05若紫04

2020-05-24

若紫 原文 05-047/05-061

047あはれなる人を見つるかな かかれば この好き者どもは かかる歩きをのみして よくさるまじき人をも見つくるなりけり たまさかに立ち出づるだに かく思ひのほかなることを見るよと をかしう思す 048さても いとうつくしかりつる児かな 何人ならむ かの人の御代はりに 明け暮れの慰めにも見ばや と思ふ心 深うつきぬ 049うち臥したまへるに 僧都の御弟子 惟光を呼び出でさす 050ほどなき所なれば 君もやがて聞きたまふ 051過りおはしましけるよし ただ今なむ 人申すに おどろきながら さぶらべきを なにがしこの寺に籠もりはべりとは しろしめしながら 忍びさせたまへるを 憂はしく思ひたまへてなむ 草の御むしろも この坊にこそ設けはべるべけれ いと本意なきことと申したまへり 052いぬる十余日のほどより 瘧病にわづらひはべるを 度重なりて堪へがたくはべれば 人の教へのまま にはかに尋ね入りはべりつれど かやうなる人の験あらはさぬ時 はしたなかるべきも ただなるよりは いとほしう思ひたまへつつみてなむ いたう忍びはべりつる 今 そなたにもとのたまへり 053すなはち 僧都参りたまへり 054法師なれど いと心恥づかしく人柄もやむごとなく 世に思はれたまへる人なれば 軽々しき御ありさまを はしたなう思す 055かく籠もれるほどの御物語など聞こえたまひて 同じ柴の庵なれど すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ と せちに聞こえたまへば かの まだ見ぬ人びとにことことしう言ひ聞かせつるを つつましう思せど あはれなりつるありさまもいぶかしくて おはしぬ 056げに いと心ことによしありて 同じ木草をも植ゑなしたまへり 057月もなきころなれば 遣水に篝火ともし 灯籠なども参りたり 058南面いと清げにしつらひたまへり 059そらだきもの いと心にくく薫り出で 名香の香など匂ひみちたるに 君の御追風いとことなれば 内の人びとも心づかひすべかめり 060僧都 世の常なき御物語 後世のことなど聞こえ知らせたまふ 061我が罪のほど恐ろしう あぢきなきことに心をしめて 生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり まして後の世のいみじかるべき 思し続けて かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから 昼の面影心にかかりて恋しければ ここにものしたまふは 誰れにか 尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな 今日なむ思ひあはせつると聞こえたまへば うち笑ひて うちつけなる御夢語りにぞはべるなる 尋ねさせたまひても 御心劣りせさせたまひぬべし 故按察使大納言は 世になくて久しくなりはべりぬれば えしろしめさじかし その北の方なむ なにがしが妹にはべる かの按察使かくれて後 世を背きてはべるが このごろ わづらふことはべるにより かく京にもまかでねば 頼もし所に籠もりてものしはべるなり と聞こえたまふ

若紫 原文かな 05-047/05-061

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

あはれなるひとをみつるかな かかれば このすきもの-どもは かかるありきをのみして よくさるまじきひとをもみつくるなりけり たまさかにたちいづるだに かくおもひのほかなることをみるよと をかしうおぼす さても いとうつくしかりつるちごかな なにびとならむ かのひとのおほむ-かはりに あけくれのなぐさめにもみばや とおもふこころ ふかうつきぬ うち-ふしたまへるに そうづのみでし これみつをよびいでさす ほどなきところなれば きみもやがてききたまふ よきりおはしましけるよし ただいまなむ ひとまうすに おどろきながら さぶらべきを なにがしこのてらにこもりはべりとは しろしめしながら しのびさせたまへるを うれはしくおもひたまへてなむ くさのおほむ-むしろも このばうにこそまうけはべるべけれ いとほいなきこと とまうしたまへり いぬるじふよにちのほどより わらはやみにわづらひはべるを たびかさなりてたへがたくはべれば ひとのをしへのまま にはかにたづねいりはべりつれど かやうなるひとのしるしあらはさぬとき はしたなかるべきも ただなるよりは いとほしうおもひたまへつつみてなむ いたうしのびはべりつる いま そなたにも とのたまへり すなはち そうづまゐりたまへり ほふしなれど いとこころはづかしくひとがらもやむごとなく よにおもはれたまへるひとなれば かるがるしきおほむ-ありさまを はしたなうおぼす かくこもれるほどのおほむ-ものがたりなどきこエたまひて おなじしばのいほりなれど すこしすずしきみづのながれもごらんぜさせむと せちにきこエたまへば かの まだみぬひとびとにことことしういひきかせつるを つつましうおぼせど あはれなりつるありさまもいぶかしくて おはしぬ げに いとこころことによしありて おなじきくさをもうゑなしたまへり つきもなきころなれば やりみづにかがりびともし とうろなどもまゐりたり みなみおもていときよげにしつらひたまへり そらだきもの いとこころにくくかをりいで みやうがうのかなどにほひみちたるに きみのおほむ-おひかぜいとことなれば うちのひとびともこころづかひすべかめり そうづ よのつねなきおほむ-ものがたり のちせのことなどきこエしらせたまふ わがつみのほどおそろしう あぢきなきことにこころをしめて いけるかぎりこれをおもひなやむべきなめり ましてのちのよのいみじかるべき おぼしつづけて かうやうなるすまひもせまほしうおぼエたまふものから ひるのおもかげこころにかかりてこひしければ ここにものしたまふは たれにか たづねきこエまほしきゆめをみたまへしかな けふなむおもひあはせつる ときこエたまへば うち-わらひて うちつけなるおほむ-ゆめがたりにぞはべるなる たづねさせたまひても み-こころおとりせさせたまひぬべし こ-あぜちのだいなごんは よになくてひさしくなりはべりぬれば えしろしめさじかし そのきたのかたなむ なにがしがいもうとにはべる かのあぜちかくれてのち よをそむきてはべるが このごろ わづらふことはべるにより かくきやうにもまかでねば たのもしどころにこもりてものしはべるなり ときこエたまふ

若紫 現代語訳 05-047/05-061

「愛しい人を見たものだな。こういうことがあるから、この女好きどもは、こうした忍び歩きばかりして、うまい具合に場違いな美人まで見つけるんだな。たまに出かけただけでも、こんな思いがけない人に出会えるとは」ろ、興味をお持ちになる。
それにしても、本当にかわいらしい子だったな。どういう人だろう。おのお方の身代わりに、明け暮れ心の慰めにでも一緒に過ごしたいものだと、そう思う気持ちが深く心に根ざした。
すこし横になっておられるところへ、僧都のお弟子さんが取次ぎに惟光を呼び出させる。狭いところなので、君もつつぬけにお聞きになる。
「通りすごしになられましたよし、ただ今になって人が申します、あわてて参上いたすべきところ、わたくしめがこの寺に籠っていますのをご存知であられながら、秘していらっしゃるのを、遺憾に存じましてつい。ひなびたものながら御座所をも、こちらの僧房にご用意いたしますのに。まったく残念なことで」と弟子を通して申された。
「十日過ぎごろから、瘧病みに苦しんでおりましたが、発作が度重なり耐え難い思い出したので、人が教えるまま、にわかにこちらを尋ねてはまいりましたが、あのように名高い方が霊験をしめされない場合、いたたまれなく思われましょう、そのことに対しても、評判を得る前よりは尚さら申し訳なく存じはばかれまして、ひどく内密にいたしたのです。いまそちらへもご挨拶を」とおっしゃられる。
すぐに僧都が参上された。法師の身ではあるが、とても気が引ける人で、人品もこの上なく、世人の尊敬を集めておられる人なので、簡素なお忍びの姿を、決まり悪くお思いになる。このように山籠りをしている間のお話なんかを申し上げになって、
「よそと変らぬ粗末な庵だけれど、すこし涼しい遣水でもご覧に入れましょう」
と、切にお誘いなさるので、あのように、まだお会いせぬ人たちに自分のことを大袈裟に言ってきかせていたことが、気恥ずかしくお思いになったが、恋しくおもわれた様子を是非にも知りたくて、僧都の坊にお出かけになった。
なるほど、格別配慮が行き届いた感じがし格式があるように、よそと同じ木や草なんかも植えしつらえていらっしゃる。月もない頃なので、遣水のほとりに篝火を灯し、燈籠などにも火を入れてある。建物の南側である正面の部屋をとても清浄にしつらえておられた。ほのかな香りが奥ゆかしくどこからともなくかおり来て、仏に奉るお香なども部屋に満ち、さらに追い風となる君のお召し物の香りは特別し立てなので、坊内の人々もきっと心遣いをするであろう。
僧都は、この世がいかに無常であるかのお話や、来世いのありさまなどなどを申し上げお教えになる。自分の犯した藤壺への罪の深さが恐ろしく、そんな道に外れたことに菩提心に向うべき心をすべて費やし、生を与えられている限り、この過ちについて思い悩むことになろうし、今生にもまして、来世がおそろしいことになるに違いないと思いつづけてになって、心に何の執着も残らないこんな風な山住みでもしたいとお考えになるその端から、昼に透き見した姿がありありと心にかかって恋しいので、
「ここにいらっしゃるのはどなたですか。どういうお方かお尋ね申し上げたい夢を以前見たのであったなあ。その場所がここだったのかと今日こそ思い当たりました」と申し上げになると、つい吹き出して、「突拍子もない御夢物語のように聞こえますなあ。お尋ねになっても、きっとご期待をお損ねになりましょう。亡き按察の大納言は、亡くなってから永の時が経ってしまいましたので、ご存知ないでしょうな。その北の方が、わたくしめの妹でございます。今申しました按察が亡くなったのち、世を背き出家いたしているのですが、近頃病気にかかっておりますため、わたくしもこのように京にも参られませんので、頼りどころとしてここへ籠っているのでございます」と申し上げになる。

若紫 注釈 05-047/05-061

あはれなる 05-047

恋しいという感情。

かかれば 05-047

「かくあれば」の縮まった形。こういうことなので。こういうとは、ちょっと出歩いて透き見をしただけで、紫のような予想もしない美人に出会えること。

よく 05-047

上手い具合に。

さるまじき 05-047

直訳すれば、「そうあるべきでない人」の意味だが、それは具体的にどういうことを意味するかは、文脈をたどるしかない。文章構成から考え、「かかる歩きをのみしてよくさるまじき人をも見つくるなりけり」と「たまさかに立ち出づるだにかく思ひの外なることを見るよ」は同意表現であることから考え(前者はそれを一般的に述べ、後者は自分の個別の経験を述べた違いがある)、「さるまじき人」は「思ひの外なること」とパラレルだとわかる。そこから、「そうあるべきでない人」とは、そんな場所で出会うとは予想もしなかった美人で、本来そういう場所にいることがふさわしくない人の意味である。なぜふさわしくないかは、本来、もっと位が高く、都の中心で貴族的な暮らしをしているべきであるという意識があるからである。中流下流生まれの中に、たまたま美人を発見したということではない。権力闘争に敗れた貴族という限定があるのだ。そこに本来いるべきでないという平安人の意識は、たんに美人だからではなく、本来上流階級ではないかと思える女性だからである。「雨夜の品定め」に出た「中の君(中流階級)」を押し当てる論があるが、この違いは重要で、かつて上流階級であったという限定が必要である。零落貴族であるから、光の従者たちでも、近づくことができるのであり、もと貴族だから光の恋愛の対象になりうるのである。

かの人の御代はり 05-048

「かの人」は藤壺を指す。「思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」『桐壺』が思い出されるくだり。 この段で注意すべきは、光は紫との出会いを絶対的なものと見ておらず、従者たちの忍び歩きでも出会えるもののひとつとして考えている点である。「あはれなる人」ではあるが、絶対的な人ではない。少なくとも出会いの時点ではそうである。源氏物語を先入観からロマンチックに読んではいけないのである。かかるがゆえに、この絶対的でない存在は、絶対的存在の藤壺の身代わりとしてしか、存在価値を与えられていないのだ。紫に対する光の愛の絶対値は、藤壺への愛の絶対値を超えられないのだという、枠組みを覚えておかねばならない。しかし、この枠組みが不動のものとしてかわらないかどうかは、物語を読み進めなければわからないことである。どんなに夫婦仲のよい場合でも、初恋の女性を忘れられない男もいれば、どんなに初恋の相手が忘れかねても、やはり生涯暮らした妻が大切である場合もある。もっとも、長編小説は、枠組みがなければ組みあがらないが、その枠組みが不変であるというケースは稀である。その枠組みに変化がないものは、古代文学を出ないか、古代以降の文学として稚拙であるかであろう。なお、ここで古代文学が稚拙であると言っているのではない、古代文学は厳格な約束事に則って書かれている形式であると言いたいだけである。逆にいつ書かれたかは別にして、そういう形式を守る文学は古代文学と呼べるのではないかと言うこと。もっといい呼び名があるのかも知れないが、今は古代文学という言い方以上のものが見つからないだけです。

うち臥し 05-049

仮寝、ちょっと横になって休息すること。

呼び出でさす 05-049

「さす」という使役が入っている点に注意。僧都の弟子が人を使って惟光を呼び出させるのである。

やがて聞きたまふ 05-050

本来、弟子から受けた挨拶を惟光が聞き取り、それを光に伝えるのだが、狭いところなので、惟光に話している挨拶がじかに光の耳に達していることをいう。

過り 05-051

僧都の前を通り過ごして、聖のもとへ行ったこと。室町時代以前は「よきる」と濁らない。

おどろきながら 05-051

聖が光を迎えたときも、「驚き騒ぎ」とあった。貴人を迎えるときに使われる一種の誇張表現であろう。

さぶらふべきを 05-051

参じなければならないがそうはしない、その理由は以下で述べる。

なにがし 05-051

自称。

思ひたまへてなむ 05-051

「さぶらはざる」なんかが省略されている。

草の御むしろも 05-051

粗末ながら、君のおやすみになる御座所もの意味。

申したまへり 05-051

「たまへ」は弟子でなく、僧都の言葉であるとの意識から、語り手が僧都に対して敬意をこめている。

かやうなる人 05-052

文意がとりにくいが、文章構成上「ただなるより」と比較されている。

ただなるより 05-052

源氏物語の中で七度出てくるが、いずれも同一人物に対して、あることが起こる前と後の比較である(というか、他人と比較していると断定できる例はない)。何もなく普通にいた時よりもの意味。従ってここで考えられる意味は、聖の位を得るまえとあと、ないしは、あの人にまじなってもらえばすぐに霊験があらわれるとの評判を得る前と後という対比になる。そこらの坊主との比較ではない。この読みでは『注釈』が正しい。

いとほしう 05-052

自分がかかわったことに対して申し訳なく思う気持ち。第三者の気持ちをあらわす「お気の毒と訳すのは間違いである。「いまそなたにも」のあとには挨拶に参ろうと思っていたところです、などの意味が省略されている。 高名なだけに評判を逸することがあれば申し訳ないので、内密に来ましたとの光の申し開きは感嘆させられる。この気遣いが、恋愛においても、政治の中でも必要な帝王学のひとつなのだろう。読んでてすこし歯が浮く感じはするが、頭がさがる。

すなわち 05-053

即座に。弟子が挨拶をした報告を僧都にし終わるとすぐ。「法師なれどいと心恥づかしく」とあるのは、法師に対しては、恋の相談、罪の告白、犯罪などあらゆる相談役であったので、気がねをしないのが普通だったのだろう。法師一般がそういう存在なのだから、心恥づかしく感じられるのは、この僧都固有の理由のはずである。そのうち人品は次に述べられるのだから、精神性でなく肉体的なことだろう。まったくの推測だが、年はいっているものの、僧都にしては美貌の持ち主ではなかったか。尼君や紫との血縁を考える、そんな気がするのだが、どうであろう。

同じ柴の庵 05-055

よその庵と違いはないが。光を自分の庵へと誘う言葉。

水の流れ 05-055

遣水。

かの 05-055

「人々」にかける読みも可能だが、あのようにの意味で「言ひ聞かせつる」にかけた。

まだ見ぬ人びと 05-055

尼君たち。

ことことしう 05-055

僧都が尼君に言った発言「この世にののしりたまふ光る源氏……齢のぶる人の御ありさまなり」をさす。ものものしい、おおげさなの意味。

つつましう 05-055

決まり悪く。

あはれなりつるありさま 05-055

紫。

いぶかしく 05-055

強く知りたく思う気持ち。

おはしぬ 05-055

僧都の坊に出かける。

げに 05-056

「同じ柴の庵なれどすこし涼しき水の流れもご覧ぜさせん」を受けた言葉。

心ことに 05-056

庭作りに対する心遣いが特別であること。「植ゑなし」にかかる。「よしありて」も「植ゑなし」にかかる。格式がある。その植え方を見ると作り手が一流の教養の持ち主であることがわかる植え方。

月もなきころ 05-057

今日は「三月のつごもりなれば」とあったから、月は夜通し出ない。

南面 05-058

建物の南面で、客を通す部屋。

名香 05-059

仏へ奉るお香。

御追風 05-059

光の衣服の移り香を、追い風(香りを運ぶ風)に見立てたもの。

いとことなれば 05-059

空蝉が香りをかいだだけで光だとわかったように、光の移り香は特殊な香りがするのである。

内の人びと 05-059

屋敷内にいる人のこと。源氏物語では四例あるが、とくに誰かれなく邸内にいる人々全般を意味すると思われる。すなわち、貴人である光の来訪に坊内が騒然としている様子であろう。

世の常なき 05-060

「の」は主格。この世は無常であること。

後世 05-060

漠然とあの世、後世と訳すが、ふたつの有り方がある。ひとつは、阿弥陀経などが説く極楽浄土の世界であり、もうひとつは源信の『往生要集』などが説く六道輪廻の世界である。前者は、善行を積んでいれば、死後極楽へと生まれるというものだが、元来生あるものは、六道の世界を生まれ変わり死に変わりした末、仏となり得たものだけが成仏し、輪廻の世界から解き放たれるのである。これはあまりにもむごたらしい死生観であるので、前者の思想が、平安貴族たちが希求し、阿弥陀仏が多く作られていくのである。それはさておき、「後の世」とある場合、ふたつの死生観のうちどちらであるか、あるいはどちらにウエイトが置かれているかを考えることが、物語を深く読むことにつながると思う。この段では、二回「後の世」が出てくるが、そのいずれの場合も、六道の世界が主になっていると読まなければ、光の生に対する反省を生々しく(?)読めないのである。

我が罪のほど 05-061

藤壺を強姦したこと。この物語では語られないが、おそらく、「雨夜の品定め」以前に、ことは済んでいるのである。従って、この帖でのちに描写しゃれるのは、二回目の強姦の場面である。ただし、ここからは推察だが、初回では、藤壺の抵抗が激しく、挿入に至らなかったであろうとわたしは見る。なぜなら、一度の性行為で身ごもるのが、古今を通じてなされている帝王の物語であり、源氏物語もその人類共通のパターンを踏むであろうと予想するからである。初回の描写がないのは、この不成功に終わった性行為を省略することで、光の苦悩を浮きあがらせる狙いであろうと想像する。性描写はいかに描いても、いくぶんは滑稽感を伴うものだからだ。二回目である理由はほかにもあるが、詳細は当該個所で行う。

あぢじなきこと 05-061

その無軌道さゆえ制御しきれないこと。

心をしめて 05-061

心を占めての意味。心をそのことだけに使ってしまうこと。裏を返せば、心にはそうした使用法以外の本来の使い道があるのである。それを考える前に「心」の原義に触れると、おそらく中心の意味であろう。人にとって中心にあるものが、こころ、すなわち、気持ちであるのだ。しかし、たとえば文脈が死生の問題を扱っている場合では、魂の意味に近づいてゆくであろう。「心=気持ち」という公式にするのでなく、場面場面で意味を考えるのが大切なのである。そこでこの場面に戻るが、生において一番大切にすべき事を、帝の妻へ思いを寄せるという道に外れたことだけに、使うのは何と恐ろしいことかの意味になる。では、この世において一番大切なことは何か、それは僧都の説く、世は無常であり、死後に待ちうける六道の苦しみから抜けるための努力、すなわち、仏道修行である。(ことわっておくが、わたしがこの世で一番大切に思うことが仏道修行であると言っているのではない、わたしはそんなことは思わない。ここでは、そう読み取ることが一番文脈に沿うと判断するだけのことである。わたしもそうだが、宗教が問題になると、つい変に勘ぐりがちなので、一言断っておきます。)さて、この場面をより深くよむために必要だと思われるので、「薫習(くんじゅう)」という仏教の考え方を紹介しておく。これはものをいぶせば、かおりがうつるように、あることをしたことがその人にしみこみ、それが将来何かの原因として働くという考え方である。まあ原因と結果なのだが、個々人のすべての動作行動が体に染み込むのであり、そしてそれはそのまま来世にも、その次の生にも、永遠に今行った一挙手一投足が持ち越されていくという考え方。生あるものが、最終的に輪廻転生の末に成仏できるためには、ある生によって成仏の種を得たとは考えず、どの生でもその種を持ちつづけながら発芽させられなかったのだと仏教は考える。発芽させられない原因が、それぞれ個人が過去の生で行った行動の一切の積み重ねが妨げるからである。この悪い原因を悪種(あくしゅ)という。言葉を変えれば、成仏を妨げる原因、すなわちこの世への執着である。逆に、最終的に成仏へとつながる種が、菩提心(成仏したいと願う心)なのである。従って、人の生の中心は、菩提心にあるのである。「心をしめて」を上のように訳したのは、よほど無理があると思われるだろうが、本来、菩提心にむけるべきものを、そんなことに心しめると、この世のみならず後の世にでそれがいかに恐ろしい悪種となるかという文脈であるとわたしは見るのである。「生ける限り」について、生きる限りでなく、生ける限りとなっているのが問題である。これは、生を自分が主体として生きている意識ではなく、他者によって、この生を生かされているという意識の反映だろうと思う。輪廻転生を繰り返すこの世に光源氏として生を与えられたという考えであろうと思う。

かうやうなる住まひ 05-061

聖の住む場所の背後の山に登り、明石の方を見やる前にこの地の感想を述べた「かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」を受ける。この地を現世への執着のない世界としてとらえているのである。もっとも直前で、光は僧都の家を見下ろし、女たちがいることに興味を持った直後の感想であることが面白い。「せまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しいければ」:これは205ですでに述べた。説明はあとでざっと整理するが、この個所の重要性について一言喚起しておく。それは、光は心から出家を願ったのだろうか、あるいは源氏物語の主題のひとうとして出家はあるのかという大きな議論と密接につながるからである。本心ではなかったという論者が提示するのが、この個所である。この個所から光が本気では出家を願わず、それゆえ源氏物語の世界では、出家は周辺的な扱いであって主題とはなりえないと説くのである。たしかに、ここの光の反省は、筆が省略されているので軽く思える。205でもそれを指摘した。しかし、菩提心は、すべての人に共通に与えられているものであり、誰がつよく彼が弱いというものではない。結果として出家するしないは菩提心の強さによるのではなく、悪種がいかに強く働いているかによるのである。光は出家を願うその一方で、誰よりも強い悪種をもった存在、誰よりもこの世への執着が強い存在、色好みの中の色好みとして設定されているのである。にも関わらず、あるいは、その執着の強さゆえに出家、あるいは心の平安を願わないではいられない(菩提心そのものは他と変りないが、生の苦しみから逃れたいと思う気持ちは人より強い)のだ。したがって、源氏物語のテーマは出家ではなく、色好みが中心テーマであるが、それゆえその裏では出家への願いが常にあることを忘れずに読むべきだと思う。平安人の精神のバランス、ないしはアンバランスは、生への執着と成仏への願いという乖離の上にあるのである。源氏物語を恋愛物語とのみ見る見方(そんな風にみる見方は今は少ないとは思うが)は間違いである。

おぼえたまふものから昼の面影心にかかりて恋しければ 05-061

この文は、出家への願い(菩提心、発心)の弱さを意味するのではなく、悪種ないしは執着の強さを簡略な文体により、批判をこめて述べている個所である。出家を求める、心の平安を求める気持ちは人一倍強いが、それよりもなお、執着が強いのである。さらに言えば、平安を求める気持ちと女への執着の繰り返しが、源氏物語のテーマである。色好みのヒーローである「交野の少将」とはそこが違うのである。「うちつけのすきずきしさなどは好ましからぬ御本性にて」とあるのは、このことを言うのであろう(「うちつけ」の語意はすぐあとで述べる)。ひたぶる色好みではない。「心にかかりて」は、本来、菩提心に向う心が、透き見により紫の姿が心にしみついたこと、薫習である。それゆえ、恋しいという結果を生む。

今日なむ思ひあはせつる 05-061

尋ねてゆきたいと思いつつ、夢に見た場所がどこかこれまではわからなかったが、今日この坊に来て初めて夢で見た場所がここだとわかったということ。「うちつけなる御夢物語」の「うちつけ」は、唐突なの意味である。唐突とは、話の流れ、その場の雰囲気に沿わないこと。相手にとっては、唐突で無理があり、理解に苦しむ挙動をいう。ずいぶん無茶苦茶なって感じ。

はべるなる 05-061

「なる」は伝聞「なり」の連体形。無茶に聞こえる。

御心劣り 05-061

期待外れ。

せさせたまひ 05-061

「せ」は動詞。「させたまひ」は尊敬。

かく京にもまかでねば 05-061

僧都自身のこと。

はべるなり 05-061

「なり」は断定。身内のことなの、推量する必要はないので伝聞ではない。このように「ラ変動詞+なり」は伝聞であるか断定であるか迷うことがあるが、自分の動作では断定であり、人の動作では伝聞である可能性がある。前に伝達動詞や音に関する表現があれば伝聞と考えて間違いない。先の「はべるなる」はその前に「聞こえたまへば」と伝達表現があったり、相手の動作であるの伝聞と決定できるのである。

2020-05-24

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