人なくてつれづれな 若紫02章01
原文 読み 意味
人なくて つれづれなれば 夕暮のいたう霞みたるに紛れて かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ
05024/難易度:☆☆☆
ひと/なく/て つれづれ/なれ/ば ゆふぐれ/の/いたう/かすみ/たる/に/まぎれ/て かの/こしばがき/の/ほど/に/たち/いで/たまふ
話し相手の女性がいなくて無聊のため、夕暮れ時のひどく霞んでいるのにまぎれて、あの小柴垣のあたりにお立ち出になる。
人なくて つれづれなれば 夕暮のいたう霞みたるに紛れて かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ
大構造と係り受け
古語探訪
人なくて 05026
「人なくて」は「日もいと長きに」と校訂する注釈書が多い。「ひと」と「ひも」は仮名書きすると区別がつきにくく、そのため異文が発生したものか、どちらでも文脈上、とくに問題がないため、どちらをテキストにするかは難問である。Bへ変更した理由を挙げているのは、『注釈』のみであり、これによると、意味はどちらでも通るが、次ぎの二点を理由に校訂したとのよし。
一、出発の時点から、日の動きにより時間の推移に注意を払った描写がつづく。
二、「人なくて」と「人々は帰したまひて」は矛盾するし、冗漫である。
一は、この講義でも見てきたが、これは積極的な理由にはならない。二において、冗漫さは校訂する根拠にならないが、矛盾となればテキスト変更の積極的理由になる。しかし、果たして矛盾するのだろうか。「人なくて」の「人」と「皆人」また京へ帰した「人々」は、そもそも同じレベルの人ではない。「人なくて」の「人」は、無聊をやるに足る話相手、すなわち、光の気持ちを引きつけるに足るだけの人物でなくてはならない。惟光もこれに入らないし、まして供の者では話相手にならないのである(明石の入道の話はたしかに、興味が引かれたが、話の内容に興味を持ったのであって、話し手に興味があるのではない)。しかし、これだとて、「人なくて」でなければならない積極的理由にはならない。ただ、はっきりしない場合は、テキストをいじらないという大原則に沿うのみである。これが、「人なくて」を変更しない理由のひとつ。
私の読解の本分は文脈をおうことにあり、この方法をとる理由は、無意味なテキストでない以上、すべてのテキストは文脈により互いに関連しあっているという大原則から来ている。従って、ここでもどちらかのテキストがより文脈と密接につながっていることが証明できるはずであると思い、その個所をさがすことにした。テキストは可能な限りいじるべきでないという大原則はおいておくとして、『注釈』のあげる一の理由と、これから述べる理由とどちらがより理にかなうものか、読者ひとりひとりが答えをだしていただければと思う。
問題となるのは、少女を透き見したのち、僧都が光のもとを訪ねてきた後の個所。
僧都、世の常なき御物語、後世のことなど聞こえ知らせたまふ。我が罪のほど恐ろしう、あぢきなきことに心をしめて、生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり。まして後の世のいみじかるべき、思し続けて、かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、
ここがどうしても、読んでいて浮いて感じられる。「罪のほど恐ろしう」という後悔の深さも怪しければ、このような山住みをしたいとの望みも疑問である。こうした疑問をもたざるをえない原因のひとつは、すぐに少女に興味をむけてしまうその早さにあるが、しかし、真の理由はここの描写が観念的て、「罪のほど」が具体的に述べられていないためである。要するに他の部分と比べて、描写がお粗末過ぎるのだ。そのお粗末さは、他の部分と関連が見出せない理由による。光がおののく罪は、もちろん藤壺との密通であろうが、それにしても、具体性がなさすぎる。
ここからが、わたしの読み。この部分をおもしろく読ませる方法は、「人なくて」の部分と関連させて読むことである。「人なくて」の「人」は、話し相手などとぼかしたが、実際は恋の対象になりえる女の意味である。僧房だから女がいない。光は女なしではいられない性格であることを、「人なくてつれづれなれば」の一文がはっきりと示しているのである。明石入道の娘の話を聞いてしまった光の頭は、もう女のことでいっぱいなわけである。そのはけ口として、透き見に話が移行してゆくのは、至極自然な流れ、というより、式部の天才が光る部分である。藤壺を頂点として、このどんな場所でも女なしではいられないことが、「わが罪のほど」の意味である。それを具体的に読者に提示しているのが、「かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ」。叙述のお粗末さから、こんな平板になっているのではなく、光の性分を浮き彫りにするための筆の省略なのである。語りの内容だけでなく、語り方によって、光を批判しているわけだ。ここをそう読むためには、もっとわかりやすい形で、同様の批判がなされてなければならず、その部分が「人なくてつれづれなれば」であると、私は読んでみた。
以上、「人なくて」である理由をまとめると、
1、テキストはいじらないのが原則。
2、明石入道の娘に興味をもった光は女性的なものが恋しくなった。「人なくて」の「人」は女性の意味。
「わが罪のほど」との関連は、深読みすぎるかもしれないので、これは理由としない。
なお、末尾「あはれに見たまふ」により、尼君は光にとってつれづれを慰める「人」として認知されたのである。