとなくとも直しどころある心地すべし(ひたすら子供っぽくて従順な人を何とか至らぬところを補いながら世話するのがよかろう、気がかりでも直し甲斐がある感じがするだろう)」と雨夜の品定めにあった。