秋の夕べはまして心 若紫10章18
原文 読み 意味
秋の夕べは まして 心のいとまなく思し乱るる人の御あたりに心をかけて あながちなるゆかりも尋ねまほしき心もまさりたまふなるべし 消えむ空なき とありし夕べ思し出でられて 恋しくも また 見ば劣りやせむと さすがにあやふし
05174/難易度:☆☆☆
あき/の/ゆふべ/は まして こころ/の/いとま/なく/おぼし/みだるる/ひと/の/おほむ-あたり/に/こころ/を/かけ/て あながち/なる/ゆかり/も/たづね/まほしき/こころ/も/まさり/たまふ/なる/べし きエ/む/そら/なき/と/ありし/ゆふべ/おぼし/いで/られ/て こひしく/も また み/ば/おとり/や/せ/む/と さすが/に/あやふし
秋の夕べは、まして心の休まる時なく思い悩む人のことばかり心に占めて、無理にもそのゆかりの人までもいつにもまして尋ね取りたいお気持ちがおまさりになるのだろう。「消えむ空なき」と尼君が詠まれた夕べを思い出しになって、恋しくもあり、また、会えば宮に見劣りするだろうかと、さすがに心にかかる。
秋の夕べは まして 心のいとまなく思し乱るる人の御あたりに心をかけて あながちなるゆかりも尋ねまほしき心もまさりたまふなるべし 消えむ空なき とありし夕べ思し出でられて 恋しくも また 見ば劣りやせむと さすがにあやふし
大構造と係り受け
古語探訪
まして 05174
これまでもそうであったが、今はそれまで以上にそうだとの意味。問題なのは「まして」がどこにかかるかである。「心にかけて」にかかるなら、この段の中心は藤壺への思いとなる。「心まさりたまふなるべし」にかかるなら、中心は紫への思いとなる。文章の流れからすると、この段の前後ともに紫への思いであるから、こちらを中心主題とするのが自然であるが、この段に出てくる歌にしても、藤壺あっての紫であるとの意識が常にあるため、意味の強弱では前者となる。結局その弁別は難しいが、直接には前者に、それが後者にも影響すると考えるのが実際的かと思う。それは「ゆかりも」の「も」が、藤壺はもちろん紫までもの意味であるから、やはり藤壺が先で紫は後という順列が常に光の中にあるからである。
あながちなる 05174
「ゆかり」でなく「心」にかかる。
見ば劣りやせむ 05174
見たら想像していたより劣るだろうとの解釈と、藤壺より見劣りするだろうとの解釈がある。すでに透き見して顔を知っているのだから、想像より見劣りするとの解釈は許されないし、唐突だ。
さすがにあやふし 05174
なかなか微妙な心情である。光には藤壺が絶対である、その代理として紫に心惹かれているのである。しかし、実際に会ってみると、藤壺より劣る危険性がある。そうなると紫への気持ちは途絶える可能性がある。さすがにそれを心配するという構造。つまり、紫単独で愛するという感情はない。だからと言って、関係が切れてしまうのはさすがに恐れるということ。この「さすがに」には、深い意味がこもっている。さすがにの意味、それでもやはりというニュアンスをしっかり汲み取りたい。