宮にはあらねどまた 若紫11章14
原文 読み 意味
宮にはあらねど また思し放つべうもあらず こち とのたまふを 恥づかしかりし人と さすがに聞きなして 悪しう言ひてけりと思して 乳母にさし寄りて いざかし ねぶたきに とのたまへば 今さらに など忍びたまふらむ この膝の上に大殿籠もれよ 今すこし寄りたまへ とのたまへば 乳母の さればこそ かう世づかぬ御ほどにてなむ とて 押し寄せたてまつりたれば 何心もなくゐたまへるに 手をさし入れて探りたまへれば なよらかなる御衣に 髪はつやつやとかかりて 末のふさやかに探りつけられたる いとうつくしう思ひやらる
05189/難易度:☆☆☆
みや/に/は/あら/ね/ど また/おぼし/はなつ/べう/も/あら/ず こち と/のたまふ/を はづかしかり/し/ひと/と さすが/に/きき/なし/て あしう/いひ/て/けり/と/おぼし/て めのと/に/さし-より/て いざかし ねぶたき/に と/のたまへ/ば いまさら/に など/しのび/たまふ/らむ この/ひざ/の/うへ/に/おほとのごもれ/よ いま/すこし/より/たまへ と/のたまへ/ば めのと/の されば/こそ かう/よづか/ぬ/おほむ-ほど/にて/なむ とて おし/よせ/たてまつり/たれ/ば なにごころ/も/なく/ゐ/たまへ/る/に て/を/さし-いれ/て/さぐり/たまへ/れ/ば なよらか/なる/おほむ-ぞ/に かみ/は/つやつや/と/かかり/て すゑ/の/ふさやか/に/さぐり/つけ/られ/たる いと/うつくしう/おもひやら/る
「宮ではないけれど、同じように邪険にすべき者でもない。こちへ」とおっしゃるので、あのすてきだと思った人だと、子供心にもさすがに、聞き取りよくない言い方をしたなとお感じになって、乳母にそっと寄ってゆき、「ねえったら、あっちへ、ねむいのに」とおっしゃると、「いまさらどうしてお隠れになることがありましょう。この膝の上でお休みなさい。さあもうすこし側へお寄りになって」とおっしゃると、乳母が、「ですから申しましたの、こんなねんねのご様子なんですから」と言って君の方へ押し出して差し上げたところ、どうという恥じらいもなく膝の上に座っていらっしゃるので、夜具の中へ手を差し入れてお探りになると、着馴染んでなよやかな召し物の上に、髪がさらさらとかかって、その先がふさふさして手にとどく、とてもかわいらしとご想像になる。
宮にはあらねど また思し放つべうもあらず こち とのたまふを 恥づかしかりし人と さすがに聞きなして 悪しう言ひてけりと思して 乳母にさし寄りて いざかし ねぶたきに とのたまへば 今さらに など忍びたまふらむ この膝の上に大殿籠もれよ 今すこし寄りたまへ とのたまへば 乳母の さればこそ かう世づかぬ御ほどにてなむ とて 押し寄せたてまつりたれば 何心もなくゐたまへるに 手をさし入れて探りたまへれば なよらかなる御衣に 髪はつやつやとかかりて 末のふさやかに探りつけられたる いとうつくしう思ひやらる
大構造と係り受け
古語探訪
思し放つ 05189
距離をおくこと。
恥づかしかりし人 05189
「し」とはっきりした過去があるので、「この若君、幼心地に、めでたき人かな」と思った思い出がこの言葉に結びついている。諸注の説明はそこまではいいが、立派な人だという訳文はいただけない。「恥づかし」の一般的用法は確かにこちらが気後れするほど相手が立派であるのだが、それは文脈のない辞書の説明にすぎない。男同士なら立派でよいが、それが男女の関係なら、立派だけでなくいろいろとニュアンスが出てくるのである。でも紫はまだ子供だと言ってはいけない。人形を光に見立てて遊んでいたのは、大人の恋愛でなくても好きだという感情が芽生えていると見るべきであろう。だから、気が引けたのである。子供なのに、ぽっとしたのである。それが「さすがに」にこめられている。「さすがに」は「聞きなし」にかかり、子供ながら相手が源氏だと聞き分けたと注にあるが、それだけでなく、「あしう言ひてけりと思して」にかかる。子供心に言い方を間違えたと感じたのである。父親と間違うことが光に申し訳なかったとの思いがあるからだ。その申し訳なさは、人違いした儀礼的な意味ではなく、光を肉親でも他人でもない、特別な人として異化しているからである。こうした前後の文脈があって、「恥づかし」の訳文は決定されるのだ。辞書は無数にある古文の例からオーソドックスな例を十例ほどみつけ、その公約数を当てているのである。文脈にとらわれずどこにでもだいたい当てはまることが狙いなのだ。言い方を換えれば、すべてがレディ・メードというかピンボケである。だから、文脈により自分で焦点を合わせることが利用者の心得である。巻末の冒頭に、そのくらい明記してほしい気がする。最近たばこのパッケージに吸い過ぎると死ぬなどと脅してあるが、辞書を無批判に使用するのは、言葉の文化を殺すことになる。
さればこそ 05189
ですから以前より言ふかひなき御ほどだと申しているのですということ。眠いとむづかる紫の態度に対する言い訳であり、自分たちは本当のことを言っていたのだという弁明であり、紫の実際の幼さを知らせることで光の無理な懸想を思いとどまらせるための言葉。
世づかぬ御ほど 05189
「世」はもちろん男女の仲。「世づかず」とは、精神的には好いた惚れたなどまだわからないということ、肉体的には初潮がないことを言うのだろう、そこまで具体的意味をここで読み取る必要はないが。
何心もなくゐたまへる 05189
前に「膝の上に大殿籠もれよ」と光が誘い、乳母が「押し寄せたてまつり」とあって、ここで「ゐたまへる」とあるのだから、座っている場所は光の膝の上としか考えようがない。男性の膝の上に抱かれているというのは性愛行為である、なのに平然としているのが、「何心もかく」である。これが世づかなさを示している。
手をさし入れて探りたまへれば 05189
説がふたつある。紫や少納言と光との間には御簾があり、そこから手を入れて紫の体をまさぐっているとの説と、髪の着こめられている衣の下に手をさし入れているとの説だ。状況からして前者には無理がある。少納言が押し出したところ、「ゐたまへる」とある先は、御簾から押し出して光の膝の上と考えるのが自然である。だからと言って後者の説が決定的とされないのは、「御衣に髪はつやつやとかかりて」とあり、服の上に服を着るのはおかしいとの常識的判断があるからだ。しかし、この矛盾は簡単に解消する。すぐ後に「霰降り荒れ」とあり、紫は「そぞろ寒げに思したる」とあるので、今は寒い季節なのだ。紫は、服の上に夜具をはおって寝ていた。父が着たと聞いて起き出したが、寒いので夜具をそのまま羽織って来たのである。夜具というのは、今の布団にあたるが、当時は綿入れなどのすこし厚めの大きな羽織みたいなものである。それをうちかけたまま出て来たのだ。その中に手を入れたのである。御簾の中に手だけ差し入れたのではない。たとえそうであっても、そんなことで光は我慢できなかったろう、御簾から自分の膝の上に引き寄せたはずである。
つやつやと 05189
肌触りであって、髪の光沢が目に見えるわけではない。
末のふさやかに探りつけられたる 05189
自然と手に探りつけられるなどと注があるが、意味がわからない。それは、紫の髪が大人の女性のように長くないため、その先まで手に届いたとの意味である。「られ」は従って可能である。「自発」ではない。ふさふさした毛先まで手に届く、そんな幼い髪型だから、「いとうつくしう思ひやる」となるのだ。
うつくしう 05189
かわいいの意味。枕草子を思い出してほしい、「何も何も小さきものはみなうつくし」である。
やらる 05189
距離がある場合につかい、全体で想像するほどの意味になる。やはり御簾越しであり、実際に見ていないので想像したのだと考えてはいけない。紫は膝の上なのだ。もちろん後ろから抱いているのであって、向き合ってふたりが抱き合っているのではない。だから近くても顔は見えない。それでも髪のなめらかな感じ、ふさふさして豊かな感じ、その短さから、まだ幼いけれどかわいらしい人であろうなと推し量ったのである。