中に小さく引き結び 若紫08章03

2021-05-13

原文 読み 意味

中に 小さく引き結びて
 面影は身をも離れず山桜心の限りとめて来しかど
夜の間の風も うしろめたくなむ とあり

05123/難易度:☆☆☆

なか/に ちひさく/ひき-むすび/て
 おもかげ/は/み/を/も/はなれ/ず/やまざくら/こころ/の/かぎり/とめ/て/こ/しか/ど
よ/の/ま/の/かぜ/も うしろめたく/なむ と/あり

中に、小さく引き結びて、
《すぐそばにいるように心ばかりかこの身をも離れないのです 山桜のようなあなたの幻影が 心で精一杯受け止めてきたのに その場にいるようにと心の限り言って来たのに》
なのに、夜の間の風も心配だという古歌にある通り、散らないかと心配でならず」とある。

中に 小さく引き結びて
 面影は身をも離れず山桜心の限りとめて来しかど
夜の間の風も うしろめたくなむ とあり

大構造と係り受け

古語探訪

引き結び 05123

結び文、すなわち、恋文。

面影 05123

その形がはっきりと目に見えてそこにあること。現代語の面影よりはずっと強烈な語であり、ある種の神秘体験である。なぜそんなにまざまざといない人が目に見えるのかという不可思議さが歌の動機。

身をも 05123

「も」は心から離れないだけでなく。

心の限りとめて来しかど 05123

問題の個所だ。注釈は一様に、心のありったけを北山に残して来たのに(どうして京都にいる肉体にまで面影が見えるのだろう)と取っているが、何だか理屈っぽい感じがする。この解釈を否定する根拠は、この歌詞内にはない(強いて難癖をつけるなら、面影は身をも離れないということは、心をも離れないのだから、北山と京都に二箇所に面影が出没することになる)が、これではダメな根拠がある。それは手紙の末尾、「うしろめたく」につながらないことだ。この歌に限らず、源氏物語に出てくる歌の多くは手紙に書かれており、歌のあとには言葉がある場合が多いが、そうした後書きのある歌は、その歌の心を後書きで繰り返しているのである。後書きと歌の解釈がばらばらである解釈は、もう根底から歌意を取り損ねていると考えた方がいい。ここもそうだが、注釈は多くの歌で後書きを無視しているようである。では、歌意はどうなるか。考える道筋は至って簡単で、後書きの方を先ず解釈してしまうのだ。「夜の間の風もうしろめたく」は、「朝まだき起きてぞ見つる梅の花夜の間の風のうしろめたさに」(拾遺)という古歌をひく。歌意は、朝の来ない内に起きてすぐに梅の花を見てしまう、夜の間の風が花を散らさないかと心配して。すると、歌意は、花が散らないか心配だとの意味だとわかる。
そこで改めて問題の個所を見よう。「心のかぎりとめて来しかど」で不特定要素は「とめて」のみだ。「とめて」の対象を「心(のかぎり)」にのみ限定したのがこれまでの解釈だが、それはむしろ不自然で、「山桜」を「心のかぎりとめて」来たと考える方が自然である。するとまず、心で精一杯山桜を受け止めて来たのに、心だけでなく身をも山桜の記憶が離れないというシンプルな意味が出る。「かぎり」は「限り」ないしは「画り」すなわち、心という区画内に山桜を納めて来たが、そこから漏れ出し身にまでという意識。しかし、これでは花が散らないか心配だとの意味にならない。そこでもう一度考える。心のかぎりとめて来たけど、花が散らないか心配だ。そうか、「とめて」は散るのをとめての意味だと気づく。その場にとどめる、その時間で静止させておくの意味である。私は私が迎えにゆくまでその場にいるよう、精一杯説得してきたのに、今あなたが面影となって現れるのは、もしや私のいない夜の間に、誰かがあなたを散らそうとしているのではないか、との裏の意味が出てくる。その場にとめて来たのに京都まで面影が出没する点が歌の核。「心のかぎりとめて来しかど(精一杯説得してきた)」で、何度もプロポーズしているということを読み手に通じさせることにもなっている。紫にそれがわかるとは思えないが。
まとめ。「心のかぎりとめて来しかど」を心を北山にとめて来たはおかしいと思うが、その解釈をとるのもよい。ただそれのみでは足りず、あとの言葉である「うしろめたく」につながる読み方も必要であることだけは、理解してほしい。歌に前書きがあれば、それとも自然につながることが大切だが、特に後の一言は歌の核心であるのが普通である。その点を改めて注意しておきます。

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