05若紫03

2020-10-18

05若紫 原文 03章026/046

人なくて つれづれなれば 夕暮のいたう霞みたるに紛れて かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ 人びとは帰したまひて 惟光朝臣と覗きたまへば ただこの西面にしも 仏据ゑたてまつりて行ふ 尼なりけり 簾すこし上げて 花たてまつるめり 中の柱に寄りゐて 脇息の上に経を置きて いとなやましげに読みゐたる尼君 ただ人と見えず 四十余ばかりにて いと白うあてに 痩せたれど つらつきふくらかに まみのほど 髪のうつくしげにそがれたる末も なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと あはれに見たまふ 清げなる大人二人ばかり さては童女ぞ出で入り遊ぶ 中に十ばかりやあらむと見えて 白き衣 山吹などの萎えたる着て 走り来たる女子 あまた見えつる子どもに似るべうもあらず いみじく生ひさき見えて うつくしげなる容貌なり 髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして 顔はいと赤くすりなして立てり 何ごとぞや 童女と腹立ちたまへるかとて 尼君の見上げたるに すこしおぼえたるところあれば 子なめりと見たまふ 雀の子を犬君が逃がしつる 伏籠のうちに籠めたりつるものをとて いと口惜しと思へり このゐたる大人 例の 心なしの かかるわざをして さいなまるるこそ いと心づきなけれ いづ方へかまかりぬる いとをかしう やうやうなりつるものを 烏などもこそ見つくれとて 立ちて行く 髪ゆるるかにいと長く めやすき人なめり 少納言の乳母とこそ人言ふめるは この子の後見なるべし 尼君  いで あな幼や 言ふかひなうものしたまふかな おのが かく 今日明日におぼゆる命をば 何とも思したらで 雀慕ひたまふほどよ 罪得ることぞと 常に聞こゆるを 心憂く とて こちや と言へば ついゐたり つらつきいとらうたげにて 眉のわたりうちけぶり いはけなくかいやりたる額つき 髪ざし いみじううつくし ねびゆかむさまゆかしき人かなと 目とまりたまふ さるは 限りなう心を尽くしきこゆる人に いとよう似たてまつれるが まもらるるなりけり と 思ふにも涙ぞ落つる 尼君 髪をかき撫でつつ 梳ることをうるさがりたまへど をかしの御髪や いとはかなうものしたまふこそ あはれにうしろめたけれ かばかりになれば いとかからぬ人もあるものを 故姫君は 十ばかりにて殿に後れたまひしほど いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし ただ今 おのれ見捨てたてまつらば いかで世におはせむとすらむとて いみじく泣くを見たまふも すずろに悲し 幼心地にも さすがにうちまもりて 伏目になりてうつぶしたるに こぼれかかりたる髪 つやつやとめでたう見ゆ
 生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき
またゐたる大人 げにと うち泣きて
  初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに 僧都 あなたより来て こなたはあらはにやはべらむ 今日しも 端におはしましけるかな この上の聖の方に 源氏の中将の瘧病まじなひにものしたまひけるを ただ今なむ 聞きつけはべる いみじう忍びたまひければ 知りはべらで ここにはべりながら 御とぶらひにもまでざりける とのたまへば あないみじや いとあやしきさまを 人や見つらむとて 簾下ろしつ この世に ののしりたまふ光る源氏 かかるついでに見たてまつりたまはむや 世を捨てたる法師の心地にも いみじう世の憂へ忘れ 齢延ぶる人の御ありさまなり いで 御消息聞こえむとて 立つ音すれば 帰りたまひぬ

05若紫 原文 読みかな 対訳 026/046

イ:や行の「い」/エ:や行の「え」

《人なくて つれづれなれば 夕暮のいたう霞みたるに紛れて かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ》026
ひと/なく/て つれづれ/なれ/ば ゆふぐれ/の/いたう/かすみ/たる/に/まぎれ/て かの/こしばがき/の/ほど/に/たち/いで/たまふ
話し相手の女性がいなくて無聊のため、夕暮れ時のひどく霞んでいるのにまぎれて、あの小柴垣のあたりにお立ち出になる。


《人びとは帰したまひて 惟光朝臣と覗きたまへば ただこの西面にしも 仏据ゑたてまつりて行ふ 尼なりけり》027
ひとびと/は/かへし/たまひ/て これみつのあそむ/と/のぞき/たまへ/ば ただ/この/にしおもて/に/しも ほとけ/すゑ/たてまつり/て/おこなふ あま/なり/けり
供の者たちは都にお帰しになり、惟光朝臣と透き見をなさると、すぐこの西側の部屋に持仏をお据え申して勤行している様子、何と尼だった。


《簾すこし上げて 花たてまつるめり》028
すだれ/すこし/あげ/て はな/たてまつる/めり
簾をすこし上げて、花をお供えしているようである。


《中の柱に寄りゐて 脇息の上に経を置きて いとなやましげに読みゐたる尼君 ただ人と見えず》029
なか/の/はしら/に/より/ゐ/て けふそく/の/うへ/に/きやう/を/おき/て いと/なやましげ/に/よみ/ゐ/たる/あまぎみ ただびと/と/みエ/ず
中央の柱に寄りかかって座り、脇息の上にお経を置いて、とても大儀そうに読経している、その尼君の姿は、そこらの身分の人には見えない。


《四十余ばかりにて いと白うあてに 痩せたれど つらつきふくらかに まみのほど 髪のうつくしげにそがれたる末も なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと あはれに見たまふ》030
しじふよ/ばかり/にて いと/しろう/あて/に やせ/たれ/ど つらつき/ふくらか/に まみ/の/ほど かみ/の/うつくしげ/に/そがれ/たる/すゑ/も なかなか/ながき/より/も/こよなう/いまめかしき/もの/かな/と あはれ/に/み/たまふ
四十過ぎくらいで、とても色白で気品があり、ほっそりしていながら顔立ちはふっくらで、目元のあたりなど、それに髪の美しそうに切りそろえている端にしてもかえって長い状態よりも比べられぬほど今風な感じがはっきり伝わり、好意をもってご覧になる。


《清げなる大人二人ばかり さては童女ぞ出で入り遊ぶ》031
きよげ/なる/おとな/ふたり/ばかり さては/わらはべ/ぞ/いで/いり/あそぶ
清らかな感じのする女房がふたりくらい、それから童女が出たり入ったりして遊ぶ。


《中に十ばかりやあらむと見えて 白き衣 山吹などの萎えたる着て 走り来たる女子 あまた見えつる子どもに似るべうもあらず いみじく生ひさき見えて うつくしげなる容貌なり》032
なか/に/とを/ばかり/や/あら/む/と/みエ/て しろき/きぬ やまぶき/など/の/なエ/たる/き/て はしり/き/たる/をむなご あまた/みエ/つる/こども/に/にる/べう/も/あら/ず いみじく/おひさき/みエ/て うつくしげ/なる/かたち/なり
その中に、十歳くらいかと見え、白い単(ひとえ)の下着に山吹襲などの着馴れた上着を着て走って来た女の子は、他のたくさん見えた子供たちに似るべくもなく今からたいそう将来がたのしみに思われ、愛らしい容貌をしている。


《髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして 顔はいと赤くすりなして立てり》033
かみ/は/あふぎ/を/ひろげ/たる/やう/に/ゆらゆら/と/し/て かほ/は/いと/あかく/すり/なし/て/たて/り
髪は扇を広げたようにゆらゆらし、顔は真っ赤に手でこすって立っている。


《何ごとぞや 童女と腹立ちたまへるかとて 尼君の見上げたるに すこしおぼえたるところあれば 子なめりと見たまふ》034
なにごと/ぞ/や わらはべ/と/はらだち/たまへ/る/か とて あまぎみ/の/みあげ/たる/に すこし/おぼエ/たる/ところ/あれ/ば こ/な/めり と/み/たまふ
「何ごとです。子供たちとけんかをなさったか」と言って、尼君が見上げる際に、すこし似たところがあるので、娘であろうとお考えになる。


《雀の子を犬君が逃がしつる 伏籠のうちに籠めたりつるものをとて いと口惜しと思へり》035
すずめ/の/こ/を/いぬき/が/にがし/つる ふせご/の/うち/に/こめ/たり/つる/ものを とて いと/くちをし/と/おもへ/り
「雀の子を犬君(いぬき)が逃したの、伏籠(ふせご)の中にちゃんと入れてあったのに」と言って、とても残念に思っている。


《このゐたる大人 例の 心なしの かかるわざをして さいなまるるこそ いと心づきなけれ いづ方へかまかりぬる いとをかしう やうやうなりつるものを 烏などもこそ見つくれとて 立ちて行く》036
この/ゐ/たる/おとな れい/の こころなし/の かかる/わざ/を/し/て さいなま/るる/こそ いと/こころづきなけれ いづかた/へ/か/まかり/ぬる いと/をかしう やうやう/なり/つる/ものを からす/など/も/こそ/みつくれ とて たち/て/ゆく
そこに座っている女房が、「例によって、うっかり屋がそんなへまをして叱られるのはまったくいけ好かないけど、それにしても、どこへ行ったのだろう、本当にかわいくだんだんなってきたのに。烏なんかが見つけたらどうしましょう」と言って立ってゆく。


《髪ゆるるかにいと長く めやすき人なめり》037
かみ/ゆるるか/に/いと/ながく めやすき/ひと/な/めり
髪がふんわりととても長く、顔も見よい女のようだ。


《少納言の乳母とこそ人言ふめるは この子の後見なるべし》038
せうなごん/の/めのと/と/こそ/ひと/いふ/める/は この/こ/の/うしろみ/なる/べし
少納言の乳母と人が言っているようだから、この子の世話役なのだろう。


《尼君  いで あな幼や 言ふかひなうものしたまふかな おのが かく 今日明日におぼゆる命をば 何とも思したらで 雀慕ひたまふほどよ 罪得ることぞと 常に聞こゆるを 心憂く とて こちや と言へば ついゐたり》039
あまぎみ いで あな/をさな/や いふかひなう/ものし/たまふ/かな おのが かく けふ/あす/に/おぼゆる/いのち/を/ば なに/と/も/おぼし/たら/で すずめ/したひ/たまふ/ほど/よ つみ/うる/こと/ぞ/と つね/に/きこゆる/を こころうく とて こち/や と/いへ/ば つい-ゐ/たり
尼君は、「まあ、なんと幼稚な。話にもならないあられようだこと。わたしがこんなふうに今日明日とも知れぬ命であるのを、何ともお考えにならないで、雀をお慕いあそばす度合といったら。ばちが当たる行いだと、常々申しておりますに、情けない」と言って、こちゃへと招けば、そばへ行って膝をついて座った。


《つらつきいとらうたげにて 眉のわたりうちけぶり いはけなくかいやりたる額つき 髪ざし いみじううつくし》040
つらつき/いと/らうたげ/に/て まゆ/の/わたり/うち-けぶり いはけなく/かい-やり/たる/ひたひつき かむざし いみじう/うつくし
顔つきがとても愛らしくて、眉のあたりはうぶ毛のままぼっとけむったように見え、あどけなく髪をかきあげてある額の様子は、なんともかわいらしい。


《ねびゆかむさまゆかしき人かなと 目とまりたまふ》041
ねび/ゆか/む/さま/ゆかしき/ひと/かな/と め/とまり/たまふ
成長して行く様子を見ていたい人だなと、心がお惹かれになる。


《さるは 限りなう心を尽くしきこゆる人に いとよう似たてまつれるが まもらるるなりけり と 思ふにも涙ぞ落つる》042
さるは かぎりなう/こころ/を/つくし/きこゆる/ひと/に いと/よう/に/たてまつれ/る/が まもら/るる/なり/けり/と おもふ/に/も/なみだ/ぞ/おつる
というのも、限りなく真心を尽くしてお慕い申し上げている方に、とてもよく似ておいでのために、つい見とれてしまうのだなと、思うにつけ涙がこぼれ落ちる。


《尼君 髪をかき撫でつつ 梳ることをうるさがりたまへど をかしの御髪や いとはかなうものしたまふこそ あはれにうしろめたけれ かばかりになれば いとかからぬ人もあるものを 故姫君は 十ばかりにて殿に後れたまひしほど いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし ただ今 おのれ見捨てたてまつらば いかで世におはせむとすらむとて いみじく泣くを見たまふも すずろに悲し》043
あまぎみ かみ/を/かき-なで/つつ けづる/こと/を/うるさがり/たまへ/ど をかし/の/みぐし/や いと/はかなう/ものし/たまふ/こそ あはれ/に/うしろめたけれ かばかり/に/なれ/ば いと/かから/ぬ/ひと/も/ある/ものを こ-ひめぎみ/は とを/ばかり/にて/との/に/おくれ/たまひ/し/ほど/いみじう/もの/は/おもひ/しり/たまへ/り/し/ぞ/かし ただ/いま おのれ/みすて/たてまつら/ば いかで/よ/に/おはせ/む/と/す/らむ とて いみじく/なく/を/み/たまふ/も すずろ/に/かなし
尼君は少女の髪をかき撫でながら、「櫛でとくのをいやがりになるけれど、うつくしい御髪だこと。なんとも頼りなくいらっしゃるのが、かわいそうで気がかりだけれど、このくらいのご年齢になれば、まったくこんな風でなくしっかりした人もいるのに。亡くなった姫君は、十歳くらいで父親に先立たれてしまわれた頃には、たいそう世の中のことは思い知っておられたことです。ただいま、わたしが先だってお見捨て申し上げたなら、どうやって生きて行こうとなさるのでしょう」と言って、ひどく泣くのを君はごらんになるにつけ、無性に悲しいお気持ちになられる。


《幼心地にも さすがにうちまもりて 伏目になりてうつぶしたるに こぼれかかりたる髪 つやつやとめでたう見ゆ》044
をさなごこち/に/も さすが/に/うち-まもり/て ふしめ/に/なり/て/うつぶし/たる/に こぼれ/かかり/たる/かみ つやつや/と/めでたう/みゆ
幼心地にもさすがに、尼君のことをじっと見つめ、伏し目になってうつむいたところ、こぼれかかった髪はつややかで見事である。


《生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき またゐたる大人 げにと うち泣きて 初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ と聞こゆるほどに 僧都 あなたより来て こなたはあらはにやはべらむ 今日しも 端におはしましけるかな この上の聖の方に 源氏の中将の瘧病まじなひにものしたまひけるを ただ今なむ 聞きつけはべる いみじう忍びたまひければ 知りはべらで ここにはべりながら 御とぶらひにもまでざりける とのたまへば あないみじや いとあやしきさまを 人や見つらむとて 簾下ろしつ》045
おひ/たた/む/ありか/も/しら/ぬ/わかくさ/を おくらす/つゆ/ぞ/きエ/む/そら/なき また/ゐ/たる/おとな げに/と うち-なき/て はつくさ/の/おひ/ゆく/すゑ/も/しら/ぬ/ま/に いかでか/つゆ/の/きエ/む/と/す/らむ と/きこゆる/ほど/に そうづ あなた/より/き/て こなた/は/あらは/に/や/はべら/む けふ/しも はし/に/おはしまし/ける/かな この/かみ/の/ひじり/の/かた/に げんじのちゆうじやう/の わらはやみ/まじなひ/に/ものし/たまひ/ける/を ただ/いま/なむ ききつけ/はべる いみじう/しのび/たまひ/けれ/ば しり/はべら/で ここ/に/はべり/ながら おほむ-とぶらひ/に/も/まで/ざり/ける と/のたまへ/ば あな/いみじ/や いと/あやしき/さま/を ひと/や/み/つ/らむ とて すだれ/おろし/つ
生い育ち嫁ぐ先もわからぬ若草の少女を、残して消えてゆく身の露は消えようにも消える気持ちも場所もありません また、そこにすわっている年のいった女房が、まったくですと泣き出して、初草が生育した行く末も知らないうちに どうして甘露である露が消えようとするのでしょうか と申し上げているうちに、僧都がむこうから来て、「ここでは外からまる見えではございませんか。今日にかぎって外の方にいらっしゃるとは。この上の聖のところへ、源氏の中将が、瘧病みのまじないにいらっしゃておられるのに、今になって聞きつけた次第です。たいそうお忍びでおいでだったので存じあげもせず、ここに住んでおりながらお見舞いにも参じませんで」とおっしゃれば、「あら大変なこと。ひどく見苦しい姿を人に見られてはいないかしら」と言って簾を下ろした。


《この世に ののしりたまふ光る源氏 かかるついでに見たてまつりたまはむや 世を捨てたる法師の心地にも いみじう世の憂へ忘れ 齢延ぶる人の御ありさまなり いで 御消息聞こえむとて 立つ音すれば 帰りたまひぬ》046
このよ/に ののしり/たまふ/ひかるげんじ かかる/ついで/に/み/たてまつり/たまは/む/や よ/を/すて/たる/ほふし/の/ここち/に/も いみじう/よ/の/うれへ/わすれ よはひ/のぶる/ひと/の/おほむ-ありさま/なり いで おほむ-せうそこ/きこエ/む とて たつ/おと/すれ/ば かへり/たまひ/ぬ
「世間で大騒ぎしている光る源氏を、このような機会に拝顔なされてはどうですか。俗世を捨てた法師の境涯であっても、まったくこの世のつらさを忘れ寿命が延びる、そんな君のお姿です。さて、ご挨拶を申し上げるとしょう」と言って座を立つ音がするので、君はお帰りになられた。

若紫 注釈 05-026/05-046

人なくて 05-026

「人なくて」は「日もいと長きに」と校訂する注釈書が多い。「ひと」と「ひも」は仮名書きすると区別がつきにくく、そのため異文が発生したものか、どちらでも文脈上、とくに問題がないため、どちらをテキストにするかは難問である。Bへ変更した理由を挙げているのは、『注釈』のみであり、これによると、意味はどちらでも通るが、次ぎの二点を理由に校訂したとのよし。
一、出発の時点から、日の動きにより時間の推移に注意を払った描写がつづく。
二、「人なくて」と「人々は帰したまひて」は矛盾するし、冗漫である。
一は、この講義でも見てきたが、これは積極的な理由にはならない。二において、冗漫さは校訂する根拠にならないが、矛盾となればテキスト変更の積極的理由になる。しかし、果たして矛盾するのだろうか。「人なくて」の「人」と「皆人」また京へ帰した「人々」は、そもそも同じレベルの人ではない。「人なくて」の「人」は、無聊をやるに足る話相手、すなわち、光の気持ちを引きつけるに足るだけの人物でなくてはならない。惟光もこれに入らないし、まして供の者では話相手にならないのである(明石の入道の話はたしかに、興味が引かれたが、話の内容に興味を持ったのであって、話し手に興味があるのではない)。しかし、これだとて、「人なくて」でなければならない積極的理由にはならない。ただ、はっきりしない場合は、テキストをいじらないという大原則に沿うのみである。これが、「人なくて」を変更しない理由のひとつ。
私の読解の本分は文脈をおうことにあり、この方法をとる理由は、無意味なテキストでない以上、すべてのテキストは文脈により互いに関連しあっているという大原則から来ている。従って、ここでもどちらかのテキストがより文脈と密接につながっていることが証明できるはずであると思い、その個所をさがすことにした。テキストは可能な限りいじるべきでないという大原則はおいておくとして、『注釈』のあげる一の理由と、これから述べる理由とどちらがより理にかなうものか、読者ひとりひとりが答えをだしていただければと思う。
問題となるのは、少女を透き見したのち、僧都が光のもとを訪ねてきた後の個所。
僧都、世の常なき御物語、後世のことなど聞こえ知らせたまふ。我が罪のほど恐ろしう、あぢきなきことに心をしめて、生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり。まして後の世のいみじかるべき、思し続けて、かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、
ここがどうしても、読んでいて浮いて感じられる。「罪のほど恐ろしう」という後悔の深さも怪しければ、このような山住みをしたいとの望みも疑問である。こうした疑問をもたざるをえない原因のひとつは、すぐに少女に興味をむけてしまうその早さにあるが、しかし、真の理由はここの描写が観念的て、「罪のほど」が具体的に述べられていないためである。要するに他の部分と比べて、描写がお粗末過ぎるのだ。そのお粗末さは、他の部分と関連が見出せない理由による。光がおののく罪は、もちろん藤壺との密通であろうが、それにしても、具体性がなさすぎる。
ここからが、わたしの読み。この部分をおもしろく読ませる方法は、「人なくて」の部分と関連させて読むことである。「人なくて」の「人」は、話し相手などとぼかしたが、実際は恋の対象になりえる女の意味である。僧房だから女がいない。光は女なしではいられない性格であることを、「人なくてつれづれなれば」の一文がはっきりと示しているのである。明石入道の娘の話を聞いてしまった光の頭は、もう女のことでいっぱいなわけである。そのはけ口として、透き見に話が移行してゆくのは、至極自然な流れ、というより、式部の天才が光る部分である。藤壺を頂点として、このどんな場所でも女なしではいられないことが、「わが罪のほど」の意味である。それを具体的に読者に提示しているのが、「かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ」。叙述のお粗末さから、こんな平板になっているのではなく、光の性分を浮き彫りにするための筆の省略なのである。語りの内容だけでなく、語り方によって、光を批判しているわけだ。ここをそう読むためには、もっとわかりやすい形で、同様の批判がなされてなければならず、その部分が「人なくてつれづれなれば」であると、私は読んでみた。
以上、「人なくて」である理由をまとめると、
1、テキストはいじらないのが原則。
2、明石入道の娘に興味をもった光は女性的なものが恋しくなった。「人なくて」の「人」は女性の意味。
「わが罪のほど」との関連は、深読みすぎるかもしれないので、これは理由としない。
なお、末尾「あはれに見たまふ」により、尼君は光にとってつれづれを慰める「人」として認知されたのである。

覗きたまへば 05-027

帰結は、「尼なりけり」である。

ただこの西面にしも仏据ゑたてまつりて行ふ 05-027

一種の挿入であり、英語で言えば、関係代名詞の非制限用法。「勤行している尼であった」のではなく、「それは尼だった」のが発見であり、その時勤行していたのである。この違いは、現代語にはないので、なかなか厄介である。すなわち、古文の「連体形+名詞」と現代文の「連体形+名詞」は用法がことなるのである。古文ではこの形で、制限用法と比3制限用法があるが、現代文では制限用法しかないのである。制限用法と非制限用法を説明すると。
A He has a daughter who is in America.(制限)
B He has a daughter, who is in America.(非制限)
まず制限・非制限は、daughterに対して、制限しているかしていないかということ。さて、Aは、「アメリカに住む」が「娘」を修飾している。彼にはアメリカに住んでいる娘がいる。つまり、アメリカ以外の場所に住んでいる娘がいるかも知れないのだ。「アメリカに住んでいる」という条件が「娘」を制限し、そういう娘は一人しかいないの意味。Bは、彼には娘がひとりだけいて、その娘は、今アメリカに住んでいるの意味である。娘が何人かいればHe has daughtersでなければならないので、a daughterとあるだけで、一人しかいないの意味になる(一人しかの部分で制限用法などと勘違いしないように)。その彼女はアメリカに住んでいる。Aではwhoはdaughterの修飾語になっているが、Bでは、is in Americaの主語になっている点で、ぜんぜん別の用法である。しかし、本当の違いは、叙述の中心がアメリカにいることに主眼があるのか、娘に主眼があるかの違いである。カンマのあるなしは目安でしかない。この英文には前後の文がないので、両者の違いを立てられないが、原文にもどると、透き見をしたら、尼だったというのが文の骨子であるのか、透き見をしたら、修行している尼だったというのが文の骨子なのかということ。後者は修行していない尼を想定した文なので、ここには当てはめ難い。よって、非制限用法としての連体形だと判断するのだ。ちなみに話し言葉では、Aの用法はあまり使われないし、読み方はdaughterとwhoを続けて発音するが、Bの場合は、その間で一呼吸おくのが普通だから、区別はできる、らしい。

いとなやましげに読みゐたる尼君ただ人と見えず 05-029

「尼君」に対しても、非制限用法とみるのがよい。普通でないと見たのは、尼君に対してであって、読経をしている尼君に対してではないから。つまり、読経してなくても、普通でないと光は考えたであろう。その時、たまたま読経していたということが挿入されているのだ。

あてに 05-030

高貴に痩せているの意味ではない、「あてなり」の中止法。「まみのほど」は「あはれに見たまふ」にかかる。1「いと白」2「あてに」3「痩せたれどつらつきふくらかに」4「まみのほど」5「髪の……かな(と)」の五つが並列して、「あはれに見たまふ」にかかる。 「あはれ」は異性としての関心をもって。

大人 05-031

年配の女房。

衣 05-032

単ものの下着。

山吹 05-032

表が薄朽葉色で、裏が黄色である山吹襲。

女子 05-032

いよいよ将来の紫の上の登場。

腹立ち 05-034

けんかをすること。

おぼえたる 05-034

似ている。

例の 05-036

いつものことでまたの意味で、「さいなまるる」にかかる。

さいなまるる 05-036

責められる・叱られる。

心づきなけれ 05-036

好きになれない、困り者だ。なお、こそ……已然形だから、次ぎの文とは逆接の関係。

もこそ 05-036

懸念を表す表現。

めやすき人なめり 05-037

「めり」は判断が断定できない推測であることを表す表現だから、光は女房の後姿(特に髪)だけ見て、顔もいいだろうなと判断したことがわかる。

少納言の乳母とこそ人言ふめるはこの子の後見なるべし 05-038

「AはBなるべし」は一種の固定表現。Aが判断理由で、Bに判断が入る。例えば、「右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし」で、丑の刻だと判断した理由が、右近の司の宿直申しの声が聞こえることなのである。ここも、人々が少納言の乳母と言っているようだから、この子の世話役だろうと光は判断したのである。

ほどよ 05-039

程度の強さへの不満。

罪 05-039

生き物を捕らえることによる仏罰。

こと 05-039

形式名詞の「こと」ではなく、この場合は、行為の意味。

心憂く 05-039

つくづく情けなく思う気持ち。

ついゐ 05-039

「突き居る」で、膝をついて座る。

眉のわたりうちけぶり 05-040

まだ大人の女性のように引き眉にせず、うぶ毛を抜かないので、うぶ毛と眉毛の境目がなく、ぼんやりした様子。

ねびゆかむさま 05-041

成長してゆく過程。

目とまり 05-041

心惹かれること。

さるは 05-042

事実としての結果が先に描写され、その原因をあとから述べるときに使われる接続語。少女がただかわいいというのではなく、藤壺に似ているために、自然と心惹かれたのだと、光が認識する場面。

限りなう心を尽くしきこゆる人 05-042

藤壺をさす。

まもらるる 05-042

つい目がそちらにゆく。

なりけり 05-042

そういう理由だったのかと気づいた驚きをあらわす。光・藤壺・紫の上の関係がここで先ず規定されていることに注意。この枠組みが最後まで維持されるのか、そこに変化があるのか、微妙な変化があっても大枠は変らないのか、源氏物語のひとつの読みどころである。

はかなう 05-043

実質がないこと。しっかりしていないの意味である。

かからぬ 05-043

「かくあらぬ」が縮まった形、こんな風でないという指示語。

故姫君 05-043

少女の母。兵部卿宮の妻。

殿 05-043

少女の祖父。姫君の父。尼君の夫。

見捨て 05-043

少女を残してあの世に先立つこと。

すずろ 05-043

明確な理由はないが、どうしようもなく何かを感じること。

生ひ立たむありか 05-045

将来成長した後に住む場所。要するに夫をさす。ここで注意すべきは、紫の上は、光に正妻扱いされず、いわゆる据えられたために、その後の苦労をしたと論じられてきている。それはそれで正しいのだが、紫の親族はこの尼君しかいないのだから、光でなくても、将来、夫ができたときに、よしんば尼君が生きていても、ここへ通わせるわけにはいかない。すなわち、紫の結婚形態は「据え」という形しか初めからないのである。光の仕打ちが悪いのではなく、これは両親のいない紫の運命なのである。だからこそ、祖母である尼君は心配でならないのだ。「そら」は露が消えて行く先の意味だけでなく、身空の空のように気持ちの意味がある。安心して死ねない気持ちであるの意味。

いかでか露の 05-045

「露」は、諸注のように、はかない意味でしかないとすれば、尼君の歌を立場をかえて読み替えただけで、なんの新味もない歌になる。式部は、物語作家としてはそういう場繋ぎ的な埋めぐさことを許さなかったと思う。ここは、露の恵み、甘露の意味として、初草を世話してゆく立場にあるお方であるのに、どうして生育しないうちに消えようとするのかという反語である。「露」を、はかない命の意味から、草花への恵みの意味に取り替えたことがこの歌の命。第一、主人である尼君の寿命を、露の命とはたとえられないであろう。なお、「若草」「初草」ともに処女の含意がある。草は具体的には陰毛である。女親からすれば生理的な用語として自然な比ゆであるのだろうが、聞く側の光からすれば、かなりエロティックな歌として耳に響いたであろう。この場面の劇的効果は、覗き見している相手が、紫の「生い立たむありか」であり「生ゆく末」である光である点。尼たちはそれを知らずに、紫の将来を心配するところに、劇的効果(ドラマティック・アイロニー)が生じるのである。さらに、それを効果的たらしむ道具としての和歌が、片や女親として自然な言葉遣いである生理的言葉遣いが、もれ聞く男には、非常にエロティックにひびくという役割を果たし、光に紫への思いをつのらせる一役を買っているのだ。ともすれば、めそめそした場面としか読まれていないが、このドラマを組み立てている物語構造は、気分でつくれるような代物ではない。こうしたドラマティック・アイロニーという技法が意識的に使用されるようになるのは、西洋では十九世紀末になってからである。やはり、天才の仕業であると言えると思うが、もうすこし考察をすすめると、この構造をつくる一番の道具立ては、「透き見」である。これが物語りを内と外に分け、読者はその両方を一度に見て、そのギャップを味わえるわけだ。「透き見」は、むろん、式部の専売ではない。平安貴族のもっともポピュラーな恋愛形式である。してみると、式部の天才は、いかにそれを効果的に文学に取り入れたかという点を論じる必要が出てくる。ドラマティック・アイロニーを使ったからえらいのではないのだ。ところで、西洋ではなぜこうした技法が生まれなかったのか、わたしのまったくの空想で論拠はないが、これは物語の視点という問題と絡み合う気がする。西洋の物語は、神の視点(全一者の視点とも)であるか、一人称で書くかが自然であった。前者は、すべてが同時に見通してしまう位置に作者が立つため、「透き見」のような内と外という二重構造は作れないし、あるとすれば、人の心の内と外という構造である。これは心理小説に向う方向である。後者では、自分の見た者しか書けないので、さらに内と外の構造は作れない。これは告白文学に向う。こうした背景の差があるのではないかと思う。
なお、ドラマティック・アイロニーは、何度も繰り返してきた、源氏物語の基本構造である、「言葉」が「事柄」を生むという予言構造の一種である。予言構造では、予言と発現の間に時間的ギャップがあるが、ドラマティック・アイロニーでは時間差はなく、同時刻による内と外という空間差として現れるのである。まあ、縦と横の違いみたいなもの。

2020-10-18

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