05若紫18

2020-05-24

若紫 原文 05-285/05-315

285御手水 御粥など こなたに参る 286日高う寝起きたまひて 人なくて 悪しかめるを さるべき人びと 夕づけてこそは迎へさせたまはめとのたまひて 対に童女召しにつかはす 287小さき限り ことさらに参れ とありければ いとをかしげにて 四人参りたり 288君は御衣にまとはれて臥したまへるを せめて起こして かう 心憂くなおはせそ すずろなる人は かうはありなむや 女は心柔らかなるなむよきなど 今より教へきこえたまふ 289御容貌は さし離れて見しよりも 清らにて なつかしううち語らひつつ をかしき絵 遊びものども取りに遣はして 見せたてまつり 御心につくことどもをしたまふ 290やうやう起きゐて見たまふに 鈍色のこまやかなるが うち萎えたるどもを着て 何心なくうち笑みなどしてゐたまへるが いとうつくしきに 我もうち笑まれて見たまふ 291東の対に渡りたまへるに 立ち出でて 庭の木立 池の方など覗きたまへば 霜枯れの前栽 絵に描けるやうにおもしろくて 見も知らぬ四位 五位こきまぜに 隙なう出で入りつつ げに をかしき所かなと思す 292御屏風どもなど いとをかしき絵を見つつ 慰めておはするもはかなしや 293君は 二 三日 内裏へも参りたまはで この人をなつけ語らひきこえたまふ 294やがて本にと思すにや 手習 絵などさまざまに書きつつ 見せたてまつりたまふ 295いみじうをかしげに書き集めたまへり 296武蔵野と言へばかこたれぬと 紫の紙に書いたまへる墨つきの いとことなるを取りて見ゐたまへり 297すこし小さくて
  ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを 
とあり 298いで 君も書いたまへとあれば まだ ようは書かずとて 見上げたまへるが 何心なくうつくしげなれば うちほほ笑みて よからねど むげに書かぬこそ悪ろけれ 教へきこえむかしとのたまへば うちそばみて書いたまふ手つき 筆とりたまへるさまの幼げなるも らうたうのみおぼゆれば 心ながらあやしと思す 299書きそこなひつ と恥ぢて隠したまふを せめて見たまへば 
  かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ
と いと若けれど 生ひ先見えて ふくよかに書いたまへり 300故尼君のにぞ似たりける 301今めかしき手本習はば いとよう書いたまひてむ と見たまふ 302雛など わざと屋ども作り続けて もろともに遊びつつ こよなきもの思ひの紛らはしなり 303かのとまりにし人びと 宮渡りたまひて 尋ねきこえたまひけるに 聞こえやる方なくてぞ わびあへりける 304しばし 人に知らせじ と君ものたまひ 少納言も思ふことなれば せちに口固めやりたり 305ただ 行方も知らず 少納言が率て隠しきこえたる とのみ聞こえさするに 宮も言ふかひなう思して 故尼君も かしこに渡りたまはむことを いとものしと思したりしことなれば 乳母の いとさし過ぐしたる心ばせのあまり おいらかに渡さむを 便なし などは言はで 心にまかせ 率てはふらかしつるなめり と 泣く泣く帰りたまひぬ 306もし 聞き出でたてまつらば 告げよ とのたまふも わづらはしく 僧都の御もとにも 尋ねきこえたまへど あとはかなくて あたらしかりし御容貌など 恋しく悲しと思す 307北の方も 母君を憎しと思ひきこえたまひける心も失せて わが心にまかせつべう思しけるに違ひぬるは 口惜しう思しけり 308やうやう人参り集りぬ 309御遊びがたきの童女 児ども いとめづらかに今めかしき御ありさまどもなれば 思ふことなくて遊びあへり 310君は 男君のおはせずなどして さうざうしき夕暮などばかりぞ 尼君を恋ひきこえたまひて うち泣きなどしたまへど 宮をばことに思ひ出できこえたまはず 311もとより見ならひきこえたまはでならひたまへれば 今はただこの後の親を いみじう睦びまつはしきこえたまふ 312ものよりおはすれば まづ出でむかひて あはれにうち語らひ 御懐に入りゐて いささか疎く恥づかしとも思ひたらず 313さるかたに いみじうらうたきわざなりけり 314さかしら心あり 何くれとむつかしき筋になりぬれば わが心地もすこし違ふふしも出で来やと 心おかれ 人も恨みがちに 思ひのほかのこと おのづから出で来るを いとをかしきもてあそびなり 315女などはた かばかりになれば 心やすくうちふるまひ 隔てなきさまに臥し起きなどは えしもすまじきを これは いとさまかはりたるかしづきぐさなりと 思ほいためり

若紫 原文かな 05-285/05-315

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

みてうづ おほむ-かゆなど こなたにまゐる ひたかうねおきたまひて ひとなくて あしかめるを さるべきひとびと ゆふづけてこそはむかへさせたまはめ とのたまひて たいにわらはべめしにつかはす ちひさきかぎり ことさらにまゐれ とありければ いとをかしげにて よたりまゐりたり きみはおほむ-ぞにまとはれてふしたまへるを せめておこして かう こころうくなおはせそ すずろなるひとは かうはありなむや をむなはこころやはらかなるなむよき など いまよりをしへきこエたまふ おほむ-かたちは さし-はなれてみしよりも きよらにて なつかしううち-かたらひつつ をかしきゑ あそびもの-どもとりにつかはして みせたてまつり みこころにつくこと-どもをしたまふ やうやうおきゐてみたまふに にびいろのこまやかなるが うち-なエたる-どもをきて なにごころなくうち-ゑみなどしてゐたまへるが いとうつくしきに われもうち-ゑまれてみたまふ ひむがしのたいにわたりたまへるに たちいでて にはのこだち いけのかたなどのぞきたまへば しもがれのせんさい ゑにかけるやうにおもしろくて みもしらぬ しゐ ごゐこき-まぜに ひまなういでいりつつ げに をかしきところかな とおぼす みびやうぶ-どもなど いとをかしきゑをみつつ なぐさめておはするもはかなしや きみは に さむにち うちへもまゐりたまはで このひとをなつけかたらひきこエたまふ やがてほんにとおぼすにや てならひ ゑなどさまざまにかきつつ みせたてまつりたまふ いみじうをかしげにかきあつめたまへり むさしのといへばかこたれぬと むらさきのかみにかいたまへるすみつきの いとことなるをとりてみゐたまへり すこしちひさくて
ねはみねどあはれとぞおもふむさしののつゆわけわぶるくさのゆかりを
とあり いで きみもかいたまへ とあれば まだ ようはかかず とて みあげたまへるが なにごころなくうつくしげなれば うち-ほほゑみて よからねど むげにかかぬこそわろけれ をしへきこエむかし とのたまへば うち-そばみてかいたまふてつき ふでとりたまへるさまのをさなげなるも らうたうのみおぼゆれば こころ-ながらあやしとおぼす かきそこなひつ とはぢてかくしたまふを せめてみたまへば
かこつべきゆゑをしらねばおぼつかないかなるくさのゆかりなるらむ
と いとわかけれど おひさきみエて ふくよかにかいたまへり こ-あまぎみのにぞにたりける いまめかしきてほんならはば いとようかいたまひてむ とみたまふ ひひななど わざとや-どもつくりつづけて もろともにあそびつつ こよなきもの-おもひのまぎらはしなり かのとまりにしひとびと みやわたりたまひて たづねきこエたまひけるに きこエやるかたなくてぞ わびあへりける しばし ひとにしらせじ ときみものたまひ せうなごんもおもふことなれば せちにくちかためやりたり ただ ゆくへもしらず せうなごんがゐてかくしきこエたる とのみきこエさするに みやもいふかひなうおぼして こ-あまぎみも かしこにわたりたまはむことを いとものしとおぼしたりしことなれば めのとの いとさし-すぐしたるこころばせのあまり おイらかにわたさむを びんなし などはいはで こころにまかせ ゐてはふらかしつるなめり となくあんくかへりたまひぬ もし ききいでたてまつらば つげよ とのたまふも わづらはしく そうづのおほむ-もとにも たづねきこエたまへど あとはかなくて あたらしかりしおほむ-かたちなど こひしくかなしとおぼす きたのかたも ははぎみをにくしとおもひきこエたまひけるこころもうせて わがこころにまかせつべうおぼしけるにたがひぬるは くちをしうおぼしけり やうやうひとまゐりあつまりぬ おほむ-あそびがたきのわらはべ ちご-ども いとめづらかにいまめかしきおほむ-ありさま-どもなれば おもふことなくてあそびあへり きみは をとこぎみのおはせずなどして さうざうしきゆふぐれなどばかりぞ あまぎみをこひきこエたまひて うち-なきなどしたまへど みやをばことにおもひいできこエたまはず もとよりみならひきこエたまはでならひたまへれば いまはただこののちのおやを いみじうむつびまつはしきこエたまふ ものよりおはすれば まづいでむかひて あはれにうち-かたらひ おほむ-ふところにいりゐて いささかうとくはづかしともおもひたらず さるかたに いみじうらうたきわざなりけり さかしらごころあり なにくれとむつかしきすぢになりぬれば わがここちもすこしたがふふしもいでくやと こころおかれ ひともうらみがちに おもひのほかのこと おのづからいでくるを いとをかしきもて-あそびなり むすめなどはた かばかりになれば こころやすくうち-ふるまひ へだてなきさまにふしおきなどは えしもすまじきを これは いとさまかはりたるかしづきぐさなりと おもほいためり

若紫 現代語訳 05-285/05-315

お手水やお粥などをこちらの対に用意する。日が高くなるまで寝ておられてお起きになり、
「人がいなくて困ろうから、前々からの適当な女房たちを、夕方になってお迎えなさるがよかろう」とおっしゃって、東の対へは女童を呼びにやる。
「小さい者だけ、特に仕立てて参れ」との仰せであったため、特別きれいななりをして四人の女童が参上して来た。女君は召し物にまとわれて横になっていらっしゃるが、無理に起こして、「そんなうらめしそうになさるものではありません。特別な思いのない人がこんなにいたしましょうか。女は、心やわらかなのが一番」などと今から教え申し上げになられる。
お顔立ちは、さし離れて見た時よりも、なんとも清らかであり、心を開くようにやさしく語りかけながら、おもしろい絵や遊び道具などを取りにやってお見せ申したり、お気に召すことなどをなさる。女君はようやく起き直ってご覧になるが、喪を示す鈍色の濃い服がすこし着古したものなどを着て、何の屈託なくつい笑ったりしていらっしゃる姿がとてもかわいらしくて、君自身もつい顔をほころばせながらご覧になっている。
君が東の対に行かれた間に、御座から廂の間に出て、庭の木立や池の方面を御簾の間から覗いてごらんになると、霜枯れした植込みが絵に描いたように美しくて、見たこともない四位や五位の男たちが入り交じり、途切れることなく出たり入ったりする様子は、なるほどすばらしいところだなとお思いになる。いくつもの屏風など、とてもすてきな絵を眺めながら、陰気な気持ちを和ませていらっしゃるのも、あっけないものだ。
君は二三日内裏へも参上なさらないで、この人の気持ちをひきつけ、あれこれ語りかけ申し上げになる。そのまま手本にでもとのお考えなのか、手習いや絵などいろいろな手法で書きながらお見せ申し上げになる。とても興味深いそうに書き溜められた。
「武蔵野といへばかこたれぬ(理由はわからないが、武蔵野といえばつい連想が働く)」と紫の紙にお書きになった、墨の乗り具合がとても鮮やかなのを女君は手にとってご覧になっている。すこし小さな字で、
ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを
(共寝もせずまだその正体である根を見ないが
愛しく思う
武蔵野の
露をわけて逢いに行きがたい紫草の
そのゆかりであるあなたのことを)
と添えてある。
「さあ、あなたもお書きなさい」と仰せがあると、
「まだうまく書けない」と見上げておられるお顔が、何ともかわいらしいので、つい微笑んで、
「うまくなくても、むげに書かないのはよくない。教え申し上げよう」とおっしゃるので、横目で手本を見ながらお書きになる墨の跡や筆を運ばれる様子の拙い感じも、愛しくばかり思われるので、自分の気持ちながら不思議だとお思いになる。
「書き損なった」と恥ずかしく思いお隠しになるのを、強いてご覧になると、
かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん
(連想が働いてしまう
理由を知らないので
気になります
わたしはどういう草の
ゆかりなのでしょう)
ととても幼いけれど、上達したあかつきの様が知られように、ふっくらとした字でお書きになった。亡き尼君の手に似ていた。今風の手本を習うならば、とても上手にきっとお書きになるだとうとご覧になる。ひな遊びなどでも、わざと家などをたくさん作って、ふたりで遊びながら、これ以上ない物思いの紛らわしとなる。
あの故按察大納言邸にとどまった人々は、父宮がお越しになって女君のことをお尋ね申されたところ、ご返答申し上げようがなくて困り果てたことであった。「当分、人に知らせるつもりはない」と君がおっしゃって、少納言にしても同じ思いでいる件なので、重々口固めするよう伝えおいてあり、ただ、「行くへも知れぬところへ、少納言が連れ去りお隠し申し上げてしまった」とだけお答え申し上げると、父宮も言っても始まらないようにお思いになり、亡き尼君もむこうへお移りになるのを、どうにもいとわしいとお感じになった件なので、少納言の乳母がとても出過ぎた気性のあまり、あっさり手渡すのは不都合だなどとは言わないで、思いにまかせて連れ出してはおっぽり出したのであろうと、泣く泣くお帰りになった。
「もし聞き出し申し上げることがあれば知らせよ」とご命じになるのも厄介なことであり、尼君の兄にあたる北山の僧都の御もとにもお尋ね申されるが手がかりはつかめず、残念なことになったお顔立ちなど、恋しく悲しいとお感じになる。父宮のご正妻も、娘君の母君をにくいと思い申し上げてきた気持ちも消えて、こちらの思い通りにできると思っておられたのに、かなわなくなったのは、残念であるとお思いになった。
ようやく女房たちが参内しこちらの対も人が集まった。御遊び仲間の女童や幼い子供たちは、お二人がありえないほど今風のお人柄なので、屈託なく遊びあった。女君は、君がいらっしゃらないなどで、さみしい夕暮れ時などだけは、尼君を恋い慕い申し上げになさって、つい泣いたりなさるが、父宮のことは特に思い出し申し上げにならない。もとよりにめったにお顔を拝見いたされることもなくお育ちになったので、今ではただこの第二の親をひどく親しみお離し申し上げずにいらっしゃる。出先よりおかえりになると、まず出迎えて、心をこめて話かけ、御ふところの中に入ってすわり、いささかなりともも気持ちが離れたり気後れを感じたりなさらない。そうした面では、たいそうかわいらしい接し方であった。
女が変に知恵があって、何かとややこしい関係になってしまうと、こちらの気持ちとしても、すこし違う点も相手の側に出て来るのではと遠慮がおかれ、女の方もうらみがちになり、当初は予想もしなかった事態が自然と出て来るものだが、そういうことがない点、こちらはとても興味の尽きない遊び相手である。自分の娘などでも、またこのくらいの年齢になると、気安く振る舞い、うち解けて寝起きをともにするなどは、とてもできない相談であるが、こちらは誠に風変わりな愛情の対象であると、お考えになったようである。

若紫 注釈 05-285/05-315

こなたに参る 05-285

こちらに持ってくるの意味。ここですませたとの意味ではない。それでは、次の「日高う寝起きたまひて」と時間が後戻りすることになる。古典は時間感覚がいいかげんで、時間を追って語られないという常識があるようだが、その多くは誤読に基づくと思う。そうでない場合は、作者が故意に時間をさかのぼらせているのだから、その意図をくみ取る必要があろう。

日高う寝起きたまひて05-286

日が高くなるまで寝ていて起きたこと。それまで寝ていたのである。手水を使ったり、朝がゆをすませたのではない。

人なくて 05-286

「人」は、紫の側仕えをする女房。

さるべき人びと 05-286

紫の世話をするのに適当な女房たち。「迎へ」とあるので、これは故按察大納言邸から呼び寄せるのである。「夕づけてこそ」とあるのは、紫をここにかくまっていることが、漏れるのを恐れてのことであろう。

小さき限りことさらに参れとありければいとをかしげにて四人参りたり 05-287

「小さいかぎりことさらに参れ」を、諸注は、小さい者だけ特別に参れ、と訳すが、この特別にはどういう意味なのだろう。特別に小さい者だけを許すから、こっちに来いという意味だろうか。原文には、そういう仰せがあったので、「いとをかしげにて四人参りたり」と続いている。命令と命令の結果がはっきり示されているのだから、ここに注意すれば、「ことさらに」という命令は、「いとをかしげにて」という形で実行されていることがわかる。ここの「ことさらに」は「ことさらにして」の意味であり、特に着飾って参上しろという命令であったことがわかるのだ。「ことさらに」を辞書通り、特別にと訳すことは容易である。しかし、それは具体的にどんな意味であるのかをその場面で考えてみることをしなければ、自動翻訳機で訳を作っているのと変わらないことになる。注意したい。

かう心憂くなおはせそ 05-288

紫が臥せっていることに対して見ている光が、そんな心憂く感じられるようにしていなでほしいと、諸注によればそのように解釈するのだそうである。「心憂し」を、紫の気持ちでなく、見ている光の気持ちと解釈しないといけないのか、その理由はわたしにはてんでわからない。強いて予想すれば、通常、相手の気持ち(この場合は紫)を推し量るのであれば、現代語でも、「うっとおしくするな」より、「うっとおしそうにするな」という感じで、推量表現が入るものである。ここにはそれがない。従って、「心憂し」は光の気持ちである。そんなところだろうか。しかし、推量表現があるかないかは、主体を決める絶対的根拠ではないし、この場合「かう」という程度表現が推量表現に準じると考えることが可能だと思う。結局は文脈にどちらが沿うかである。それを見るには、会話文全体が理解されていないとわからないので、まずその分の注釈を終わらせる。

すずろなる人 05-288

関係のない人、つまり、自分のように面倒を見ようとも思っていない人の意味。「すずろ」は、特別の理由根拠がないの意味。紫に対してこれまで接してきたようなやり方が特別であり、そうでない人である。さらに具体的には、自分の欲望だけを考えて、強姦したであろう人である。光は、紫の夫的立場でもあり親的立場にもなっているのである。

かうはありなむや 05-288

こんな風にやさしく接するであろうかの意味。

心柔らかなる 05-288

何かに偏したりこだわったりすることなく、柔軟に対応できること。さて、改めて考えよう。最初の文と次の文の関係は、最初が主で後が従である。前の文「うっとおしくするな(うっとおしいと思われるような態度をするな)」という前の文に対して、「わたしでなければもっと強引にするのだから」との理由を示しているのがあとの文だからである。では、第二文は第三文とは直接関係がない。そうなると、第一文と第三文の関係はどうかである。「女は心やはらかなるがよき」が言いたいことであり、それから外れるから「かう心憂くなおはせそ」と光が言っているのであることは明らかであろう。とすれば、光自身がうっとうしいから、よせと言っているのか、紫はそんな風にしているのは、「心やはらか」でないからだめなのかという問題に行き着く。いつまでも臥している紫をみて、そんな嫌そうするなと取るのが自然だと思うがどうであろう、だからこそ、自分でなければもっと嫌なめに合ったという文が補足の意味をもち、嫌そうにしていないで、女は心が柔軟なのが一番だと自然に続いてゆくのである。「ただひたぶるに児(こ)めきてやはらかならむ人をとかくひきつくろひては、などか見ざらむ、心もとなくとも直しどころある心地すべし(ひたすら子供っぽくて従順な人を何とか至らぬところを補いながら世話するのがよかろう、気がかりでも直し甲斐がある感じがするだろう)」と雨夜の品定めにあった。

清ら 05-289

最高の美質。

なつかしう 05-289

相手がこちらに気持ちがむくように。「御心つく」も同義。

鈍色 05-290

喪服の色。

こまやかなる 05-290

色が濃いこと。

何心なく 05-290

屈託なく。大人の女性なら、他人の目を意識して行動するものだが、そうした用心なしにということ。

東の対に渡りたまへる 05-291

主体は光。光がいない間に紫は、二条院の様子を窺う。「に」は理由と考えてもよいが、時の表現ととった。

立ち出でて 05-291

どこからどこにと明記はされていないが、その前にいた場所は、御座であり、出た先は、あとに「のぞきたまへば」と、御簾か格子の隙から覗いたのだから、廂の間に出たと考えられる。

四位五位 05-291

位で、四位は黒、五位は緋色の服を着る。

げにをかしき所かな 05-291

「げに」は以前得た情報通りということ。以前光は、「いざたまへよ、をかしき絵など多く、雛遊びなどするところに」と二条院へ誘ったことがある。その言葉通りに「をかしき」ところなのである。

慰めておはするもはかなしや 05-292

この「はかなし」はとても意味がとりにくい。「はかなし」の原義は、努力しても結果が得られないこと。この場合の努力は「慰め」であり、気持ちを慰めようとしても甲斐がなかったと解釈できる。しかし、読んだ印象として、そうは読めない。「はかなしや」は話者の評、すなわち、草紙地である。登場人物は慰めようとしているのは、過去の事実である。それが甲斐がなかったと、話者が言うには、理由が要る。しかし、理由が述べられていないのだ。「はかなし」の別の語義を調べる必要がある。その前に、物語の大きな流れを確認しておくと(語義を決定するには、なるべく大きな文脈の中で考えないと、木を見て森を見ずに終わってしまう、つまり、そこだけでは当てはまるが、全体の流れを無視した訳語をつくることになりかねない)、紫はこれ以前は「心憂し」という状態であった。これ以降は、光に対して馴染んでゆくことになる。ちょうど、光ないしは二条院に対する評価がマイナスからプラスに転じる場面である。そこで、この文脈にあう「はかなし」だが、長続きしないという語義はどうだろうか。慰めの状態が長続きしないと考えると前の意味と同じになってしまう。よく読めば、「はかなし」が受けるのは、「慰め」でなく、「慰めておはする」ことである。つまり、慰められている状態を、作者は「はかなし」と評しているのだ。「心憂し」から「慰められている状態」となりプラス評価に移ってゆく流れの中で、長続きしなかったのは、「心憂し」である。狐につままれたような解釈かもしれないので、視線を転じる。紫の心塞ぎの原因は、そもそも尼君の死であり、見知らぬ場所に連れてこられたことである。それが、ちょっと面白い絵ですぐに、気分がなだめられてしまう、なんともはやあっけないことではないかという作者の皮肉、批判であるとわたしは見る。

やがて本にと思すにや 05-294

紫の気をひきつける(「なつけ」)ために書いた書や絵を、そのまま紫の手本として使う意志もあったのだろうの意味。

さまざまに 05-294

量の多さではなく、変化の度合いを示す。いろいろな書き方で。

書きつつ見せたてまつり 05-294

書いては見せ、書いては見せとも取れるが、それだと書いている間は見せていいないように受け取れる。ここは、書きながら筆の運び方なども見習わせながら、書き上がったものも鑑賞させるの意味であろう。

書き集め 05-295

書きためること。

武蔵野と言へばかこたれぬ 05-296

A「知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ」(古今六帖)の一部であり、これには本歌B「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(古今集・読人しらず)があり、これはさらに、C「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず」(伊勢物語・初段)の連想が働いている。光の引歌を知るには、Cから理解する必要がある。Cの意味は、春日野の若紫のようなあなた方の姿に、私の心はこの狩衣の模様のように千々に乱れています。「若紫」は歌語で、紫草、若草、若菜、紫などと表現される(若竹となることもある)。Bの意味は、若紫のために千々に乱れたというその紫の草が一本あるせいで、武蔵野に生えるすべての草が好ましく思われる。この歌が人口に膾炙したおかげで、紫は悲恋を示す歌語から、ゆかりを示す歌語(紫一本のために武蔵野の草すべてが好きだとの歌だから。「みながら」は全て)となった。Aの意味、なぜとは分からぬものの、武蔵野というとついため息が出てしまう、そうだそうなるのは、ゆかりの草である紫草が咲いているから、あの人のことが忍ばれるからだ。「紫」は、「ゆかり」すなわち、恋しい人の代理の意味に転じている。ここで、「紫」は藤の色から藤壺を示し、武蔵野、ないしは武蔵野の草はこの女君(のちの紫の上)を当てていると注釈は考える。それはいい。しかし、光が紫に書いて与えた「武蔵野といへばかこたれぬ」と、古今六帖の歌の意味とは別に考えるべきではないか。もしもとの歌の意味を藤壺、女君に当てはめるなら、あなたを見るとつい不平を言いたくなる、それは逢うに逢えない藤壺の姪だからとなる。しかし、そんなつもりで光は紫にこの歌を手本と与えるだろうか。この段の一番最後に「もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひの紛らはしなり」とある。紫は藤壺のゆかりの人である一方で、ゆかりゆえにその代償として光を癒してくれる人である。「かこつ」をこの歌本来の意味である、不平を言うでは、光は癒されることがないことになる。よって、光はこの歌を引いたが、もとの歌の意味まで持ってこず、「かこつ」の本来の意味、「連想する」を当てたものと解釈する。すなわち、悪い意味ではなく、よい意味で光はこの歌を引いたのだ。なんだか取って付けたような解釈と思えるかもしれないが、引用文を解釈する時の原則がここにはある。引用された元の意味を考え、それをそのまま当てはめるのではなく、引用されたあとの文脈の中でもう一度その意味を考え直すという二段階の作業が必要なのである。諸注は第一段階のみで、第二段階を経なかったのである。これは致命的な間違いである。ただし、第二段階を経てなお、もとの意味である場合だってある。しかし、まるまる同じ意味であるケースは極めて稀である。別の文脈で成り立つものを持ってくるから引用の意味があるのであって、同じ意味であれば、その引用は効果がなかったのだ。なお、原文に忠実に読めば、光は古歌の全体を引用せず、カギの中のみを墨書したととるのがよい。

ねは見ねど 05-297

「根」を見ていないと、「寝」たことがないの意味をかける。「根」とあるのは、以前、光が尼君に対して紫を引き取りたいと思って詠んだ歌「手に摘みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草」が響いている。

露分けわぶる草 05-297

露をわけてそこへ行くことができかねる草の意味で、この草は藤壺を指す。その「ゆかり」はもちろん、この女君。

うちそばみて 05-298

単に横をちらっと見たのではない。だいたい、そういう訳を与えた段階で、物語においてその動作が何の意味があるのか、注釈者は考えないのだろうか。すべてのテキストには意味(テキストの他の部分との関連)があるのである。これは「やがて本にと思すにや」の具体的場面で、紫が光の書を見て、なるべく似させようとして書いたのである。

心ながら 05-298

自分の心でありながら。

かこつべき 05-2990

光の引用の場合と同じ「連想する」。「べき」は当然。

故尼君の 05-300

手紙のやりとりで、尼君の筆跡は馴染んでいる。

こよなきもの思ひ 05-302

藤壺に逢えない不満。0293

せちに口固めやりたり 05-304

「切に」は「やりたり」にかかる。「口かため」は「口かためとの伝言を」くらいの意味。「口かため」の実際の内容が、「行く方も知らず、少納言が率て隠しきこえたる」である。したがって、「口かためやりたり」の「たり」は終止とせず、連用中止で下につづいてゆくと考える。そこで終止にすると、「口かためやりたり」(口かためをした)と「聞こえさする」(申し上げる)が伝言動詞(英語のsayに当たる動詞)が重複することになる。中止法と考えれば、口かためをして……と申し上げるとひとまとまりの表現と考えることができる。

ものし 05-305

「もの」は魔物、つまり、目には見えないが、物のようにはっきりとそこにあることがわかる存在で、「もの」という言葉以外では表現することのできない存在。そこから派生した形容詞が「ものし」である。そこにどんと何かがあって、抵抗を強く感じること。この場合、積極的に行きたくないのではないが、引き移ることに大きな抵抗を感じること。「ものしと思したりしことなれば」は「心にまかせて率てはふらかしつるなめり」にかかる。

乳母の 05-305

少納言が。「の」は主格。

おいらかに 05-305

抵抗なく、あっさりと。「渡さむ」にかける。「言はで」にかける説もあるが、抵抗なく言うは理解できるが、抵抗なく言わないはひっかかる。

はふらかし 05-305

ほったらかす、すなわち、見捨てること。この当時、十歳やそこらで、娘が捨てられたら、まず生きてはいけない。父宮は、無意識的には、最悪の事態を想起して、娘への思いを絶とうとしているようだ。

わづらはしく 05-306

言われる女房たちが。

僧都 05-306

尼君の兄である北山の僧都。

あとはかなく 05-306

跡形なく。

あたらしかりし 05-306

失ってもったいない。容貌がきれいだということは、縁組みとして好条件である。つまり、権力のある家柄の男性と縁組みできる可能性がある。父親として子を失った残念さとともに、それが美貌の娘であったことがさらに残念さをふかめる。それを失ったから「あたらし」(もったいない)なのである。

母君 05-307

尼君の娘で、兵部卿宮との間に紫を生んだ母。

わが心にまかせつべう 05-307

思い通りにできる。よい縁組みをして家を発展できる可能性があったのにそれを失った。兵部卿宮よりもさらに紫を利用する意志がはっきりと述べられている。

いとめづらかに今めかしき御ありさまども 05-309

なかなか理解しにくいところ。音便形は例により、連用修飾と考え「いまめかしき」にかける。「いまめかしき御ありさま」とは、今風で堅苦しくない、フラットな性格を指す。だから、女童や子供たちが、大人の光を前にしても無心で遊べるのである。「御ありさまども」は複数形で敬語があることから、光と紫のこと。この場合は、性格の意味だが、見た目にそうした性格に見えるということであろう。

宮 05-310

父宮。

見ならひきこえたまはで 05-311

文字通り、親の顔を見慣れることがなかったこと。一緒に住んでいなかったからである。

後の親 05-311

光。

ものより 05-312

外出先。何かしっかりした用事があって外出したことが「もの」という表現で表されているのだと思う。

御懐に入りゐて 05-312

光が紫と一夜を明かすことになるその直前にも「この膝の上に大殿籠れよ」との光の言葉を受け、「何心もなくゐたまへる」とあった(もっとも、紫のいる場所を膝としない説もある)。

疎く 05-312

心の距離がある状態。

さるかたに 05-313

そういう方面ではの意味。これは、性交渉をふくむ大人の女性としてのふるまいと対比する意図がある。

さかしら心 05-314

「女は心やはらかなるなむよき」と光が紫に教えたことの反意的な語。浅知恵。男との関係をうまく取り繕うという浅い考え。ただし、これは大人の女性であれば誰もが持ち合わせているものであり、ここでは紫の美質をほめるために持ち出されているのである。

あり 05-314

終止形でなく連用形。連用中止として意味をここで切るか、「ぬれば」にかかる連用修飾と考えるかは微妙である。すなわち、女がずるい場合と、やっかいな関係になった場合を別にとるか、女がずるくてやっかいか関係になった場合とひとつにとるかであるが、すなおに考えて後者がいいのでは。すなわち、「さかしら心」のために「むつかしき筋」になったと読むのである。

むつかしき筋 05-314

性交渉をすませたことのみを示すと考えるより、そうした過程を経て、さらに恋愛関係がもつれ素直な関係でなくなったことをいうのであろう。ようするに、女が変に賢くて、恋愛関係がもつれてしまった場合は、こちらの気持ちも、相手がむかしと違う面があるのではと気持ちが引くし、そうなると相手は恨みごとばかり言うようになるということ。

思ひのほかのこと 05-314

別に別れることに限らない。夢中で恋愛していた時には夢にも思わなかった現実のいろいろないやなこと。

2020-05-24

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