05若紫06

2020-05-24

若紫 原文 05-077/05-093

077あな 今めかし この君や 世づいたるほどにおはするとぞ 思すらむ さるにては かの 若草 を いかで聞いたまへることぞ と さまざまあやしきに 心乱れて 久しうなれば 情けなしとて
  枕結ふ今宵ばかりの露けさを深山の苔に比べざらなむ
乾がたうはべるものをと聞こえたまふ 078かうやうのついでなる御消息は まださらに聞こえ知らず ならはぬことになむ かたじけなくとも かかるついでに まめまめしう聞こえさすべきことなむ と聞こえたまへれば 尼君 ひがこと聞きたまへるならむ いとむつかしき御けはひに 何ごとをかは答へきこえむ とのたまへば はしたなうもこそ思せと人びと聞こゆ 079げに 若やかなる人こそうたてもあらめ まめやかにのたまふ かたじけなしとて ゐざり寄りたまへり 080うちつけに あさはかなりと 御覧ぜられぬべきついでなれど 心にはさもおぼえはべらねば 仏はおのづからとて おとなおとなしう 恥づかしげなるにつつまれて とみにもえうち出でたまはず 081げに 思ひたまへ寄りがたきついでに かくまでのたまはせ 聞こえさするも いかがとのたまふ 082あはれにうけたまはる御ありさまを かの過ぎたまひにけむ御かはりに 思しないてむや 言ふかひなきほどの齢にて むつましかるべき人にも立ち後れはべりにければ あやしう浮きたるやうにて 年月をこそ重ねはべれ 同じさまにものしたまふなるを たぐひになさせたまへと いと聞こえまほしきを かかる折はべりがたくてなむ 思されむところをも憚らず うち出ではべりぬると聞こえたまへば いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながらも 聞こしめしひがめたることなどやはべらむと つつましうなむ あやしき身一つを頼もし人にする人なむはべれど いとまだ言ふかひなきほどにて 御覧じ許さるる方もはべりがたげなれば えなむうけたまはりとどめられざりけるとのたまふ 083みな おぼつかなからずうけたまはるものを 所狭う思し憚らで 思ひたまへ寄るさまことなる心のほどを 御覧ぜよと聞こえたまへど いと似げなきことを さも知らでのたまふ と思して 心解けたる御答へもなし 084僧都おはしぬれば よし かう聞こえそめはべりぬれば いと頼もしうなむとて おし立てたまひつ 085暁方になりにければ 法華三昧行ふ堂の懺法の声 山おろしにつきて聞こえくる いと尊く 滝の音に響きあひたり
  吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな
 086さしぐみに袖ぬらしける山水にすめる心は騒ぎやはする
耳馴れはべりにけりや と聞こえたまふ
087明けゆく空は いといたう霞みて 山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり 088名も知らぬ木草の花どもも いろいろに散りまじり 錦を敷けると見ゆるに 鹿のたたずみ歩くも めづらしく見たまふに 悩ましさも紛れ果てぬ 089聖 動きもえせねど とかうして護身参らせたまふ 090かれたる声の いといたうすきひがめるも あはれに功づきて 陀羅尼誦みたり
091御迎への人びと参りて おこたりたまへる喜び聞こえ 内裏よりも御とぶらひあり 092僧都 世に見えぬさまの御くだもの 何くれと 谷の底まで堀り出で いとなみきこえたまふ 093今年ばかりの誓ひ深うはべりて 御送りにもえ参りはべるまじきこと なかなかにも思ひたまへらるべきかななど聞こえたまひて 大御酒参りたまふ

若紫 原文かな 05-077/05-093

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

あな いまめかし このきみや よづいたるほどにおはするとぞ おぼすらむ さるにては かのわかくさを いかできいたまへることぞと さまざまあやしきに こころみだれて ひさしうなれば なさけなしとて
まくらゆふこよひばかりのつゆけさをみやまのこけにくらべざらなむ
ひがたうはべるものを ときこエたまふ かうやうの ついでなるおほむ-せうそこは まださらにきこエしらず ならはぬことになむ かたじけなくとも かかるついでに まめまめしうきこエさすべきことなむ ときこエたまへれば あまぎみ ひがことききたまへるならむ いとむつかしきおほむ-けはひに なにごとをかはいらへきこエむ とのたまへば はしたなうもこそおぼせ とひとびときこゆ げに わかやかなるひとこそうたてもあらめ まめやかにのたまふ かたじけなし とて ゐざりよりたまへり うちつけに あさはかなりと ごらんぜられぬべきついでなれど こころにはさもおぼエはべらねば ほとけはおのづから とて おとなおとなしう はづかしげなるにつつまれて とみにもえうち-いでたまはず げに おもひたまへよりがたきついでに かくまでのたまはせ きこエさするも いかが とのたまふ あはれにうけたまはるおほむ-ありさまを かのすぎたまひにけむおほむ-かはりに おぼしないてむや いふかひなきほどのよはひにて むつましかるべきひとにもたちおくれはべりにければ あやしううきたるやうにて としつきをこそかさねはべれ おなじさまにものしたまふなるを たぐひになさせたまへと いときこエまほしきを かかくるをりはべりがたくてなむ おぼされむところをもはばからず うち-いではべりぬる ときこエたまへば いとうれしうおもひたまへぬべきおほむ-ことながらも きこしめしひがめたることなどやはべらむと つつましうなむ あやしきみひとつをたのもしびとにするひとなむはべれど いとまだいふかひなきほどにて ごらんじゆるさるるかたもはべりがたげなれば えなむうけたまはりとどめられざりける とのたまふ みな おぼつかなからずうけたまはるものを ところせうおぼしはばからで おもひたまへよるさまことなるこころのほどを ごらんぜよ ときこエたまへど いとにげなきことを さもしらでのたまふ とおぼして こころとけたるおほむ-いらへもなし そうづおはしぬれば よし かうきこエそめはべりぬれば いとたのもしうなむ とて おしたてたまひつ あかつきがたになりにければ ほけざむまいおこなふだうのせんぼふのこゑ やまおろしにつきてきこエくる いとたふとく たきのおとにひびきあひたり
ふきまよふみやまおろしにゆめさめてなみだもよほすたきのおとかな
さしぐみにそでぬらしけるやまみづにすめるこころはさわぎやはする
みみなれはべりにけりや ときこエたまふ
あけゆくそらは いといたうかすみて やまのとり-どもそこはかとなうさへづりあひたり なもしらぬきくさのはな-どもも いろいろにちりまじり にしきをしけるとみゆるに しかのたたずみありくも めづらしくみたまふに なやましさもまぎれはてぬ ひじり うごきもえせねど とかうしてごしんまゐらせたまふ かれたるこゑの いといたうすきひがめるも あはれにくうづきて だらによみたり
おほむ-むかへのひとびとまゐりて おこたりたまへるよろこびきこエ うちよりもおほむ-とぶらひあり そうづ よにみエぬさまのおほむ-くだもの なにくれと たにのそこまでほりいで いとなみきこエたまふ ことしばかりのちかひふかうはべりて おほむ-おくりにもえまゐりはべるまじきこと なかなかにもおもひたまへらるべきかな などきこエたまひて おほみきまゐりたまふ

若紫 現代語訳 05-077/05-093

「すぐに言いよるなんて、まあ、今風だこと。こちらの姫君が思春期を迎える頃でいらっしゃるとお思いらしい。それにしては妙だが、あの若草の歌のやり取りを、どのようにしてお聞きになったのか」と、いろいろ解しかねるが、迷っているうちに時が経ってしまうと、礼を逸すると思い、
「枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざらなむ
=旅の枕を結ぶ
今宵ひと夜の
さびしさの涙と
深山にこもる僧侶の
苔の衣に降る涙とをお比べにならないで
こちらは乾きそうもありませんものを」とご返事申し上げなさる。
「こうした人伝のやり取りなど、今まですこしも、聞いたためしのない、初めてのことで。恐れ入りますが、こうした機会に、あなた様から折り入って申し入れていただきたいお話が」と申し上げになると、
尼君は、「どうやら間違った話をお聞きになっておれるのでしょう。何とも応対しづらい真剣なご様子に、どのようなご返事が申されよう」とおっしゃると、
「でも、お出にならないと、いたたまれないお思いなさるといけませんから」と女房たちが申し上げる。
「なるほど、若々しい人が取り次ぐのでは、嫌な気をされるのだろう。真剣におっしゃっている。畏れ多いこと」と言って、君の方へいざりにじり寄って行かれる。
「突然のことで、軽率であるときっとお感じになられるであろう、この時期ですが、心の中にはそのようにも思っておりませんので、仏は自然とおわかりのことと」と言ったものの、尼君のいかにも落ち着いた立派な態度に気おくれしそれ以上は言いはばかれて、すぐにはなんとも言葉がお出にならない。
「仰せのとおり思いも寄りません時期ですので、そうまでおっしゃってくださっても、姫君にお伝え申すのも、どんなものでしょうか」とお答えになる。
「かわいそうだとうけたまわりましたご様子は何とも、あのお亡くなりになられたとかいうお方の身代わりに、わたしをお考えくださいませんか。幼くなんとも頼りない年頃に、親身になってくださるはずのお方にまで先立たれ残りました身ですから、自分でも不思議なくらい実のない空しい感じで年月を重ねては参りましたが、同じような御境遇でいらっしゃるので、お仲間とお考えくださいと、心から申し上げたいのですが、こうした機会がめったにありませず、どうお思いであろうがと憚りもせず、言い出しました次第で」と申し上げになると、
「どんあにうれしく存じねばなりませんお話でありながらも、お聞き違いなさっておられるお話などがおありでしょうかと、遠慮されました。いやしいこの身ひとつを頼みにする者はおりますが、なんともまだ、話に出すまでもないような年齢でして、ご覧になって大目にみていただけるような点もありそうにないものですから、しっかりお聞きになり事実を受け止めてはおられなかったようですね」とお答えになる。
「すべてあいまいなところなくお聞きしておりますものを、大層にとってご遠慮なさらず、お慕い申しております様子、人とは異なる心のうちをご覧下さい」と申し上げになるが、まったく似つきはしない年齢なのに、そうとも知らずおっしゃられると尼君はお考えになり、うちとけたご返答もなさらない。
僧都が戻ってこられたので、よし、こう先鞭をおつけ申したからは、まったく心強い思いでと思い、屏風を押し立てお閉めになった。
暁近くになったので、法華三昧を行う堂から懺法の声の、山おろしの風の音とともに聞こえてくるのが、とても尊く、滝の音に響き合う。
「吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな」
=吹き荒れる
深山おろしに
煩悩の夢がさめて
涙をさそう
滝の音だな
「さしぐみに袖ぬらしける山水にすめる心は騒ぎやはする
=ふとしたことで
袖をお濡らしになった山水だが
ここに住みなれた澄んだ心は
そんなことでは動じません
耳慣れてしまっておりますもので」と申し上げになる。
明けゆく空はとてもとても霞んでいて、山では聞きなれぬ鳥たちがどこで鳴くともなく囀りあっていて、名も知らない木や草の花々も、いろいろにまじりあい、錦を敷いてあるごとく見える、そこに鹿がたたずんだり歩きまわったりするのも、めずらしくご覧になるうちに、ご気分もすっかりお紛れになった。
聖は行のため身動きもできないが、それでも無理をして護身の法をしてさしあげになる。しわがれた声が、抜けた歯の隙間からすけて聞こえてくるのも有り難味があり、修行の功が感じられ、そうした声で陀羅尼を唱えている。
お迎えの者たちが参って、病の平伏をお祝い申し上げ、宮中からもお見舞いがある。僧都は、世間では目にできない感じの木実を、あれこれと、谷の底まで取りにゆき、土産を用意申し上げる。
「今年までの誓いを固く立てましたゆえ、お見送りも参ることができませんのが、かえって別れがつらく感じられますもので」などと申し上げになって、お酒をさしあげになる。

若紫 注釈 05-077/05-093

今めかし 05-077

今風のやり方に対して、誉め言葉にも非難にも使う。この場合、手紙のやり取りや歌のやり取りもなしに、いきなり話しをしたいという態度に対して非難めいて使っている。直接話がしたいという光の申し出に対しても言うか。この点はすでに繰り返したが、大事な点であり、いい加減に読まれてきているので、のちほど詳述する。

この君 05-077

紫。

世づいたるほど 05-077

恋をし出す年齢。具体的には初潮以後のことであろう。

さるにては 05-077

それにしても、の意味ではなく、それにしては(変だ)の意味。紫が思春期に達しているとお聞きのようだが、それにしてはおかしい、なぜと言うに、若草の歌のやり取りを聞いているらしいが、それなら、まだまだ幼くとても恋愛の対象にならないことはわかるはずなのに……。このような矛盾をうちに秘めて出た言葉が「さるにては」である。ついでながら、それにしてもの意味の古語は「さるにても」である。

かの若草 05-077

光が透き見して聞いた和歌。

いかで 05-077

この場合、方法を問う。

さまざまあやしき 05-077

理解できないこと。上に述べたような矛盾や、光は本気なのか今風に恋をしたいだけなのか等々。

さまざまあやしきに心乱れて久しうなれば情けなしとて 05-077

簡単なようでなかなか難しい。というか、諸注は難しささえ感じていないようだ。問題は、情けなしの原因である「なれば」はどかまで受けるかである。直接的には、時間が経っては失礼だということで歌を詠むのだが、「心乱れて」は、実際に心乱れたけれど、しかし時間経つと失礼だからなのか、心乱れていて時間が経ってしまうと失礼だからなのか。諸注は、原文の読点の位置から、前者と考えるようだ。しかし、心乱れている間に時間は経ってしまっているだろう。「て」を逆接でとるのも、用法としてないではないが、自然ではない。「あやしきに」の「に」は、心乱れての原因でなく、逆接と取れば全体に自然に流れる。「に」は逆接の用法が主である。「さまざまあやし」を「心乱れ」の原因にするなら、「に」を介さずに、「さまざまあやしく心乱れ」とするのが自然である。

苔 05-077

苔の衣、すなわち、僧衣。「初草の若葉」という光の言葉を、同じく草に関する語である「苔」で返したのである。「初草」「若葉」が初々しさを表し、恋愛歌に使用される歌語であるのに対して、「苔」は隠棲や出家を象徴し、恋愛をこばむ。なかなかの返し業だ。

かうやうのついでなる御消息 05-078

今回一番の問題の個所。まず、テキストと解釈がふたつある。「ついでなる御消息」のテキストで、尼君の和歌に込められた、真面目に取り合わない返事の意味と、「つてなる御消息」のテキストで、人を間に介した恋のやりとりの意味とである。テキストとしては前者に無理がなく、意味としては後者に軍配があるというのがわたしの率直な意見。従って、後者のテキストにすべきであろうが、前者のテキストを「序でなる御消息」でなく、「継いでなる御消息」と考えれば、テキストはそのままで、後者の意味になるのではなかろうか。あとは、意味として、後者がよいことを立証できればよいだけである。次の注で詳述する。

聞こえさすべきこと 05-078

「させ」に注意。これまでの表現を整理すると、A光が僧都に「聞こえたまひてんや」、B僧都自身が「(かのおばに語らひはべりて)聞こえさせむ」、C光が取り次ぎの女房に「聞こえたまひてむや」とあった。使役の「させ」が入る場合と入らない場合の違いは何か、光が頼んだ人(僧侶と取次ぎの女房)が相手(私の説では紫、諸注は尼君)に直接話す場合は「させ」がつかず、僧侶がおば(=尼君)を通して告げる場合に「させ」が入るのである。ということは、光が話したい相手は、尼君でなく紫であることは明白だ。次に、ここで「させ」が使われている理由を考えると、光はこれまで紫と話したいと考えていたのに、間に尼君が出てきた。これは無視できないので、尼君を通して紫に伝えて欲しいとの意味で「させ」を入れたのだ。

いとむつかしき御けはひ 05-078

「いと恥づかしき御けはひ」とするテキストがあるが、採用しがたい。尼君が恥ずかしいのでは、のちに若い女房と代わるのが不自然になる。「むつかし」は、対応に困るような真剣な様子だということ。ごまかしが効かないのである。

はしたなうもこそ思せ 05-078

「もこそ」は自分でなく、人に対して~だといけないからの意味で使う。ここは光に対して。「はしたなし」と光が思う理由は、光は「聞こえさすべきこと」と言って、尼君に応対に出て来てもらい、そのうえで尼君から紫に伝えて欲しいと態度を変えてきたのである。それなのに、尼君が応対しないのでは、いたたまれない気持ちになろうと女房たちが案じるのである。返事をしなければではなく、尼君が返事をしなければの意味。

げに 05-079

なるほど自分が出て返事をしなければの意味。

若やかなる人こそうたてもあらめ 05-079

今若い女房が取り次いでいるので、それでは光は気を悪くするだろうとの意味。相手がまじめなのだから、こちらも自分が出て行って、まじめに対処しなければならないと決意する。

うちつけ 05-080

手紙など前もっての準備なくいきなり。

あさはか 05-080

軽はずみ。

仏はおのづから 05-080

仏はしぜんとおわかりになろうくらいの意味。

おとなおとなしう恥づかしげなる 05-080

光に相対する尼君の態度。「おとなおとなしう」は落ち着いて物怖じしない態度。

つつまれて 05-080

気が引けて、遠慮されて。

げに 05-081

光の言葉の中の「うちつけ(なる)ついでなれど」を受ける。

かくまで 05-081

こうまで熱心に。

聞こえさする 05-081

諸注は光に対して返事をすることとするが、現に尼君は光と対しているのだがら、「さす」という使役は入らない。なぜなら、使役は、相手との間に第三者を立てるときに使うものだから。従って、ここで「聞こえさする」相手は紫である。まだ幼い紫にそのような熱い気持ちを伝えるのはいかがなものかとの意味。尼君がだめだと判断するのではなく、光自身に考えさせる形で遠まわしに断っているのである。
ついでながら、ここのドラマの焦点は「ついで」という語。光と尼君が使っている言葉だが、意味が違うのだ。光はこの機会にの意味で使うが、尼君はあえて違う意味に置き換えているのが面白いところだ。尼君の意味は、まだ紫が幼いこの時に意味で使っている。この意味のギャップをつなぐのが「げに」の働きである。「げに」にはこのように無理にふたつをつなぐ時に使われることが多い。

あはれにうけたまはる御ありさまを 05-082

「を」は終助詞。後につなげようにも、続きが悪い。それは終助詞だからである。詠嘆の意味。

過ぎたまひ 05-082

亡くなる。

思しないてむや 05-082

亡き母の代わりに自分を思ってほしいとの意味だが、もちろんこれは、尼君へ伝えたい内容でなく、紫に直接言いたい内容である。これまでは、尼君にこうこうと紫に話してほしいという間接的な言い方をしてきたが、ここでは直接に紫へ語ることがらを尼君に聞かせているのである。言い方を替えれば、尼君の存在を忘れ、そこにいない紫に語りかけている、一種のモノローグ。光の切迫した思いが、じかに語られる。物語の手法として注意してよいところであろう。

言ふかひなき 05-082

言ってもはじまらないとの意味。ひろくいろいろな場面で使われるので、直接的にはどういう意味であるか、その都度考えねばならない。ここは一人では暮らしも立てられない未熟な時という意味を内包する。ここでの「言ふ」は自己紹介する意味。自己紹介にもならないほど幼いころの意味。「睦ましかるべき人」は産みの母である桐壺。

たぐひになさせたまへ 05-082

「せ」は尊敬であろう。このあたりから光は尼君を意識して話し出す。

聞こしめしひがめ 05-082

「聞きひがめ」の尊敬語。

あやしき身一つ 05-082

尼君自身をいう謙譲表現。

頼もし人にする人 05-082

「頼もし人」は尼君、「する人」は紫。

いとまだ言ふかひなき 05-082

ここでは恋愛の対象としてここに取り上げる価値のないほどの意味であろう。未熟なという意味が「言ふかひなし」にあるわけではなく、前後の文脈からどう言う価値がないのかを考えるのである。

許さるる方 05-082

歌や楽器や書など、女のたしなみとして男の目に耐えうるような長所。それがまだ紫にはない。

えなむうけたまはりとどめられざりける 05-082

これも諸注には問題がある。「え……ざる」で不可能をあらわす。従って「られ」は打ち消しと結びついて不可能を表すのではなく、尊敬語と取るのが自然である。つまり不可能は「られ」がなくとも「え……ざる」で成立しているのだから、その意味の「られ」は余分となる。よって、「られ」は尊敬である。そうなると「うけたまはる」の主体を諸注は尼君とするが、自分に尊敬語をつけるのはおかしいので、尼君は主体ではなくなる。尊敬語のつくのは、紫か光である。問題はもうひとつ。末尾の「ける」である。「ける」には過去と詠嘆がある。紫にはまだ話が通っていないのだから、過去の「ける」は合わない。では、詠嘆であろうか。詠嘆の「けり」は自分の場合は詠嘆に、人の場合は発見となるが、紫が受け取らないことは分かり切っているのだから、発見の「けり」は変だ。従って、「うけたまはる」の主体は光で「けり」は伝聞過去である。事実をちゃんとお聞きになったのではないと光に言っているのである。それを受けて「みなおぼつかなからずうけたまはるものを」と光は返すのだ。「うけたまはり」が繰り返されていることがヒントであったのだ。

所狭う 05-083

儀式ばる、窮屈にとらえるなどの意味。もっとざっくばらんに考えてほしいのだ。あとで出る「心とけたる」が反意語になる。

ことなる 05-083

人と違う、特別な。

似げなきこと 05-083

恋愛対象として年齢が低すぎ釣り合わないの意味。

さも 05-083

そうとも、不釣合いとも。

おし立て 05-084

この場面の最初に「屏風の中をすこしひき開けて」とあった。それを逆に押して、屏風をちゃんと立て切ったのである。

法華三昧 05-085

懺悔滅罪を目的に法華経を一心に読誦する行。

懺法 05-085

罪を懺悔する法。

つきて 05-085

くっついて。

吹きまよふ 05-085

深山おろしに直接かかるが、「迷ふ」は「夢=煩悩」の縁語であり、これにも響き合う気がする。

深山 05-085

尼君の歌の「深山の苔」を意識する。

夢 05-085

光の前言である「尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな」とその折りの僧都の返答「うちつけなる御夢物語」を受ける。光の歌は懺悔になっている点に注意したい。

さしぐみに 05-086

急にの意味と、「さしくみ」の涙がわくの意味をかける。

すめる 05-086

住めると澄めるをかける。「うちつけなる御夢物語」と「さしぐみに袖ぬらしける」がパラレルであり、光の色気に対しても懺悔に対してもともに、唐突で根のないものだとしている点に注意したい。

「空」と「山」 05-087

「山の」は「鳥」にかけるのが普通だが、それでは「敷けると見ゆるに」の「見ゆる」に対応する語がなくなる。それに「花どもも」の「も」との対応は鳥と花の対比であり、それは山についての鳥と花と見る方がバランスがよい。もっとも「花ども」と「も」のないテキストもある。「そこはかとなく」は、本来、そこ(其処)がそう(彼)かどうかわからないという場所が特定できないことを意味するが、転じてよくわかない場合に使用される。ここでも「名も知らぬ」と対比して考えるのが自然に思うから、どこで鳴いているのかわからないという場所ではなく、聞いてもよくわからない、聞きなれない、聞いたことがない、聞いても何の鳥だかわからないの意味だろうと推測する。「たり」は、「山の」の続き具合から終止形でなく、連用形と考える。「名も知らぬ」は、見も知らぬ、形も知らぬ、色も知らぬなどを秘めている。結局、山は、花々が入り混じり、錦を敷いた感じに見えるということ。花々が入り混じる様子は、錦を敷いてあるように見える原因。この解釈は、「錦を敷けると見ゆる」の対象を明らかにするが、難は鳥と錦との関係が不明であること。どちらの解釈が無理が少ないかは、読者の判断である。(半ば冗談まじりに錦と鳥を読みこんだ歌をあげておく。これは後代の歌だが、「たつた山もみちの錦をりはへてなくといふ鳥の霜のゆふして」(新勅撰和歌集/行念法師)。「をり」は錦を織ると、鳥がそこに居ることで錦が映えるの二重の意味をかけると読んでいいだろう)。「見ゆるに」の「に」は場所を示す。見える場所に。「なやましさ」は、病気から来るのではなく、紫恋しさの気が晴れたのだと思う。病気がすっかり治ったなら、次の聖の護身法はむだである。

動きもえせねど 05-089

「老いかがまりて室の外にもまかでず」と照応する。

とかうして 05-089

それでも無理して光のいる坊まで参じたとの解釈があるが、それは推測である。身動きもできないほど年をとりながら、それでも無理しての意味以上に限定することはできない。さらに言えば、僧都のいる坊から聖のもとにゆく途中の光景が、「明けゆく空は……なやましさも紛れ果てぬ」という叙述であろう。

護身 05-089

護身法で、印を結び陀羅尼を唱えて病魔から身を守る法のこと。

かれたる声のいといたうすきひがめるもあはれに功づきて陀羅尼誦みたり 05-090

「声の」は「ひがめる」にかかり、「声の……ひがめるも」全体が「あはれに功づき」にかかり、「あはれ」と「功づき」は並列で、「声の……あはれに功づきて」全体が「陀羅尼読みたり」にかかる。「すきひがめる」は、歯が抜けその隙間から聞き取れにくい声で聞こえるとの注があるが不明である。聖のいる場所が隙間が多くて声がいびつに聞こえるのかも知れない。陀羅尼の発声法とかかわるのかも知れないが根拠はない。「あはれ」は仏道修行からくるありがたさの意味。『注釈』の慈悲深くの意味であろう。「功づき」は修行を積んだ感じが声にもそなわり。陀羅尼は、梵語の呪文で、音を原語のまま発するもの。普通の経典は、意味により漢語に翻訳されたものを音読する。

御迎への人びと参りて 05-091

先に「人々は帰したまひて」とあった。

おこたり 05-091

病気が発症しなくなること。

御くだもの 05-092

木の実やくだもの。

いとなみ 05-092

いろいろと努力して用意する。

今年ばかりの誓ひ 05-093

「なにがし僧都の二年籠りはべる方」とあったように、千日間の山籠りをしている最中。

なかなかにも思ひたまへらるべき 05-093

光と会ったことでかえってつらい別れとなったのではなく、千日間行じるという立派な行いがかえって見送りできない仇となって、別れがいっそうつらいことを言う。

2020-05-24

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