いとどあはれに限り 若紫09章16
原文 読み 意味
いとどあはれに限りなう思されて 御使などのひまなきも そら恐ろしう ものを思すこと ひまなし
05151/難易度:☆☆☆
いとど/あはれ/に/かぎり/なう/おぼさ/れ/て おほむ-つかひ/など/の/ひま/なき/も そら-おそろしう もの/を おぼす/こと ひま/なし
帝はますますいとしくこの上なくお愛しになって、御使者などがひまなくやって来るのも、何事も天に見抜かれているように恐ろしく、運命をお考えになるばかりである。
いとどあはれに限りなう思されて 御使などのひまなきも そら恐ろしう ものを思すこと ひまなし
大構造と係り受け
古語探訪
ものを思す 05151
自分の運命、自分の存在、この身、現世など、当時の王朝の語彙では表現しきれない、これと定義できないが、はっきりそこにあって存在感を示すものが「もの」であり、それがウエットでネガティブであるのは、当時の人生観・世界観がそうさせるのであろう、けっして楽観的には使用されない。ここからは、推測になるが、ここの文脈からすると、「もの」は「宿世」とのかかわりが強い語である。そこで「宿世」の意味だが、前世からの決まりで今世があるという意識であり、それは因に対して果が起こるという意識である。宿世には、前世の因の方に意味の重点がある場合と、今世の果の方に意味の重点がある場合とがある。さてここで、この文脈のみから、あえて「もの」を定義づけると、悪しき宿世の結果、今生にもたらされた悪果を「もの」というと定義できると思う。ついでに「物の怪」も見ておくと、今生の悪果である「もの」からにじみ出て、また「もの」に影響を与える不可思議な作用。ただし、注意したいのは、「宿世」は仏教的であり、「もの」「もののけ」は日本的な語である。それらは本来別々にあった語のはずであるが、お互い使用される場面が似通っていたため、意味に影響を与え合ったのではないかと想像するのである。少なくとも、この場面の「宿世」と「もの」を理解するには以上のような両者のつながりを理解する必要があると思う。別の場面での「もの」がこの理解でいいのかは、また別の話であるが、ある種の「もの」の意味はこの理解で間に合うのではないかと思う。