優曇華の花待ち得 若紫06章05
原文 読み 意味
優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそ移らね
と聞こえたまへば ほほゑみて 時ありて 一度開くなるは かたかなるものを とのたまふ
05091/難易度:☆☆☆
うどんげ/の/はな/まち/え/たる/ここち/し/て/みやまざくら/に/め/こそ/うつら/ね
と/きこエ/たまへ/ば ほほゑみ/て とき/あり/て ひとたび/ひらく/なる/は かたか/なる/ものを と/のたまふ
《あなたの御到来に待ちに待った優曇華の花に やっと会えた気持ちがして そんなにおっしゃる深山桜には目をくれることもありません》
と僧都がお返し申し上げると、君は微笑みになられ、「三千年の時が経過して一度開くという花では、花に間に合わないでしょうに」とおっしゃる。
優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそ移らね
と聞こえたまへば ほほゑみて 時ありて 一度開くなるは かたかなるものを とのたまふ
大構造と係り受け
古語探訪
優曇華の花 05091
三千年に一度開き、その時に、仏陀または輪転聖王(この世の覇者)が現れるとされている。先にも注したが、光がこの北山へ来たことを、僧都はめったに見られない優曇華の花が咲いたことに比しているのである。
時ありて一度開くなるはかたかなるものを 05091
これがこの段の問題。「時ありて」は、時期がある・決まっているの意味と、時がある・時間が経過するの二つの意味を考えることができる。三千年に一度という時期が決まっていてか、三千年経過するごとに一度か。意味的に差異はあまりないが、「て」の説明は後の方がつけやすいかと思う。経過してそのうえで。「なる」はふたつとも伝聞。「開くなる」の後は、優曇華の花が省略。「かたかなるものを」がポイント。順序があべこべだが「ものを」は軽い非難。「かたし」はめったにないと解釈されているが、それは三千年に一度という主語の中に含まれている。それにめったにないことが何なのか、何の非難になるのか理解できない。光は別れの挨拶として、花が散る前に戻ってくると言って、歌を詠んだのである。なのに、光の訪れを、三千年に一度しか咲かない花に見立てたので、それでは花の折りに間に合わない、あるいはまた三千年経たないとここに来られないことになると、軽い非難をしたのである。従って、「かたし」は「ありがたし」の意味ではなく、「来がたし」の意味である。結局、別れの場面なのだから、「すぐにまた来る」というのが、当然、話の主題である。その太い流れを見落とし、細部だけに目をやるから、間違いに気がつかないのだ。これも繰り返しになるが、ある読みが間違いであるかどうかという最終的な根拠は、全体の流れに沿っているか否かしかないのである。なんとなく読めてしまうことが恐ろしいのだ。本通りを通っているのか、わき道に逸れていないか、常に足下を顧みることが大切である。