いとあはれにものし 若紫04章07
原文 読み 意味
いとあはれにものしたまふことかな それは とどめたまふ形見もなきかと 幼かりつる行方の なほ確かに知らまほしくて 問ひたまへば
05059/難易度:☆☆☆
いと/あはれ/に/ものし/たまふ/こと/かな それ/は とどめ/たまふ/かたみ/も/なき/か と をさなかり/つる/ゆくへ/の なほ/たしか/に/しら/まほしく/て とひ/たまへ/ば
「なんともおいたわしいことでいらっしゃる。その方はこの世にお遺しの忘れ形見もないのですか」と、幼かった子のその後のいきさつが、いっそう確かに知りたく思われてお問いになると、
いとあはれにものしたまふことかな それは とどめたまふ形見もなきかと 幼かりつる行方の なほ確かに知らまほしくて 問ひたまへば
大構造と係り受け
古語探訪
いとあはれにものしたまふことかな 05059
過去の表現が使われていないことに注意したい。単に現在表現で過去を表現しているのか(そうかも知れないが、違うかも知れない)。早死にしたという過去でなく、早死にし輪廻して生まれかわっている紫の母の宿業を言うのか(ちょっと考えすぎだな)。この表現は亡くなって母にではなく、母を亡くした紫に対しての愛惜の念ではないかと、強引かもしれないが、わたしはそう捉えている。母が亡くなったという僧都の話に対して直接的には、「さらばその子なりけり」という判断を下したのであって、その時点で光は亡くなった人に同情せず、紫を妻にすることしか考えていないこと。光の発言にしても「幼かりつる行く方」が気になっているのである。これが紫に対してであると思う主な理由であるが、ほかにも、そう読む方が劇的に面白いからでもある。光と僧都が別々の思いから会話を進めているので、光はなかなか思うような答えが引き出せないおかしみが、ここの部分のドラマの核心。最後まで食い違うままで終わると私は見るのである。
幼かりつる行方 05059
「つる」と完了表現が使われていることに注意。さきほど透き見した折りの幼かった子供という意味ではない、母が死んだ当時幼かったの意味である。今も幼いために、時間的混乱があってはならない。「行方」は、その過去から見た未来である。現在からの未来ではない。亡くなった母への同情でなく、当時の紫がその後どうなったのか気がかりなのである。