聖御まもりに独鈷た 若紫06章07

2021-05-04

原文 読み 意味

聖 御まもりに 独鈷たてまつる 見たまひて 僧都 聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の 玉の装束したる やがてその国より入れたる筥の 唐めいたるを 透きたる袋に入れて 五葉の枝に付けて 紺瑠璃の壺どもに 御薬ども入れて 藤 桜などに付けて 所につけたる御贈物ども ささげたてまつりたまふ

05093/難易度:☆☆☆

ひじり おほむ-まもり/に とこ/たてまつる み/たまひ/て そうづ さうとくたいし/の/くだら/より/え/たまへ/り/ける/こむがうじ/の/ずず/の たま/の/さうぞく/し/たる やがて/その/くに/より/いれ/たる/はこ/の からめい/たる/を すき/たる/ふくろ/に/いれ/て ごえふ/の/えで/に/つけ/て こんるり/の/つぼ-ども/に おほむ-くすり-ども/いれ/て ふぢ さくら/など/に/つけ/て ところ/に/つけ/たる/おほむ-おくりもの-ども/ささげ/たてまつり/たまふ

聖はお守りに独鈷を差し上げる。それをご覧になって、僧都は、聖徳太子が百済から手にお入れになっていた金剛子できた数珠、それも玉(ぎょく)で飾られているのを、そのまま、同じくその国から輸入した入れ物で唐風仕上げのものを透かし彫りした袋に入れて、五葉の松に結び付けたものや、紺瑠璃の壺などに、さまざまなお薬などを入れて、藤や桜の木などに結びつけたものや、場所柄にふさわしい御贈物などを献上なさる。

聖 御まもりに 独鈷たてまつる 見たまひて 僧都 聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の 玉の装束したる やがてその国より入れたる筥の 唐めいたるを 透きたる袋に入れて 五葉の枝に付けて 紺瑠璃の壺どもに 御薬ども入れて 藤 桜などに付けて 所につけたる御贈物ども ささげたてまつりたまふ

大構造と係り受け

古語探訪

独鈷 05093

煩悩を打ち破る法具。

独鈷を贈った理由 05093

独鈷は金剛杵(こんごうしょ)の一種、金剛つながりで金剛子の数珠を僧都は贈る気になったのだろう。独鈷や金剛子の数珠に何か特別な意味があるのかどうかわからない。「見たまひて」という叙述も気になる。僧都が聖に張り合おうとしたのか何なのか。ともかく、この段を読む限り、聖が聖者であるのに対して、僧都は俗物的な感じが拭えない。面と向ってそうは書かないが、「見たまひて」などという叙述にそれを匂わせている気がする。以上、深読みかもしれないが、僧都は光の恋を取り持つ俗的要素を背負わされていると言ってよかろう。

袋に入れて 05093

難問である。構文は後回しにして、語釈をつける。「金剛子」は菩提樹科の喬木で実が固く数珠の珠に用いられる。「玉」は宝石類。「装束する」は飾る。「五葉の枝」は五葉の松の枝。「金剛子の数珠の玉の装束したる」は、金剛子で作られた数珠で、玉で飾られているもの。
問題は「袋に入れて」とあるが何を袋に入れたかである。諸注は、「箱の唐めいたる」を「透きたる袋」に入れたと考えるが、それでは、数珠はどうしたのか説明がつかない。大事なのは数珠であって、箱ではないはずである。一番大事な部品が余ってしまったんではどうにもならない。根本的な読み直しが必要である。まず当たりとして、入れたのは数珠であろうと考える。すると、「透きたる」袋でなく、「箱の唐めいたるを透きたる」袋だと読みかえる必要が出てくる。箱が唐風仕上げで、それを透かし彫りにしたか、透かし模様を入れたかした袋に、数珠を入れたのだと読める。「その国より入れたる箱」は、数珠が「りける」と過去完了であるのに対して、「入れたる」とある点に注意。同じ百済から取り入れたものだが、時間差がある。「やがて」は「入れて」にかかる。ただし、この解釈の難は、箱を袋と言い換えている点にある。素直に読めば、箱を透くことで袋にしたと読めるがよくはわからない。「を」は接続助詞で、箱は中国風だが、透けた袋に入れてかも知れないが、箱と袋の関係は不明のままだ。

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