またゐたる大人げに 若紫02章17
原文 読み 意味
またゐたる大人 げに と うち泣きて
初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに
05040/難易度:☆☆☆
また/ゐ/たる/おとな げに/と うち-なき/て
はつくさ/の/おひ/ゆく/すゑ/も/しら/ぬ/ま/に/いかでか/つゆ/の/きエ/む/と/す/らむ
と/きこゆる/ほど/に
また、そこにすわっている年のいった女房が、まったくですと泣き出して、
《初草が生育した行く末も知らないうちに どうして甘露である露が消えようとするのでしょうか》
と申し上げているうちに、
またゐたる大人 げに と うち泣きて
初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに
大構造と係り受け
古語探訪
いかでか露の 05045
「露」は、諸注のように、はかない意味でしかないとすれば、尼君の歌を立場をかえて読み替えただけで、なんの新味もない歌になる。式部は、物語作家としてはそういう場繋ぎ的な埋めぐさことを許さなかったと思う。ここは、露の恵み、甘露の意味として、初草を世話してゆく立場にあるお方であるのに、どうして生育しないうちに消えようとするのかという反語である。「露」を、はかない命の意味から、草花への恵みの意味に取り替えたことがこの歌の命。第一、主人である尼君の寿命を、露の命とはたとえられないであろう。なお、「若草」「初草」ともに処女の含意がある。草は具体的には陰毛である。女親からすれば生理的な用語として自然な比ゆであるのだろうが、聞く側の光からすれば、かなりエロティックな歌として耳に響いたであろう。この場面の劇的効果は、覗き見している相手が、紫の「生い立たむありか」であり「生ゆく末」である光である点。尼たちはそれを知らずに、紫の将来を心配するところに、劇的効果(ドラマティック・アイロニー)が生じるのである。さらに、それを効果的たらしむ道具としての和歌が、片や女親として自然な言葉遣いである生理的言葉遣いが、もれ聞く男には、非常にエロティックにひびくという役割を果たし、光に紫への思いをつのらせる一役を買っているのだ。ともすれば、めそめそした場面としか読まれていないが、このドラマを組み立てている物語構造は、気分でつくれるような代物ではない。こうしたドラマティック・アイロニーという技法が意識的に使用されるようになるのは、西洋では十九世紀末になってからである。やはり、天才の仕業であると言えると思うが、もうすこし考察をすすめると、この構造をつくる一番の道具立ては、「透き見」である。これが物語りを内と外に分け、読者はその両方を一度に見て、そのギャップを味わえるわけだ。「透き見」は、むろん、式部の専売ではない。平安貴族のもっともポピュラーな恋愛形式である。してみると、式部の天才は、いかにそれを効果的に文学に取り入れたかという点を論じる必要が出てくる。ドラマティック・アイロニーを使ったからえらいのではないのだ。ところで、西洋ではなぜこうした技法が生まれなかったのか、わたしのまったくの空想で論拠はないが、これは物語の視点という問題と絡み合う気がする。西洋の物語は、神の視点(全一者の視点とも)であるか、一人称で書くかが自然であった。前者は、すべてが同時に見通してしまう位置に作者が立つため、「透き見」のような内と外という二重構造は作れないし、あるとすれば、人の心の内と外という構造である。これは心理小説に向う方向である。後者では、自分の見た者しか書けないので、さらに内と外の構造は作れない。これは告白文学に向う。こうした背景の差があるのではないかと思う。
なお、ドラマティック・アイロニーは、何度も繰り返してきた、源氏物語の基本構造である、「言葉」が「事柄」を生むという予言構造の一種である。予言構造では、予言と発現の間に時間的ギャップがあるが、ドラマティック・アイロニーでは時間差はなく、同時刻による内と外という空間差として現れるのである。まあ、縦と横の違いみたいなもの。