武蔵野と言へばかこ 若紫16章02
原文 読み 意味
武蔵野と言へばかこたれぬ と 紫の紙に書いたまへる墨つきの いとことなるを取りて見ゐたまへり
05258/難易度:☆☆☆
むさしの/と/いへ/ば/かこた/れ/ぬ/と むらさき/の/かみ/に/かい/たまへ/る/すみつき/の いと/こと/なる/を/とり/て/み/ゐ/たまへ/り
「武蔵野といえば理由はわからないが、つい連想が働く」と紫の紙にお書きになった、墨の乗り具合がとても鮮やかなのを女君は手にとってご覧になっている。
武蔵野と言へばかこたれぬ と 紫の紙に書いたまへる墨つきの いとことなるを取りて見ゐたまへり
大構造と係り受け
古語探訪
武蔵野と言へばかこたれぬ 05258
A「知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ」(古今六帖)の一部であり、これには本歌B「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(古今集・読人しらず)があり、これはさらに、C「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず」(伊勢物語・初段)の連想が働いている。光の引歌を知るには、Cから理解する必要がある。Cの意味は、春日野の若紫のようなあなた方の姿に、私の心はこの狩衣の模様のように千々に乱れています。「若紫」は歌語で、紫草、若草、若菜、紫などと表現される(若竹となることもある)。Bの意味は、若紫のために千々に乱れたというその紫の草が一本あるせいで、武蔵野に生えるすべての草が好ましく思われる。この歌が人口に膾炙したおかげで、紫は悲恋を示す歌語から、ゆかりを示す歌語(紫一本のために武蔵野の草すべてが好きだとの歌だから。「みながら」は全て)となった。Aの意味、なぜとは分からぬものの、武蔵野というとついため息が出てしまう、そうだそうなるのは、ゆかりの草である紫草が咲いているから、あの人のことが忍ばれるからだ。「紫」は、「ゆかり」すなわち、恋しい人の代理の意味に転じている。ここで、「紫」は藤の色から藤壺を示し、武蔵野、ないしは武蔵野の草はこの女君(のちの紫の上)を当てていると注釈は考える。それはいい。しかし、光が紫に書いて与えた「武蔵野といへばかこたれぬ」と、古今六帖の歌の意味とは別に考えるべきではないか。もしもとの歌の意味を藤壺、女君に当てはめるなら、あなたを見るとつい不平を言いたくなる、それは逢うに逢えない藤壺の姪だからとなる。しかし、そんなつもりで光は紫にこの歌を手本と与えるだろうか。この段の一番最後に「もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひの紛らはしなり」とある。紫は藤壺のゆかりの人である一方で、ゆかりゆえにその代償として光を癒してくれる人である。「かこつ」をこの歌本来の意味である、不平を言うでは、光は癒されることがないことになる。よって、光はこの歌を引いたが、もとの歌の意味まで持ってこず、「かこつ」の本来の意味、「連想する」を当てたものと解釈する。すなわち、悪い意味ではなく、よい意味で光はこの歌を引いたのだ。なんだか取って付けたような解釈と思えるかもしれないが、引用文を解釈する時の原則がここにはある。引用された元の意味を考え、それをそのまま当てはめるのではなく、引用されたあとの文脈の中でもう一度その意味を考え直すという二段階の作業が必要なのである。諸注は第一段階のみで、第二段階を経なかったのである。これは致命的な間違いである。ただし、第二段階を経てなお、もとの意味である場合だってある。しかし、まるまる同じ意味であるケースは極めて稀である。別の文脈で成り立つものを持ってくるから引用の意味があるのであって、同じ意味であれば、その引用は効果がなかったのだ。なお、原文に忠実に読めば、光は古歌の全体を引用せず、カギの中のみを墨書したととるのがよい。