御髪かき繕ひなどし 若紫14章13

2021-05-10

原文 読み 意味

御髪かき繕ひなどしたまひて いざ たまへ 宮の御使にて参り来つるぞ とのたまふに あらざりけり と あきれて 恐ろしと思ひたれば あな 心憂 まろも同じ人ぞ とて かき抱きて出でたまへば 大輔 少納言など こは いかに と聞こゆ

05234/難易度:☆☆☆

みぐし/かき-つくろひ/など/し/たまひ/て いざ たまへ みや/の/おほむ-つかひ/にて/まゐり/き/つる/ぞ と/のたまふ/に あら/ざり/けり/と あきれ/て おそろし/と/おもひ/たれ/ば あな こころう まろ/も/おなじ/ひと/ぞ とて かき-いだき/て/いで/たまへ/ば たいふ せうなごん/など こは いかに と/きこゆ

御髪を撫でつくろったりなさって、「さあ、いらっしゃい。宮のお使いとして参りましたよ」とおっしゃると、父ではなかったのかと呆然とし、怖がっておいでなので、「ああ情けない、わたしも同じ血筋なのに」と言って、かき抱いて寝所を出て行かれたので、惟光や少納言などは、「これはどういうつもりか」と申し上げる。

御髪かき繕ひなどしたまひて いざ たまへ 宮の御使にて参り来つるぞ とのたまふに あらざりけり と あきれて 恐ろしと思ひたれば あな 心憂 まろも同じ人ぞ とて かき抱きて出でたまへば 大輔 少納言など こは いかに と聞こゆ

大構造と係り受け

古語探訪

宮の御使にて参り来つるぞ 05234

これは紫が寝ぼけて、「宮の御迎へにおはしたる」と寝ぼけて思ったことから、光が即興的に作り出したでまかせである。すこし前になるが、光が空蝉の閨に初めて忍び込もうとした時、「中将の君はいづくにぞ」と、空蝉が中将という女房をさがした言葉をとらえ、当時中将の位であった光は、「中将召しつればなむ(中将をお呼びになったので)」と言って、閨に入ってゆく場面が思い出される。男が女のもとへ行くときには、それなりの遠慮が働くのであろう。これはさらに、古代の恋愛を下に引いているのかもしれない。例えば、万葉集の最初の歌、「家聞かな、名告(の)らさね……われこそは、告(の)らね、家をも名をも」がある。男が女を見初めた場合、男は女の家を聞き、名を問う。そこで女が答えると、夜ばいをしてもよいという合図となり、男は女のもとに出かけてゆくのである。同意があって、はじめて許されるという関係が、ここでも持ち込まれているのではないかと思う。しかし、紫は寝ぼけていただけのことで、相手が宮の使いであって、宮でないと知り、恐怖におののく。なぜなら、本当に宮の使いであるなら、寝所まで入ってくるはずがないからである。ここで今日の問題箇所となる。

あな心憂まろも同じ人ぞ 05234

光はもちろん本心から「心憂」と言っているわけではない、相手が光だとわかって怖がっているのではなく、見知らぬ者が寝所に入ってきたことにパニックになっていることに、光は気づいているからである。その点は、特に注はないが、どの注釈も認めてくれるだろう。問題はその次、「まろも同じ人ぞ」で、わたしも同じ人間だと平等を説いたわけではもちろんない。わたしも父宮と兄弟であり、同じ宮であるの意味だ。つまり、初め紫は、入ってきた人を宮(父宮)と思った。しかし、光が父宮のお使いとして自分は来たと方便を言った。この時点では、相手を光とは知らない紫は、使いであって宮(父宮)でないと知りおびえた。そこで、光はわたしも宮だ(父宮ではないが、同じ宮の血を引いている者だ)と答えたのである。つまり、「宮の御迎へにおはしたる」と思った紫は結局正しかったと光は言いくるめているのだ。単なるこれは言葉遊びなのかも知れない。女のもとに入る照れとしてそういう言葉尻が大切なのかも知れない。しかし、わたしは、先にも述べたように、これは女の同意を得ることで恋愛が成り立つという、古代の恋愛を、形骸化してしまっているかもしれないが、受け継いでいるのだと見たい。強弁であることは読んですぐわかる。逆に、その強弁さが、なぜそんな強弁をする必要があったのかとの疑問を生むことになる。その解釈のひとつとして、古代的な恋愛をわたしは持ち出したまでである。もっとよい説明があるかも知れないが、諸注が何も言わないことが不満である。「大夫」は惟光。これを「大輔」の漢字をあて、少納言とは別の女房と取る説がある。しかし、大輔は少納言より身分が高い。その高い身分の大輔がいるのなら、これまでにも光の対応に出て来てよいはずである。ここにだけ「大輔」が出てくることは、物語として破綻があると思うがどうであろう。これまで紫の側で出て来た女房は、少納言だけである。少納言の乳母、乳母とのみ言う時もある、こんな線引きは誰もしないからあえてやれば、対社会的には少納言、紫に対しては乳母という使い分けが、かなり意識的になされている。光への対応はふだんは、対社会的な少納言であり、床入りの際はプライベートであるため、少納言でなく乳母という呼び方で統一される。惟光もやはり、公的には大夫であり、光との私的な場合は惟光となる。同一人物の呼び名が変わる時は、注意をしてみるとよい。呼び名を換えるには、それだけの理由があるはずである。考えてもみてほしい、今と昔では名の持つ意味の重さが違うのだ。通常は、おやがつけた名を呼ぶことさえタブーであった時代である。意識的にしろ無意識的にせよ、名を出すときには、非常な神経をつかったに違いないのだ。

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