宮もあさましかりし 若紫09章04
原文 読み 意味
宮も あさましかりしを思し出づるだに 世とともの御もの思ひなるを さてだにやみなむと深う思したるに いと憂くて いみじき御気色なるものから なつかしうらうたげに さりとてうちとけず 心深う恥づかしげなる御もてなしなどの なほ人に似させたまはぬを などか なのめなることだにうち交じりたまはざりけむ と つらうさへぞ思さるる
05139/難易度:☆☆☆
みや/も あさましかり/し/を/おぼし/いづる/だに よ/と/とも/の/おほむ-ものおもひ/なる/を さて/だに/やみ/な/む/と/ふかう/おぼし/たる/に いと/うく/て いみじき/みけしき/なる/ものから なつかしう/らうたげ/に さりとて/うちとけ/ず こころふかう/はづかしげ/なる/おほむ-もてなし/など/の なほ/ひと/に/に/させ/たまは/ぬ/を などか なのめ/なる/こと/だに/うち-まじり/たまは/ざり/けむ/と つらう/さへ/ぞ/おぼさ/るる
宮も思いも寄らなかった最初の夜の逢瀬を思い出すだけでも、常に頭を去らない悲運の嘆きであるので、せめてその一度だけできっぱり逢うまいと深く決意なさっていたのに、今こうして再び関係を結ぶことがとても心苦しくて、そんな運命が空恐ろしく感じておられるご様子でありながら、つい心慕われる愛らしい感じで、と言って心許すのではないが、愛情が深く、見ている方が恥じ入てしまうほど立派なご対応が、何と言っても尋常の人と同程度ではおすましになれないのを、どうして凡庸な点が少しでも交じっていらっしゃらないのかと、つい恨めしくさえお感じになる。
宮も あさましかりしを思し出づるだに 世とともの御もの思ひなるを さてだにやみなむと深う思したるに いと憂くて いみじき御気色なるものから なつかしうらうたげに さりとてうちとけず 心深う恥づかしげなる御もてなしなどの なほ人に似させたまはぬを などか なのめなることだにうち交じりたまはざりけむ と つらうさへぞ思さるる
大構造と係り受け
古語探訪
宮も 05139
「いと心憂く」にかかる。
あさましかりし 05139
過去になっている点に注意。今描写している逢瀬を過去として捉えているのではない。今の逢瀬は「心憂し」と現在形であるから、これはこの時より以前と読む以外にない。「あさまし」は予想もしてないことを驚きあきれること。
世とともの 05139
四六時中。
もの思ひ 05139
「もの」はこの場合、運命。自分の運命の拙さを嘆くのである。
さてだにやみなむ 05139
以前逢った逢瀬一回切りで止めてしまおうということ。これも何度も書いたことだが、すでに光と藤壺は、今回より前に一度濡れ場を経ているのである。ただし、古今東西の古代悲劇文学がそうであるように、帝王たる者は一回の交わりで女を孕ませるものである。そこから考えるに、一度目はおそらく、藤壺の激しい抵抗に合い、挿入には至らなかったのだ。そこで今回は二度目であるが、挿入としては初回ということになり、古代の帝王の列に光も並ぶのである。むろん、そんなことはどこにも書いてないので、想像の域を出ないが、ま、そんなところであろうと思う。
憂くて 05139
自分が情けなくなることだから、光に対してではなく、自分の運命に対しての感慨。
いみじき 05139
この世らしからぬ感じ。運命に弄ばれた藤壺の人を寄せ付けぬいかめしさを言うのだろう。荘厳美。このあたりから、語り手は藤壺の意識から光の意識へと物語の焦点を移す。
ものから 05139
逆接。そうでありながら。
さりとて 05139
逆接。
心深う 05139
愛情こまやかなの意味で、「御もてなし」にかけても、「似させたまはぬ」にかけてもさして変わらないだろう。
人に似させたはまぬ 05139
ここだけ「させ」と「たまはぬ」の二重敬語を使う理由はないので、この「させ」は使役ととる。すると意味は、もてなしにおいて、そこらの女では真似させてはおかない、すなわち、とても真似のできないようなということ。「なのめ」は不足な点。「つらう」は人からの仕打ちに対しての感慨。ここは藤壺に欠点がなく、忘れようにも忘れられないため、うらめしいのだろう。
藤壺の初回の逢瀬 05139
何も述べなかったのは、本当ではない。何としてもものにできなかった空蝉との逢瀬が、藤壺の初回の状況を匂わせている。近代文学なら、同じ女性で書き上げるところを、役割を分担させた描いているのだろう。残念ながら、証明できるものではない。