げにこそいとかしこ 若紫11章11
原文 読み 意味
げにこそ いとかしこけれ とて
寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる
わりなきこと と聞こゆるさまの馴れたるに すこし罪ゆるされたまふ
05186/難易度:☆☆☆
げに/こそ いと/かしこけれ とて
よる/なみ/の/こころ/も/しら/で/わかのうら/に/たまも/なびか/む/ほど/ぞ/うき/たる
わりなき/こと と/きこゆる/さま/の/なれ/たる/に すこし/つみ/ゆるさ/れ/たまふ
「ですから、とても恐ろしくて」と言い、
《言い寄る波の心の底も知らないで 言葉巧みな和歌の浦に玉藻がなびくみたいな 軽はずみな女でしょうか》
無茶と言うもの」と申し上げる歌ぶりの馴れた言い回しに、すこし疚しさが失せたようにお感じになる。
げにこそ いとかしこけれ とて
寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる
わりなきこと と聞こゆるさまの馴れたるに すこし罪ゆるされたまふ
大構造と係り受け
古語探訪
げにこそ 05186
それだからこそという強い表現。
かしこけれ 05186
人為を超えた自然・神などを前にした時の畏怖がもとである。ここでは、紫の身になり、いきり立った男を前にして強姦されるかも知れないという恐怖感を言う。これは処女喪失の場において今も起こりうる感覚であろう。
寄る 05186
言い寄るという言葉だかの問題でなく実際に体で向かってくるの意味をも持つ。
波 05186
光。ここでは何もしないの意味はこめられていない。
心 05186
本心。表面では世話をしたいだなんだというが、要するに肉体が望みではないのということ。
わかの浦に 05186
和歌になびくを掛ける。
玉藻 05186
海松布の言い換えでやはり、女性器の比喩、女性の提喩(一部で全体をさす比喩)になる。
なびかむほどぞ浮きたる 05186
歌でなびくほど浮ついた女ではないの意味。もちろん、紫の立場になって歌っている。紫は浮いた女ではないと詠んだのではなく、わたくし紫はそんな浮ついた女ではないと詠んでいるのだ。そう詠むことで二首は相聞歌になるのである。単にあの子は浮気な子でないという歌なら、「聞こゆるさまの馴れたるに」とはならない。
馴れ 05186
馴れ馴れしいである。男女間で馴れ馴れしいとは、恋愛感情が仲立ちしているということ。すなわち、相聞歌として詠みあったのである。光の歌いかけに応えたのだ。諸注にあるように手馴れた詠み方というのではない。歌を通して心を許し合うことができたというのが「馴れたるに」である。この「に」は理由を表す。
すこし罪ゆるされたまふ 05186
諸注は、光が紫に会わせないという罪をお許しになると考える。しかし、この解釈には問題がある。地の文で「れたまふ」という二重敬語は、光に使われることが普通ないからである。普通といったのは、光を主語にした用言すべてを確かめたわけではないからであるが、まあ、この前後で「れたまふ」などという表現はない。あればそれは「受け身+たまふ」である。整理すると、地の文で「たまふ」がつくのは、この場面では光のみ、少納言には付かない。また地の文で二重敬語は光には使われない。従って、ここは先ほどの公式「受け身+たまふ」である。光が罪をゆるされたとお感じになったのだ。なぜか、少納言と気持ちを許し合うことができたから。それは、互いに(エロティックな)歌を詠みあうことによってである。では、ここで言う「罪」とは何か。もちろん紫と性交渉することだが、「言ふかひなし」すなわち、まだセックスできる年齢でないのにセックスをすることが罪なのである。「かしこし」とまず少納言が言ったのは、荒ぶる神の姿を見たからである。それは神(光)と人(紫=少納言)との間にある境界に立ち会うことから生まれる感情である。この境界を犯すことが罪であり、神と神との越境である。紫はまだセックスできない年齢である、そのタブーを破ることが光の罪ということ。そういうタブーをかかえた光が、紫になっている少納言と言葉の上で、相聞歌を詠いあったことが、気持ちを楽にさせたのである。境界が薄まったのだ。