僧都世の常なき御物 若紫04章01

2021-04-28

原文 読み 意味

僧都 世の常なき御物語 後世のことなど聞こえ知らせたまふ 我が罪のほど恐ろしう あぢきなきことに心をしめて 生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり

05053/難易度:☆☆☆

そうづ よ/の/つね/なき/おほむ-ものがたり のちせ/の/こと/など/きこエ/しらせ/たまふ わが/つみ/の/ほど/おそろしう あぢきなき/こと/に/こころ/を/しめ/て いけ/る/かぎり/これ/を/おもひ/なやむ/べき/な/めり

僧都は、この世がいかに無常であるかのお話や、来世いのありさまなどなどを申し上げお教えになる。自分の犯した藤壺への罪の深さが恐ろしく、そんな道に外れたことに菩提心に向うべき心をすべて費やし、生を与えられている限り、この過ちについて思い悩むことになろうし、

僧都 世の常なき御物語 後世のことなど聞こえ知らせたまふ 我が罪のほど恐ろしう あぢきなきことに心をしめて 生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり

大構造と係り受け

古語探訪

世の常なき 05053

「の」は主格。この世は無常であること。

後世 05053

漠然とあの世、後世と訳すが、ふたつの有り方がある。ひとつは、阿弥陀経などが説く極楽浄土の世界であり、もうひとつは源信の『往生要集』などが説く六道輪廻の世界である。前者は、善行を積んでいれば、死後極楽へと生まれるというものだが、元来生あるものは、六道の世界を生まれ変わり死に変わりした末、仏となり得たものだけが成仏し、輪廻の世界から解き放たれるのである。これはあまりにもむごたらしい死生観であるので、前者の思想が、平安貴族たちが希求し、阿弥陀仏が多く作られていくのである。それはさておき、「後の世」とある場合、ふたつの死生観のうちどちらであるか、あるいはどちらにウエイトが置かれているかを考えることが、物語を深く読むことにつながると思う。この段では、二回「後の世」が出てくるが、そのいずれの場合も、六道の世界が主になっていると読まなければ、光の生に対する反省を生々しく(?)読めないのである。

我が罪のほど 05053

藤壺を強姦したこと。この物語では語られないが、おそらく、「雨夜の品定め」以前に、ことは済んでいるのである。従って、この帖でのちに描写しゃれるのは、二回目の強姦の場面である。ただし、ここからは推察だが、初回では、藤壺の抵抗が激しく、挿入に至らなかったであろうとわたしは見る。なぜなら、一度の性行為で身ごもるのが、古今を通じてなされている帝王の物語であり、源氏物語もその人類共通のパターンを踏むであろうと予想するからである。初回の描写がないのは、この不成功に終わった性行為を省略することで、光の苦悩を浮きあがらせる狙いであろうと想像する。性描写はいかに描いても、いくぶんは滑稽感を伴うものだからだ。二回目である理由はほかにもあるが、詳細は当該個所で行う。

あぢじなきこと 05053

その無軌道さゆえ制御しきれないこと。

心をしめて 05053

心を占めての意味。心をそのことだけに使ってしまうこと。裏を返せば、心にはそうした使用法以外の本来の使い道があるのである。それを考える前に「心」の原義に触れると、おそらく中心の意味であろう。人にとって中心にあるものが、こころ、すなわち、気持ちであるのだ。しかし、たとえば文脈が死生の問題を扱っている場合では、魂の意味に近づいてゆくであろう。「心=気持ち」という公式にするのでなく、場面場面で意味を考えるのが大切なのである。そこでこの場面に戻るが、生において一番大切にすべき事を、帝の妻へ思いを寄せるという道に外れたことだけに、使うのは何と恐ろしいことかの意味になる。では、この世において一番大切なことは何か、それは僧都の説く、世は無常であり、死後に待ちうける六道の苦しみから抜けるための努力、すなわち、仏道修行である。(ことわっておくが、わたしがこの世で一番大切に思うことが仏道修行であると言っているのではない、わたしはそんなことは思わない。ここでは、そう読み取ることが一番文脈に沿うと判断するだけのことである。わたしもそうだが、宗教が問題になると、つい変に勘ぐりがちなので、一言断っておきます。)さて、この場面をより深くよむために必要だと思われるので、「薫習(くんじゅう)」という仏教の考え方を紹介しておく。これはものをいぶせば、かおりがうつるように、あることをしたことがその人にしみこみ、それが将来何かの原因として働くという考え方である。まあ原因と結果なのだが、個々人のすべての動作行動が体に染み込むのであり、そしてそれはそのまま来世にも、その次の生にも、永遠に今行った一挙手一投足が持ち越されていくという考え方。生あるものが、最終的に輪廻転生の末に成仏できるためには、ある生によって成仏の種を得たとは考えず、どの生でもその種を持ちつづけながら発芽させられなかったのだと仏教は考える。発芽させられない原因が、それぞれ個人が過去の生で行った行動の一切の積み重ねが妨げるからである。この悪い原因を悪種(あくしゅ)という。言葉を変えれば、成仏を妨げる原因、すなわちこの世への執着である。逆に、最終的に成仏へとつながる種が、菩提心(成仏したいと願う心)なのである。従って、人の生の中心は、菩提心にあるのである。「心をしめて」を上のように訳したのは、よほど無理があると思われるだろうが、本来、菩提心にむけるべきものを、そんなことに心しめると、この世のみならず後の世にでそれがいかに恐ろしい悪種となるかという文脈であるとわたしは見るのである。「生ける限り」について、生きる限りでなく、生ける限りとなっているのが問題である。これは、生を自分が主体として生きている意識ではなく、他者によって、この生を生かされているという意識の反映だろうと思う。輪廻転生を繰り返すこの世に光源氏として生を与えられたという考えであろうと思う。

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