05若紫05

2020-05-24

若紫 原文 05-062/05-076

062かの大納言の御女 ものしたまふと聞きたまへしは 好き好きしき方にはあらで まめやかに聞こゆるなり と 推し当てにのたまへば 女ただ一人はべりし 亡せて この十余年にやなりはべりぬらむ 故大納言 内裏にたてまつらむなど かしこういつきはべりしを その本意のごとくもものしはべらで 過ぎはべりにしかば ただこの尼君一人もてあつかひはべりしほどに いかなる人のしわざにか 兵部卿宮なむ 忍びて語らひつきたまへりけるを 本の北の方 やむごとなくなどして 安からぬこと多くて 明け暮れ物を思ひてなむ 亡くなりはべりにし 物思ひに病づくものと 目に近く見たまへしなど申したまふ 063さらば その子なりけりと思しあはせつ 064親王の御筋にて かの人にもかよひきこえたるにやと いとどあはれに見まほし 065人のほどもあてにをかしう なかなかのさかしら心なく うち語らひて 心のままに教へ生ほし立てて見ばやと思す いとあはれにものしたまふことかな それは とどめたまふ形見もなきかと 幼かりつる行方の なほ確かに知らまほしくて 問ひたまへば 亡くなりはべりしほどにこそ はべりしか それも 女にてぞ それにつけて物思ひのもよほしになむ 齢の末に思ひたまへ嘆きはべるめると聞こえたまふ 066さればよと思さる 067あやしきことなれど 幼き御後見に思すべく 聞こえたまひてむや 思ふ心ありて 行きかかづらふ方もはべりながら 世に心の染まぬにやあらむ 独り住みにてのみなむ まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへて はしたなくや などのたまへば いとうれしかるべき仰せ言なるを まだむげにいはきなきほどにはべるめれば たはぶれにても 御覧じがたくや そもそも 女人は 人にもてなされて大人にもなりたまふものなれば 詳しくはえとり申さず かの祖母に語らひはべりて聞こえさせむと すくよかに言ひて ものごはきさましたまへれば 若き御心に恥づかしくて えよくも聞こえたまはず 068阿弥陀仏ものしたまふ堂に することはべるころになむ 初夜 いまだ勤めはべらず 過ぐしてさぶらはむ とて 上りたまひぬ 069君は 心地もいと悩ましきに 雨すこしうちそそき 山風ひややかに吹きたるに 滝のよどみもまさりて 音高う聞こゆ 070すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど すずろなる人も 所からものあはれなり 071まして 思しめぐらすこと多くて まどろませたまはず 初夜と言ひしかども 夜もいたう更けにけり 072内にも 人の寝ぬけはひしるくて いと忍びたれど 数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ なつかしううちそよめく音なひ あてはかなりと聞きたまひて ほどもなく近ければ 外に立てわたしたる屏風の中を すこし引き開けて 扇を鳴らしたまへば おぼえなき心地すべかめれど 聞き知らぬやうにやとて ゐざり出づる人あなり 073すこし退きて あやし ひが耳にやとたどるを 聞きたまひて 仏の御しるべは 暗きに入りても さらに違ふまじかなるものをとのたまふ御声の いと若うあてなるに うち出でむ声づかひも 恥づかしけれど いかなる方の 御しるべにか おぼつかなくと聞こゆ 074げに うちつけなりとおぼめきたまはむも 道理なれど
  初草の若葉の上を見つるより旅寝の袖も露ぞ乾かぬ
と聞こえたまひてむやとのたまふ 075さらに かやうの御消息 うけたまはりわくべき人もものしたまはぬさまは しろしめしたりげなるを 誰れにかはと聞こゆ 076おのづからさるやうありて聞こゆるならむと思ひなしたまへかし とのたまへば 入りて聞こゆ

若紫 原文かな 05-062/05-076

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

かのだいなごんのみ-むすめ ものしたまふとききたまへしは すきずきしきかたにはあらで まめやかにきこゆるなりと おしあてにのたまへば むすめただひとりはべりし うせて このじふよねんにやなりはべりぬらむ こ-だいなごん うちにたてまつらむなど かしこういつきはべりしを そのほいのごとくもものしはべらで すぎはべりにしかば ただこのあまぎみひとりもて-あつかひはべりしほどに いかなるひとのしわざにか ひやうぶきやうのみやなむ しのびてかたらひつきたまへりけるを もとのきたのかた やむごとなくなどして やすからぬことおほくて あけくれものをおもひてなむ なくなりはべりにし ものおもひにやまひづくものと めにちかくみたまへし などまうしたまふ さらば そのこなりけりとおぼしあはせつ みこのおほむ-すぢにて かのひとにもかよひきこエたるにやと いとどあはれにみまほし ひとのほどもあてにをかしう なかなかのさかしらごころなく うち-かたらひて こころのままにをしへおほしたててみばや とおぼす いとあはれにものしたまふことかな それは とどめたまふかたみもなきか と をさなかりつるゆくへの なほたしかにしらまほしくて とひたまへば なくなりはべりしほどにこそ はべりしか それも をむなにてぞ それにつけてものおもひのもよほしになむ よはひのすゑにおもひたまへなげきはべるめる ときこエたまふ さればよ とおぼさる あやしきことなれど をさなきおほむ-うしろみにおぼすべく きこエたまひてむや おもふこころありて ゆきかかづらふかたもはべりながら よにこころのしまぬにやあらむ ひとりずみにてのみなむ まだにげなきほどとつねのひとにおぼしなづらへて はしたなくや などのたまへば いとうれしかるべきおほせごとなるを まだむげにいはきなきほどにはべるめれば たはぶれにても ごらんじがたくや そもそも によにんは ひとにもてなされておとなにもなりたまふものなれば くはしくはえとりまうさず かのおばにかたらひはべりてきこエさせむ と すこやかにいひて もの-ごはきさましたまへれば わかきみこころにはづかしくて えよくもきこエたまはず あみだぶつものしたまふだうに することはべるころになむ そや いまだつとめはべらず すぐしてさぶらはむ とて のぼりたまひぬ きみは ここちもいとなやましきに あめすこしうち-そそき やまかぜひややかにふきたるに たきのよどみもまさりて おとたかうきこゆ すこしねぶたげなるどきやうのたエだエすごくきこゆるなど すずろなるひとも ところからもの-あはれなり まして おぼしめぐらすことおほくて まどろませたまはず そやといひしかども よるもいたうふけにけり うちにも ひとのねぬけはひしるくて いとしのびたれど ずずのけふそくにひきならさるるおとほの-きこエ なつかしううち-そよめくおとなひ あてはかなりとききたまひて ほどもなくちかければ とにたてわたしたるびやうぶのなかを すこしひきあけて あふぎをならしたまへば おぼエなきここちすべかめれど ききしらぬやうにやとて ゐざりいづるひとあなり すこししぞきて あやし ひがみみにや とたどるを ききたまひて ほとけのおほむ-しるべは くらきにいりても さらにたがふまじかなるものを とのたまふおほむ-こゑの いとわかうあてなるに うち-いでむこわづかひも はづかしけれど いかなるかたの おほむ-しるべにか おぼつかなく ときこゆ げに うちつけなりとおぼめきたまはむも ことわりなれど
はつくさのわかばのうへをみつるよりたびねのそでもつゆぞかはかぬ
ときこエたまひてむや とのたまふ さらに かやうのおほむ-せうそこ うけたまはりわくべきひともものしたまはぬさまは しろしめし-たりげなるを たれにかは ときこゆ おのづからさるやうありてきこゆるならむとおもひなしたまへかし とのたまへば いりてきこゆ

若紫 現代語訳 05-062/05-076

「あの大納言には娘さんがいらっしゃるとお聞きしましたが。浮ついた気持ちからではなくて、まじめな気持ちで申し上げているのです」と、当て推量でおっしゃると、
「娘がただ一人おりました。亡くなってからもう十何年になりましょうか。故大納言は、宮中にでも差し上げようと、畏れかしこむように大切に育てましたが、その念願どおりにもようしませんでこの世を去ってしまいましたので、ただこの尼君ひとてで世話をしておりますうちに、どういう者の仲立ちでか、兵部卿の宮がこっそりと言い寄り通じてしまわれたところ、もともとの正妻がこの上ない高貴なご身分であったりして、心安からぬ問題が多くあり、明け暮れひどく悩んだ果てに亡くなってしまいました。気苦労からでも病気になるものだと目の当たりにいたしました」などと申される。
ならば、その人の子供だったのだなと、思いあたられた。親王の血筋だから、あのお方(藤壺)にも似通い申されているのだろうかと、ますます恋しくて世話をしたくなられる。人柄も高貴で魅力を引くし、かえって女には不要である、分別くささがなく、むつみあい、思い通りに教え育て上げて妻にしたいとお思いになる。
「なんともおいたわしいことでいらっしゃる。その方はこの世にお遺しの忘れ形見もないのですか」と、幼かった子のその後のいきさつが、いっそう確かに知りたく思われてお問いになると、
「亡くなりましたちょうどその頃、形見を遺したのです。それも女の子でして。それにつけてもの思いの種が生じ、おかげで齢の尽きる今になって、尼君は思い嘆いておるような次第出でございます」とお答え申し上げる。どおりでと、君は合点される。
「自分でも不思議な気持ちだけれど、幼いお方の後見にお考えいただけるよう、どうかその方に申し入れて下さらぬか。思うところがあって、通い行き関わりあいを持っている方もありながら、心からの愛情が湧かないためであろうか、独り暮らしばかりしている次第で。まだふさわしからぬ年齢であると、世の女一般に比してお考えになっては、きまりの悪いことでしょう」などとおっしゃると、
「とても喜ぶべき仰せごとではありますが、まだどうにも幼い具合でしかありませんでしょうから、ご冗談にもお相手しがたいでしょう。そもそも女というものは、人の世話を受けて一人前にもなられるものだから、拙僧では詳しくははかりかねます、例の叔母に話を入れて、申し上げさせましょう」と、そっけなく言って厳めしい表情をされるので、若いお身の上では気が引けて、うまく気持ちをお伝えになれない。
「阿弥陀さまをおまつりする堂で、勤めをする時刻に早くも、初夜(そや)をまだ勤め上げておりません。すませてから参りましょう」といって、堂へのぼって行った。
君は気力までもとても衰弱しているのに、雨がすこし降り、山風がつめたく吹きつけているため、滝の水嵩が増え、その音が高く聞こえる。すこし眠たそうな読経が、途絶えがちに身にしみて聞こえてくるなど、供周りようの縁無き者たちも、場所柄、人の世のあはれを感じる。まして君は、この世のあわれのみならず、思い巡らしになる悩みが多くて、お休みになられない。初夜と言っていたが、夜もたいそうふけていた。奥でも、人が寝ないでいる様子がはっきりとわかり、音を立てないようとても気を使っているが、数珠が脇息に触れて立てる音がかすかだが耳につき、心慕われるさらさら鳴る衣擦れの音が品がいいものだとお聞きになられて、いくらも距離のない近さなので、部屋の外に立てわたしてある屏風の中ほどを、すこしひき開けて、扇をお鳴らしになったところ、思いも寄らない心地がしたに違いなかろうが、聞こえないふりもどうかと、にじり出て来る人もあるようだ。
すこし戻りかけて、「変ね、聞き違いかしら」と考えているのをお聞きになって、
「仏のお導きは、暗いところに入っても、すこしも間違うはずがないものなのに」とおっしゃるお声のとても若くて上品であるため、何か口にしようにもどんな口ぶりも相手の立派さにあわないと気後れしながらも、
「いかなるところへのお導きでしょうか。見当がつかない」と申し上げる。
「なるほど、唐突すぎて、おとぼけになるのも、むべなりと思うが、
初草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわかぬ
=初草の
若葉のような初々しいお方を
見た後は、
旅寝しているこの袖も
恋しい涙で乾くひまがない
と、どうぞ申し上げてくださいな」とおっしゃる。
「いっこうに、このようなお言づけをお受けして理解のできる人もここにはいらっしゃらない様子は、ご存知であられるようなのに、どなたに対してでしょうか」と申し上げる。
「多くを言わずともしぜん、しかるべき事情があって言っているのだろうと、お思いになってくださいな」とおっしゃると、女房は奥へ入ってそのことを尼君に申し上げる。

若紫 注釈 05-062/05-076

好き好きしき方 05-062

スケベ心で。性欲から意味。

内裏にたてまつらむなど 05-062

帝ないしそれに準じるお方にさしあげようとの意味。

かしこう 05-062

神などに対して畏れかしこむ気持ち。相手がわが子であっても、帝へ差し上げる人として敬い畏れながら「過ぎ」は亡くなる。

いつき 05-062

神などに仕える。

いかなる人 05-062

おとこを手引きするのはふつう女房たち。

語らひつき 05-062

身分の劣るものをうまくだましてものにすること。すけこますといったイメージ。

本の北の方 05-062

兵部卿の正妻。

安からぬこと 05-062

いじめや脅迫。

源氏物語は登場人物それどれに個性があるところに特徴があるが、あるパターンをふむこともある。列記すると、
一、父親が按察の大納言であること。
二、宮仕えに上げるつもりで、娘を大切に育てていること。
三、父親はすでに亡くなっていること。
四、正妻がひどく嫉妬が激しいこと。
などである。

さらば 05-063

亡くなったというのだから。

その子なりけり 05-063

「その」が亡くなった人の、「子なりり」は、子供であったのだなという発見。光は尼君の娘と当て推量していたが、孫であったと知ったのである。

かの人 05-064

藤壺。兵部卿の宮は、藤壺の兄。したがって、藤壺には姪にあたる。

いとどあはれに 05-064

ますます恋しく。

見まほし 05-064

「見る」は、直接的には床入り、長期的には妻として面倒をみる、妻にする、こと。

人のほども 05-065

「人のほど」は身分の意味にもなるが、すでに身分については親王の娘ということで述べられているので、ここはそれとは違って、人のほどもとあるので、人格の問題である。

なかなかのさかしら心なく 05-065

「なかなかの」はかえってない方がよいと思われること。「さかしら心」は、賢明ぶる気持ち。この語は、源氏物語に他に一例あり、「さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地もすこし違ふふしも出で来やと心おかれ、人も恨みがちに……(さかしら心があり、何かかにかややこしい関係になると、こちらにしても、相手が前と違うんじゃないかという気持ちが生じ距離がおかれるし、相手もこちらを恨みがちになり……)」とある。素直に相手のことが受け入れられなくなる、分別知とでもいうもの。

うち語らひ 05-065

しんみりした関係になること。男女間では、妻になるまでは、手紙をやり取りだけで、直接話をするということはない。語り合うとは、男女が一対一で会う関係、すなわち、ねんごろになる意味をふくむ。「見ばや」は、妻にしたい。

いとあはれにものしたまふことかな 05-065

過去の表現が使われていないことに注意したい。単に現在表現で過去を表現しているのか(そうかも知れないが、違うかも知れない)。早死にしたという過去でなく、早死にし輪廻して生まれかわっている紫の母の宿業を言うのか(ちょっと考えすぎだな)。この表現は亡くなって母にではなく、母を亡くした紫に対しての愛惜の念ではないかと、強引かもしれないが、わたしはそう捉えている。母が亡くなったという僧都の話に対して直接的には、「さらばその子なりけり」という判断を下したのであって、その時点で光は亡くなった人に同情せず、紫を妻にすることしか考えていないこと。光の発言にしても「幼かりつる行く方」が気になっているのである。これが紫に対してであると思う主な理由であるが、ほかにも、そう読む方が劇的に面白いからでもある。光と僧都が別々の思いから会話を進めているので、光はなかなか思うような答えが引き出せないおかしみが、ここの部分のドラマの核心。最後まで食い違うままで終わると私は見るのである。

幼かりつる行方 05-065

「つる」と完了表現が使われていることに注意。さきほど透き見した折りの幼かった子供という意味ではない、母が死んだ当時幼かったの意味である。今も幼いために、時間的混乱があってはならない。「行方」は、その過去から見た未来である。現在からの未来ではない。亡くなった母への同情でなく、当時の紫がその後どうなったのか気がかりなのである。

亡くなりはべりしほどにこそはべりしか 05-065

「……こそ形見のはべりしか」で、亡くなった直前に形見が生まれたの意味。

それにつけて 05-065

当時の結婚形態は女のもとに男が通う形であり、資金的には、かなりの程度女親が婿の面倒をみることになるが、その両親がいないのである。

嘆きはべるめる 05-065

「める」は推量、見ていてそう思われるの意味だから、自分のことでなく、嘆くのは尼君。

さればよ 05-066

「だからああなのか」の意味。単にそうだったのかではない。できごとが先行し、その後で、その説明を聞いた時に、だから~だったのかと、できごとを反芻する表現である。したがって、この表現が出たときには、だからどうなのかを考える必要がある。僧都の話から自然に考えうる帰結は、だから、あんなに尼君は孫娘を心配していたのかとでもなろう。透き見をした時、たしかに尼君は孫娘の幼さを心配して嘆いていた。しかし、この当たり前の解釈では劇として面白くない。この解釈の主体は尼君だが、繰り返してきたとおり、光の頭にあるのは紫のことである。だから、帰結も紫を主体にして考える方がいいだろうと思う。情報としては僧都から得たことは、尼君が心配している以外には、亡くなる直前に紫は生まれたのだということ。光は母が亡くなった時、幼い紫はどうなったのか心配でした質問である。それに対して、死の直前に生まれたということは、母の死を、死別の悲しみを知らずにすんだのだ、と光の心配はとりあえず解決したのである。自分が気になるこの情報を手に入れ、だからああなのかと判断したと考える方が自然なわけ。繰り返すが、僧都は尼君のことが語りたいが、光は紫のことが知りたいというちぐはぐさが、このドラマの核であり、それに基づいて読むとこう読むのがよいだろうということ。さて、実は、ここからが問題で、「だからああなのか」の「ああ」はなんなのか。ここがこのドラマをしめくくる部分であるから、この会話内でストレスのおかれた部分を先ず探すと、「なかなかのさかしら心なく」が浮かび上がるかと思う。母の死を知らないですくすく育ったので、小賢しい分別がつかなかったのかの意味。しかし、しめくくるには重みがすくない。重みが少ない理由はここで初めて出てきた判断であって、紫を見かけてからここまでのドラマ全体をしめくくれないからである。では、それをしめくくる言葉、見方を変えれば、繰り返されてきた言葉はなにか、答えは一つしかない。「あはれ(愛しい、恋しいの意味)」である。透き見が終わった時の光の感慨は「あはれなる人を見つるかな」であった。では、母の死を知らないことと、「あはれ」とどう結びつくのか。それは、光にとって桐壺の死を知らないという体験が、人生の核になっているからである。母を知らないゆえに、母と似ているらしい藤壺を慕うのである。母の死を知らないという共通体験が、紫へに対する不自然なまでの愛しさの説明になると光は考えたのではないか、と一応結論付けておく。(好きになるのに理由はないのだから、理由と好きだという間には、もともと食い違いがあるので、この結論だけを取り出しても何だかあやしいなと感じるとは思う。でも、恋愛とはそんなもの。好きになったあとで、だからあの人が好きなんだと、理由にもならない理由を探したくなるものなのである)
以上、かなり無理なある読みであろうと自分でも思うので、この読みに賛成できない方は、この部分をカットして読んでいただきたく今一度まとめておく。
一、「いとあはれにものしたまふことかな」は紫に対する気持ち。
二、「さればよ」は、わたし同様母を知らないから、こんなにも愛しく思われるのだ。
この部分で、もうひとつだけ言っておくと、光は二度、こんな現世を忘れる山住みをしたいと願ったが、この山住みも現世の苦しみがあることを僧都が語っている。光はそれに対して受けとめず聞き流しているところがまたドラマになっている。ドラマには、登場人物がぶつかりあうものもあれば、すれ違うことでアイロニーをうむものもあるのだ。この段は、それがことのほかうまく仕組まれていると思うのだが、やや近代的に読みすぎたかも知れない。

あやしきこと 05-067

僧都が不審がることへの先回りした弁明ともとれる(訳は「妙なことを言うようですが」)が、後見なりたいという自分の感情に対して「あやしことこ」と言っているとも取れる。訳文は後者として取った。

思すべく聞こえ 05-067

「思す」の主体について諸注は判然としないが、「聞こえ」の主体は尼君と考える。しかし、どちらも紫を主体とすべきである。これは文法の問題ではなく、結婚の話を紫にするのか、親代わりの尼君にするのかという問題である。当時の結婚形態としては、先に親に話を持ち掛けるというのが自然ではあるが、この部分の会話の焦点が、尼君に向っているのか、紫であるのかを熟考すべきである。先ず、光は「後見」という表現を用いているが、これは妻にする、すなわち、セックスの対象を意味する。だからこそ、僧都は「ご覧じがたくや」と、妻にしがたいだろうと答えているのである。尼君がどういうかという問題ではない。これが決め手であるが、もっとわかりやすいところがあるので、そちらで説明すると、「思すべく聞こえたまひてんや」と光依頼したのに対して、「くはしくはとり申さず、かの叔母(=尼君)に語らひはべりて聞こえさせむ」と僧都は答えている。光が尼君に話をしてほしいと言っているなら、「かの叔母」とはならない。「叔母」でいいわけだ。「かの」とつけたのは、今の話題に叔母は関係ないからこそ、遠い場所のものをひっぱってくる働きをもつ「かの」を心理的に入れたくなったのである。ついでながら、「聞こえさせむ」は、光に返事をするとの意味で解釈されてきたが、それも間違いである。(尼君と相談して)紫に結婚話を伝えましょうの意味である。光が「(紫に)聞こえ」てほしいと申し入れたのを受け、「(紫に)聞こえさせむ」と僧都は答えたのである。

世に 05-067

打ち消しの語と呼応して、まったく(ない)の意味でも用いるが、男女の気持ちとしての意味でもあり、二重性を帯びた言葉。濃度としては後者の方が多い気がする。実字としての「世」があって、虚字の「よ~打消し」が裏で働くのである。

まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへてはしたなくや 05-067

諸注は、光が自分に対して言っている表現ととるが、間違いである。話の焦点が「紫」であることを見落としてはならない、これが一番大切だが、上の解釈は文法的に間違っているので、それも記しておく。形容詞の連用形につく「や」は、疑問・推量であり、「あらむ」などの省略である。上の解釈は「や」を詠嘆ととっているが、詠嘆の「や」は形容詞につく場合は「終止形」につながる。「はしたなしや」であれば、光が自分をはしたないと感じていることになる。しかし、「はしたなくや」とあれば、はしたない気持ちを抱くであろうの意味である。その主体は、話の焦点である「紫」にほかならない。まだ結婚する年齢にはなっていないと、ほかの少女と比較しては、いたたまれない気持ちになるだろうとの意味である。

いはきなきほどにはべるめれば 05-067

年齢について言うのではない。年齢が理由で幼いというのであれば、「めれ」は不要。見た感じがまだ幼い。もっとつっこんで言うと、「ご覧じがたく」にかかることを考えれば、セックスに耐えない、すなわち肉体的にまだ未発達にみえるとの意味である。一言にしてこれを言えば、初潮を迎えていないので、男を迎えられないということ。「ほど」ではなく「ほと」ではないかとさえ思える。冗談はさておき、「がたくや」の「や」も連用形につくので「あらむ」の省略。難しいだろうの意味。「そもそも女人は」で女性一般論を説きはじめるが、「大人にもなりたまふ」と敬語があることから、具体的に光との関係の中で述べていることが知られる。

とり申さず 05-067

「とり」は、受け取るの「取る」、取り計らうの「取る」である。

すくよかに 05-067

事務的に感情なく。特に「くはしくはえとり申さず」のあたりに冷たさを感じる。

ものごはきさま 05-067

僧侶としての顔。仏頂面。

初夜 05-068

朝三回、夜三回、計一日を六回、読経するが、夜の最初の読経が初夜。だいたい夜の八時前後とのこと。

心地も 05-069

「も」は肉体のみならず。

悩ましきに 05-069

「に」は、順接とも逆接ともとれるが、病弱であることと、普段より滝の音が大きいことは逆接関係と見た方がよいだろう。とはいえ、本当は、心身ともに疲れている時こそ、精神は休まらず、外からの刺激を敏感に受けるものである。そういう繊細な感覚をも配慮するところがにくらしい。衰弱、研ぎ澄まされた神経、滝の音、読経の声、もののあわれ、奥の気配、かすかだが耳につく数珠の音、このように自然の音からはじめて、気になってならない紫の方へ意識を徐々に向けてゆくところが、この段の読みどころ。気になっているなら、最初から奥の音のことが書かれてもよさそうであるが、光は衰弱のため意識が混沌としているのだろう。「思しめぐらすこと多く」は、藤壺と紫を中心としたものであることは確かだが、葵のこと、病気のことなど焦点なく次々と頭をめぐっていったのだと思う。そうした意識がぼんやりする中で、滝の音が聞こえてくる、そこに意識をしだすことで、次第に焦点が奥へと向ってゆくのである。現代作家にはここを味わう力があるだろうか。

雨すこしうちそそき山風ひややかに吹きたるに滝のよどみもまさりて音高う聞こゆ 05-069

風雨で水嵩が増し、滝の音が高く聞こえるという因果関係。

読経 05-070

僧都の初夜の読経。

すごく 05-070

身にしみる。荘厳なイメージ。

すずろなる人 05-070

無関係な人の意味だが、「も」を介して「所がら」と対立するところから、この場所に関係ない人のこと、すなわち、仏道に縁のない人である。そんな人でも場所柄、仏道の心がわかるという流れ。具体的には、供周りの人たち。

ものあはれ 05-070

「もの」は運命。人の世がはかないことから来る思いである。「まして」は、供周りの人にもまして光は、仏道に縁のある人であり、もののあはれを強く感じるはずだが、という省略がある。「まして」を「まどろまれたまはず」につなげたのでは、まえの一文「すずろなる人も所がらものあはれなり」が意味をなさなくなる。

内にも 05-072

ここでは紫を中心にした女たち。先に「内の人々も心づかひすべかめり」の「内」は女たちの意味ではなく、寺男などであろうと述べた。諸注は、この「内」も先の「内の人々も」同じく女たちとするが、それは間違いである。この後を読めばわかるが、女たちは、隣から声をかけてきた男を光とは気づかない。ところが、「内の人々も心づかひすべかめり」の「内」を女たちと取るなら、女たちは光だと思って心遣いすべきであろうとなり、矛盾が生じてしまう。同じ単語でも、意味が違うと考えねばならないだろう。「しるくて」ははっきりしていること。

忍びたれど 05-072

まわりに気づかれないよう努めている様子。

ほの聞こえ 05-072

かすかだが、もっと聞きたいと意識がそちらに向うこと。

なつかしう 05-072

心がむかう、好きになること。

あてはか 05-072

上品な感じ。

屏風の中 05-072

よくわからない。一曲屏風の端の方でなく、中ほどをひっぱることで、屏風が折りたたまれ、端に隙間ができたのか。二曲屏風が並列においてあったため、そのつなぎ目である中央をひっぱって開けたのか。おそらく後者だと思うが判然としない。

扇を鳴らし 05-072

注意を引くときによく行われる仕種。

聞き知らぬやうにや 05-072

「聞き知らぬやうにすべきや」の略であろう。聞こえないふりをしてよいであろうか、いやよくはないという反語。

たどる 05-073

どうしたことかと原因をさぐること。

仏の御しるべ 05-073

場所柄、女房を仏になぞらえた。

のたまふ御声のいと若うあてなるにうち出でむ声づかひも恥づかしけれど 05-073

女房は、相手が光と知って気後れしているのではなく、誰かはわからないが、その声の上品さに気後れして、どんな話し方をしても相手の身分にあわないと物怖じしているのである。

げにうちつけなりとおぼめきたまはむも道理なれど 05-074

光としては、紫以外に相手のいようがないと思いこんでるのに、どちらへお連れしたらいいかわからないと言われ、自分を通さないのは、突然すぎるからだなと納得する場面。まじめにこの発言をしているのか、すこし冗談気味に言っているのかは判断しがたい。まじめに言っているとしたら、光は状況把握ができないほど、紫に熱を上げていることになる。その光とわけのわからない女房との間のギャップに、ドラマが生まれ、光はある種の滑稽を身にまとう。読みとしてはこの方が面白いと思うのだが、従来の超人的な光源氏観はすこし褪せる。「おぼめき」が、そらとぼける。知っていながらごまかそうとする。

初草の若葉 05-074

光るが透き見をしていたおりに、女房と大人が交換した歌に出てきた言葉。

聞こえたまひてむや 05-074

尼君でなく、あくまで紫。取次ぎの対象は尼君でも、恋の対象は紫であるから、この歌を贈りたい、聞かせたいのは紫にである。もっと言えば、できれば尼君に知らせず、ことをすませたいと思っているであろう。紫は光個人にとって大切な女性となるが、社会的位置付けとしては、あくまで正式な妻としては扱われないし、扱う意識も光には芽生えないのである。

しろしめしたりげ 05-075

「しろしめす」の意味はご存知である。「げ」(=らしい)とあるので、僧都の話によって、およそ実情がわかるのだろうとの推測であるという注があるが、でたらめだ。僧都から光が自分たちのことを聞いているなんて、女房が想像する根拠などない。これは、光の歌に「初草」「若葉」と出たため、あの時のやりとりが透き見されていたのだと女房は理解したのである。だが、そうだとすると、初草や若葉になぞらえられる紫はあまりに幼すぎて恋の相手などにならないのは、ご存知なはずであろうのに、相手は誰なのだろうと、女房は途惑うのである。

おのづから 05-076

理由を言わなくても自然にということ、「思ひなしたまへ」にかかる。

さるやう 05-076

「さあるやう」の略で、しかるべき、しっかりした、ちゃんとした。

聞こゆるならむ 05-076

「聞こゆ」は謙譲語。光が自分の動作に対して言っている。

入りて聞こゆ 05-076

女房は誰にむかって歌を取り次いでいいのかわからないため、尼君に事情を話したのである。

2020-05-24

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