05若紫13

2020-05-24

若紫 原文 05-201/05-216

201十月に朱雀院の行幸あるべし 202舞人など やむごとなき家の子ども 上達部 殿上人どもなども その方につきづきしきは みな選らせたまへれば 親王達 大臣よりはじめて とりどりの才ども習ひたまふ いとまなし 203山里人にも 久しく訪れたまはざりけるを 思し出でて ふりはへ遣はしたりければ 僧都の返り事のみあり 204立ちぬる月の二十日のほどになむ つひに空しく見たまへなして 世間の道理なれど 悲しび思ひたまふる  などあるを見たまふに 世の中のはかなさもあはれに うしろめたげに思へりし人もいかならむ 幼きほどに 恋ひやすらむ 故御息所に後れたてまつりし など はかばかしからねど 思ひ出でて 浅からずとぶらひたまへり 205少納言 ゆゑなからず御返りなど聞こえたり 206忌みなど過ぎて京の殿になど聞きたまへば ほど経て みづから のどかなる夜おはしたり 207いとすごげに荒れたる所の 人少ななるに いかに幼き人恐ろしからむと見ゆ 208例の所に入れたてまつりて 少納言 御ありさまなど うち泣きつつ聞こえ続くるに あいなう 御袖もただならず 209宮に渡したてまつらむとはべるめるを 故姫君の いと情けなく憂きものに思ひきこえたまへりしに いとむげに児ならぬ齢の まだはかばかしう人のおもむけをも見知りたまはず 中空なる御ほどにて あまたものしたまふなる中の あなづらはしき人にてや交じりたまはむ など 過ぎたまひぬるも 世とともに思し嘆きつること しるきこと多くはべるに かくかたじけなきなげの御言の葉は 後の御心もたどりきこえさせず いとうれしう思ひたまへられぬべき折節にはべりながら すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず 御年よりも若びてならひたまへれば いとかたはらいたくはべる と聞こゆ 210何か かう繰り返し聞こえ知らする心のほどを つつみたまふらむ その言ふかひなき御心のありさまの あはれにゆかしうおぼえたまふも 契りことになむ 心ながら思ひ知られける なほ 人伝てならで 聞こえ知らせばや
 211あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは
めざましからむ とのたまへば げにこそ いとかしこけれ とて
  寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる
わりなきこと と聞こゆるさまの馴れたるに すこし罪ゆるされたまふ 212なぞ越えざらむ と うち誦じたまへるを 身にしみて若き人びと思へり 213君は 上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに 御遊びがたきどもの 直衣着たる人のおはする 宮のおはしますなめり と聞こゆれば 起き出でたまひて 少納言よ 直衣着たりつらむは いづら 宮のおはするか とて 寄りおはしたる御声 いとらうたし 214宮にはあらねど また思し放つべうもあらず こちとのたまふを 恥づかしかりし人と さすがに聞きなして 悪しう言ひてけりと思して 乳母にさし寄りて いざかし ねぶたきに とのたまへば 今さらに など忍びたまふらむ この膝の上に大殿籠もれよ 今すこし寄りたまへ とのたまへば 乳母の さればこそ かう世づかぬ御ほどにてなむ とて 押し寄せたてまつりたれば 何心もなくゐたまへるに 手をさし入れて探りたまへれば なよらかなる御衣に 髪はつやつやとかかりて 末のふさやかに探りつけられたる いとうつくしう思ひやらる 215手をとらへたまへれば うたて例ならぬ人の かく近づきたまへるは 恐ろしうて 寝なむ と言ふものを とて 強ひて引き入りたまふにつきてすべり入りて 今は まろぞ思ふべき人 な疎みたまひそ とのたまふ 216乳母 いで あなうたてや ゆゆしうもはべるかな 聞こえさせ知らせたまふとも さらに何のしるしもはべらじものを とて 苦しげに思ひたれば さりとも かかる御ほどをいかがはあらむ なほ ただ世に知らぬ心ざしのほどを見果てたまへ とのたまふ

若紫 原文かな 05-201/05-216

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

かむなづきにすじやくゐんのぎやうがうあるべし まひびとなど やむごとなきいへのこ-ども かむだちめ てんじやうびと-どもなども そのかたにつきづきしきは みなえらせたまへれば みこ-たち だいじんよりはじめて とりどりのざえ-どもならひたまふ いとまなし やまざとびとにも ひさしくおとづれたまはざりけるを おぼしいでて ふりはへつかはしたりければ そうづのかへりごとのみあり たちぬるつきのはつかのほどになむ つひにむなしくみたまへなして せけんのだうりなれど かなしびおもひたまふる などあるをみたまふに よのなかのはかなさもあはれに うしろめたげにおもへりしひともいかならむ をさなきほどに こひやすらむ こ-みやすむどころにおくれたてまつりし など はかばかしからねどおもひいでて あさからずとぶらひたまへり せうなごん ゆゑなからずおほむ-かへりなどきこエたり いみなどすぎてきやうのとのになどききたまへば ほどへて みづから のどかなるよおはしたり いとすごげにあれたるところの ひとずくななるに いかにをさなきひとおそろしからむとみゆ れいのところにいれたてまつりて せうなごん おほむ-ありさまなど うち-なきつつきこエつづくるに あいなう おほむ-そでもただならず みやにわたしたてまつらむとはべるめるを こ-ひめぎみの いとなさけなくうきものにおもひきこエたまへりしに いとむげにちごならぬよはひの まだはかばかしうひとのおもむけをもみしりたまはず なかぞらなるおほむ-ほどにて あまたものしたまふなるなかの あなづらはしきひとにてやまじりたまはむ など すぎたまひぬるも よとともにおぼしなげきつること しるきことおほくはべるに かくかたじけなきなげのおほむ-ことのはは のちのみこころもたどりきこエさせず いとうれしうおもひたまへられぬべきをりふしにはべりながら すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず おほむ-としよりもわかびてならひたまへれば いとかたはらいたくはべる ときこゆ なにか かうくりかへしきこエしらするこころのほどを つつみたまふらむ そのいふかひなきみ-こころのありさまの あはれにゆかしうおぼエたまふも ちぎりことになむ こころながらおもひしられける なほ ひとづてならで きこエしらせばや
あしわかのうらにみるめはかたくともこはたちながらかへるなみかは
めざましからむ とのたまへば げにこそ いとかしこけれ とて
よるなみのこころもしらでわかのうらにたまもなびかむほどぞうきたる
わりなきこと ときこゆるさまのなれたるに すこしつみゆるされたまふ なぞこエざらむと うち-ずじたまへるを みにしみてわかきひとびとおもへり きみは うへをこひきこエたまひてなきふしたまへるに おほむ-あそびがたき-どもの なほしきたるひとのおはする みやのおはしますなめり ときこゆれば おきいでたまひて せうなごんよ なほしきたりつらむは いづら みやのおはするか とて よりおはしたるおほむ-こゑ いとらうたし みやにはあらねど またおぼしはなつべうもあらず こち とのたまふを はづかしかりしひとと さすがにききなして あしういひてけりとおぼして めのとにさし-よりて いざかし ねぶたきに とのたまへば いまさらに などしのびたまふらむ このひざのうへにおほとのごもれよ いますこしよりたまへ とのたまへば めのとの さればこそ かうよづかぬおほむ-ほどにてなむとて おしよせたてまつりたれば なにごころもなくゐたまへるに てをさし-いれてさぐりたまへれば なよらかなるおほむ-ぞに かみはつやつやとかかりて すゑのふさやかにさぐりつけられたる いとうつくしうおもひやらる てをとらへたまへれば うたてれいならぬひとの かくちかづきたまへるは おそろしうて ねなむ といふものを とて しひてひき-いりたまふにつきてすべりいりて いまは まろぞおもふべきひと なうとみたまひそ とのたまふ めのと いで あなうたてや ゆゆしうもはべるかな きこエさせしらせたまふとも さらになにのしるしもはべらじものを とて くるしげにおもひたれば さりとも かかるおほむ-ほどをいかがはあらむ なほ ただよにしらぬこころざしのほどをみはてたまへ とのたまふ

若紫 現代語訳 05-201/05-216

十月には朱雀院へ行幸が予定されている。舞人など、高貴な家の子息たちや、上達人や殿上人たちなどでも、それぞれの方面でふさわしい者は、みなお選びになれらたので、親王たちや大臣をはじめとして、それぞれ多様な技芸を練習されること、忙しい限りである。山里に移った人にも、久しく音信を絶やしておられたことを、思い出しになって、わざわざ使者を遣わされたところ、僧都の返書だけがある。
「先月の二十日頃です、ついに亡くなる見届けまして、世のことわりながら、悲しみあれこれ思われることです」などと返書にあるのをご覧になるにつけ、世の無常を思うにつけても女君を愛しく思い、尼君が将来を心配していた人もどうしているだろう。幼い時期だから、恋い慕ているのではなかろうか。母宮に先立たれ申したことなどを、はっきりとではないが、思い出して、ねんごろにお見舞いなさる。少納言は、自分では女君の将来をどうにも決めかねるとご返事なを申し上げた。
忌みなどが明けて、京の邸に移ったなどとお聞きになると、すこし間をおいて、ご自身で、時間のゆったりある夜、そこへいらっしゃった。ぞっとするような荒れた邸で、人気もない場所に、どんなに幼い人は恐ろし思いでいられようとお感じになる。君をいつもの部屋にお通し申して、少納言は、姫君のご様子などを思わず泣きながら長々と申し上げるので、君もたまらずお袖までいつにないほどお濡らしになる。
「父宮のもとにお渡し申すがよい、というようなことでございますが、母上である亡き姫君が、とても冷たく嫌でならないとお感じ申していらっしゃたご先方なのに、まったくしようのないほど幼いわけではないご年齢で、といってまた、ちゃんと人の気持ちをご理解なさるのではない、中途半端なお年頃で、たくさんいらっしゃるお子さん方の中へ、継子扱いされるとわかっている人が一緒にいられましょうかなどと、お亡くなりになった人も、常々ご案じになっておいでで、事実ご心配通りの事柄が多くございますのに、このようにもったいなくも聞こえのよいお申し出は、後々のお心づもりも確かめもうさず、とてもうれしく存じられて当然の折節でございましょうが、すこしもふさわしい様子さえ身についておられず、お年よりも幼い風がならいとなっておいでなので、とても見ていられない気持ちでございます」と申し上げる。
「どうして、こんなに繰り返し申し上げお伝えしようとする心のほどを、遠慮されるのでしょう。そのようにどうにもしようがないご様子が、いとしく会いたいお方だと思われになるのも、前世からの縁が特別であると、我がことながら思い知ったのです。しようのないお方であろうと、やはり人を介さず申し上げこの気持ちを知らせたいものだ。
「あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは
(恋歌も詠めないほどどうにも幼くしようがないという葦の若芽の生える
和歌の浦に
海松布(みるめ)が生えにくいように男女の仲になるのは難しくとも
わたしは波立ちながら引き返すよう波のように
立ったまま何もせず帰って行くものだろうか)
期待外れもいいところだ」とおっしゃると、「ですから、とても恐ろしくて」と言い、
「寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかんほどぞ浮きたる
(言い寄る波の
心の底も知らないで
言葉巧みな和歌の浦に
玉藻がなびくみたいな
軽はずみな女でしょうか)
無茶と言うもの」と申し上げる歌ぶりの馴れた言い回しに、すこし疚しさが失せたようにお感じになる。「どうして越えがたきを越えて恋さずにおこう」とふと口ずさみになるのを、この君からそんな風に恋されたらと若い女房たちは体全体で感じた。
姫君は尼君を恋しく思い申し上げになり泣きながら臥せておられたが、お遊び仲間の女童たちが、
「直衣を着ている人がお越しです。宮がいらっしゃったのでしょう」と申し上げると、寝所より起き出て来られ、
「少納言や、直衣を着てるというお方はどこ。宮がおいでなの」とて近づいて来られるお声は、とても愛らしい。
「宮ではないけれど、同じように邪険にすべき者でもない。こちへ」とおっしゃるので、あのすてきだと思った人だと、子供心にもさすがに、聞き取りよくない言い方をしたなとお感じになって、乳母にそっと寄ってゆき、「ねえったら、あっちへ、ねむいのに」とおっしゃると、
「いまさらどうしてお隠れになることがありましょう。この膝の上でお休みなさい。さあもうすこし側へお寄りになって」とおっしゃると、乳母が、
「ですから申しましたの、こんなねんねのご様子なんですから」と言って君の方へ押し出して差し上げたところ、どうという恥じらいもなく膝の上に座っていらっしゃるので、夜具の中へ手を差し入れてお探りになると、着馴染んでなよやかな召し物の上に、髪がさらさらとかかって、その先がふさふさして手にとどく、とてもかわいらしとご想像になる。
手を捕らえになると、どうなることか、馴れない人が、こんな馴れ馴れしくなさるのは、恐ろしくて、「もう寝る、と言ってるのに」と、無理に手を振り払い御簾の中に引っ込んでしまわれるのに付いて、君は中へすべて込んで、
「今は、わたしこそ心にかける人です、疎んじたりなさらないで」とおっしゃる。
乳母は、
「まあ、なんてことかしら、そら恐ろしくさえあること。いくら意を伝え、理解させようとなさっても、まったく何の効き目もないでしょうに」と言って苦しそうにするので、
「そうは見えても、こんな年頃の子をどうするものか。心配はわかるが、それでも邪魔せず、ただ世の男女の知らない愛情の深さを見届けなさい」とおっしゃる。

若紫 注釈 05-201/05-216

朱雀院 05-201

三条の南、朱雀大路の西にある上皇の御所。

その方 05-202

舞人などの方面。この段の問題は、なぜ行幸の話をここに挿入したかであろう。前後に直接的理由がないのだから、前後を分離するという間接的理由ということ以上のことは不明である。では、間接的理由とは、尼君の死をぼかすという効果である。明記はされていないが、舞人として当然光も選ばれているのだから、その練習に余念がなかったはずである。そのため尼君の死を知らずに過ごすことになる。もし光が近く尼君が死ぬことを知っていれば、もっと積極的に紫を手に入れる算段をしたであろう。結果として紫は略奪婚となるのだから、略奪という形をとらない結婚形態をとりえたのかも知れない。そうなると、紫の位置というのは決定的に変わってくる。これは逆に言うと、紫は略奪婚という形を離れては論じられないということだ。これが、尼君の死を光に知らせない物語的意味である。ただし、そのためには行幸でなくとも、何か光を縛るものであればよかったのである。なぜ行幸なのか、先にも述べたように、その積極的理由は見つけにくい。しかし、結果として、行幸というもっとも華やかな世界と、尼君の死が対比されることになる。生と死の対比であると同時に、宮中と鄙の対比でもあり、それは光の立つ世界と紫の立つ世界の対比でもある。なお、尼君と紫と光の関係は、藤壺の母と藤壺と帝との関係に類似をみる。それは帝または光の懇願に対して、世話役が反対していながら、その死によって、運命が変わってしまう点である。藤壺の母の場合、物語としてはかなり安易に死を迎えてしまう。それは藤壺はあくまで物語の背後にある存在で、詳述する必要がないからであろう。それに対して紫は物語の表舞台の存在であり、そのため、その世話人である尼君に対しても、よりこまやかな筆遣いがなされているのであろう。ただし、この論には注意が必要で、物語の表舞台は常に、物語の裏舞台から支配を受けているのである。それはちょうど、前世により今生が影響を受けているようなものである。そのような二重構造はこの物語は孕んでいるのである。

山里人 05-203

容態が急変し「山寺にまかり渡る」とあった尼君のこと。光は朱雀院の行幸の件で忙しくしていたのだろう、尼君が死ぬかもしれないと予想していなかった。

ふりはへ 05-203

わざわざの意味だが、そう注するだけでは足りない。手紙を持ってゆくのは使者がするのだから、いつでも手紙を出すときには「ふりはへ遣はし」になってしまう。手紙を出す使者には、槐太手紙を持たせるだけの使い走りと、使者がある程度教養がある場合、それに口上を言わせたり、即席で和歌のやり取りをさせたりする信頼できる使者との違いがある。ここでは、その場で臨機応変な返事のできる信頼できる使者を立て、それに尼君を見舞わせ、なろうことなら、紫の将来の確約を取り付けようとしたことが想像されるのである。それなのに、僧都の返書しかなかったのである。尼君の死を知らない光は、意外の感に打たれ、落胆したろうことが想像される。こうした表面だって描かれていない部分にも心理劇があることを読み込まなければ、源氏物語のおもしろさはわからないと思う。

立ちぬる月 05-204

先月。今は行幸が終わった時点の十月だから、九月のこと。

見たまへなし 05-204

「見なす」に謙譲の「たまふ」が間に入った形。見なすは、見てこうだと判断すること。ここでは、尼君の死に立ち会い、亡くなってしまったんだと、その事態を受け入れたこと。

悲しび思ひたまふる 05-204

「悲しび」は「思ふ」に掛けず、「思ふ」と並列させる。単にかなしく思うならば、「悲しぶ」一語で足るから。

世の中のはかなさもあはれに 05-204

この「あはれに」は以下で紫の身を案じる内容が来ることから、紫をいとしく思う気持ちと取らねばならない。

うしろめたげに思へりし人 05-204

「人」は紫。「思う」の主体は尼君である。それは、「げ」という他人のことに対する推測の語があることと、「し」という過去が使われていること。ここで過去「き」について、これは一般に直接過去とあり、自分が体験した過去について使用すると説明するが、あきらかにこの場と矛盾する。過去の「き」は、現在と切り離すこと。「うしろめたげに」思うことがはっきりと過去に属すること、従って現代ではないことを言う。主語が自分であるか他人であるかとは関係ない。これに対して「けり」は、「き」+「あり」で、過去のことがらが現在に関わっていることをいう。

故御息所 05-204

光の亡き母である桐壺。尼君と紫と光の関係と、桐壺と光と帝の関係に類似があることは前回述べた。ともに保護者の死により、子供の将来が決定するのである。

とぶらひたまへり 05-204

見舞いの使者を立てたのだろう。叙述の少なさからして光自身が行ったとは考えにくい。見舞いの手紙に対する返事が、次の少納言の御返り。

ゆゑなからず 05-205

光のとぶらいの目的は、紫を慰め、その将来について、まわりの女房や僧都と相談することである。僧都は僧籍にあるため、直接交渉する立場にないことは、紫の後見をしたいと最初に願い出たときに「そもそも女は人にもてなされて大人にもなりたまふものなれば、くはしくはえとり申さず」と断りを入れていることから想像される。となれば、女房たちの代表である少納言ということになる。ところで、「ゆゑなし」の「ゆゑ」とは根源的根拠を示す語で、それがないのである。紫の将来を相談しに行きながら、それをする権限が自分にはないというのだ。これは、尼君からそれを託されなかったからであろうと思う。「かしこまりはこの世ならでも聞こえさせむ」とあり、見舞いの礼も言えないような状態であったから、死ぬ間際に紫の将来について尼君と話し合う機会がなかったのであろう。尼君からこうしろと言われていたら、それに従うことができるが、それがないから自分には紫の将来を決める権利はないというのが「ゆゑなからず」である。常識的に考えるならば、父の兵部卿宮に託すことになろうし、尼君の考えもそうであった可能性が高いだろう、他に身内がないのだから。しかし、「ゆゑなからず」というあいまいさが、紫に待っている通常の運命をたどることをはばみ、光の略奪へと話を展開させてゆくのである。この一語は、物語の展開上、とても重い言葉なのだ。

京の殿に 05-206

北山で忌明けを待ち、紫一行が京の邸に移ってきたこと。

のどかなる夜 05-206

夜自体がのどかであることでなく、光が公務などなく時間的に余裕のある時をいう。おそらく次の朝、宮中に出向く必要がなく、宿泊するのに都合がよい時であろう。

いとすごげに荒れたる所 05-207

「いとすごげに」は中止法で「ところ」にかかるとも、連用法で「荒れたる」にかかるとも取れる。前者の解釈として、『注釈』は、「忌」を終えた家に特有の、霊気の漂う寂寞とした様子とするが、忌を明かすのはこの家ではないので、霊気云々は当たらないだろう。ただ、死者を出した家特有のものすごさという解釈は特筆されてよいと思う。気味の悪さに、死のにおいが混じった感じであるのだろう。

例のところ 05-208

以前光が訪ねた時に通された「南の廂」である。

あいなう 05-208

無益にという語り手の判断(いわゆる草紙地)こと。「あいなし」を解釈するときには、この語がどこにかかるかを押さえ、それがなぜ無益なのかを考えるという段取りになる。先ずかかる先は「御袖もただならず」である。お顔のみかそのお袖までもただならずお濡らしになるということ。それがなぜ無益かというと、涙を流す自体は、紫の立場を好転させるために役立たないからである。従って、言葉を補って訳せば、紫を救うことにはならないが、どうしようもなくお袖までも尋常ならずお濡らしになったとなる。
少納言の会話は非常に込み入っているので、単に現代語にかえるだけでなく、それを解きほぐすことが大事である。

宮に渡したてまつらむ 05-209

「渡したてまつらむ」は、おそらく宮すなわち紫の父である兵部卿宮の言葉である。「わたしに渡しなさい」と宮が言ったのを、少納言の立場から言い換えたもの(これを間接話法という)である。

とはべるめる 05-209

…とそのようなことになっていますが、という少納言の源氏に対する説明。

故姫君の……交じりたまはむなど 05-209

「過ぎたまひぬる」尼君が「世とともに思し嘆」いた具体的内容である。話の内容から、少納言が口にするような内容ではないので、尼君が心配していたこと、さらに言えば、尼君の言葉を、少納言の立場から言い換えたものである。

故姫君 05-209

紫の母。

思ひきこえたまへりしに 05-209

「に」は逆説で、「侮らはしき人にてや交じりたまはん」にかかる。

いとむげに児ならぬ齢の 05-209

「またはかばかしう……中空なる御ほど」と同格となる。単純化すると、幼すぎるわけでもないが、しっかりとしてもいない、中途半端な年齢でということ。

御ほどにて 05-209

「にて」は、「侮らはしき人にてや交じりたまはん」にかかる。

あなづらはしき人にてや交じりたまはむ 05-209

この「や」は反語を示す。馬鹿にされるのが目に見えているのに、それでも交際しないといけないだろうか、いやそんなことはないということ。

過ぎたまひぬるも 05-209

「思し嘆きつる」にかかる。

思し嘆きつる 05-209

「しるきこと多くはべる」にかかる。そんな風に亡くなった尼君は常々ご心配だったが、そう判断する根拠がいろいろあるのだということ。

しるきこと多くはべるに 05-209

「に」は順接でなく逆説と取る。そんな嫌な証拠が多いので申し出を受け入れるべき、と続けるのではなく、そんな証拠が多いのに、申し出を受け入れるべきでありながら(受け入れず)と続く。屈折を多用しながら、相手に揺さぶりをかけているのだ。

なげの御言の葉 05-209

言葉だけよく聞こえる申し出のこと。こういう言葉を少納言が使うのは、光の真意を引きだそうとするための方便である。

後の御心もたどりきこえさせず 05-209

将来とも光の気持ちに変わりがないか確かめもせずということ。自嘲的な表現で相手の出方を見ているのだ。

ぬべき折節にはべりながら 05-209

何も考えず承知するのが本当でしょうがとの意味。引くだけ引いて、その実、自分の主人である紫をどれだけ高く売るかが、女房たちの仕事であり生きる道なのだ。「なずらひ」は夫にふさわしい女性。
前半で、少納言が尼君の言葉を長々と引いたのは、立場として、紫の将来を決めることはできないからである。おそらく、こうせよと託される前に尼君が死んだのだろうという推測については、何度か言及した。この会話は実に和文的(くねくねだらだら続くこと)であり、女房的(主人を高く売りつけたいという手練手管にあふれている)である。その意味では、名文(簡潔とはおよそ好対照ながら陰影変化にいかに富んだ文章であるかという点で)であり、女房たる紫式部のもっともよく現れる状況であろう。よくよく味わいたい。

つつみたまふらむ 05-210

直前の少納言の言葉「いとうれしう思ひたまへられぬべきをりふしにはべりながら」そのようにしないという口を濁した部分を受ける。

その言ふかひなき御心のありさま 05-210

やはり直前の少納言の言葉にある紫の説明を受けるが、先に尼君の口にした「いとまだ言ふかひなきほどにて」から来る表現であろう。

おぼえたまふ 05-210

「おぼゆ」は、光にとって紫はそんな風に思われるの意味で、受け身になっている。紫が光に思われるのだから、「おぼゆ」の主体は紫であり、「たまふ」も紫に対する敬語である。「受け身動詞+たまふ」という構文がもう一度出てくるので、ここでしっかり押さえたい。何が主語かは英語で考えるとわかりやすいだろう。Murasaki is 過去分詞(この英単語を知らなくったって主語をみつけることはできるだろう)だから、「たまふ」の主体は紫と考えるのである。

心ながら 05-210

自分の心ながら。

思ひ知られける 05-210

「けり」は詠嘆。

なほ 05-210

それでもやはりとの意味だが、それでものそれが何を受けるかを常に意識することが大切である。直接には「(その)言ふかひなき御ありさま」でもということ。間接的には「その言ふかひなき……」の「その」が受ける少納言の説明、また、これまで紫について言われてきたことすべてである。
歌の解釈というのはまあ、実にさまざまだなあといつもいつも思ってしまう。ぼくなんかの解釈は、源氏学者にはよほど顰蹙ものだろうと思うが、これでも素直に解釈しているつもりである。前置きの最後に、両歌ともにエロティックな歌であることを付け加えておこう。

あし 05-211

葦だけでなく「言ふかひなし」の意味で悪しをうちに含んでいる。

わかの浦 05-211

地名としての「わかの浦」と、歌がまだよめないほど若い、すなわち、恋を知らないほど若いの意味をかける。

みるめ 05-211

万葉集などでよく出てくる海草の海松布(みるめ)と「見る」すなわち、性交渉をかける。海松布はもちろん女性器の比喩であって、これが歌に詠まれる時は性交渉の意味であって、会いたいだの、声が聞きたいだのといった教室訳はお笑い種である。でも、ここは海松布が生えず、葦が生えているんじゃないんですかなんて野暮なことは言ってほしくない。まだ若くて海松布が硬いのである。

立ちながら 05-211

波が立つを響かすと同時に男性自身が……と、ぼくはそう読むがどうであろうか。「波」はむろん波と、「なみす」や「なし」の「な」で、何もしない意味を含む。単に縁語として波が出てきたのではなく、何もしないでおこうかという意味をこめたいがためだ。

めざましからむ 05-211

意想外の出来事に対する腹立ち。こっちはもうその気で来ているのに、ここで返すのかってこと。「立ちながらかへる波かは」である。実にエロティックというか、エロそのものだ。

げにこそ 05-211

それだからこそという強い表現。

かしこけれ 05-211

人為を超えた自然・神などを前にした時の畏怖がもとである。ここでは、紫の身になり、いきり立った男を前にして強姦されるかも知れないという恐怖感を言う。これは処女喪失の場において今も起こりうる感覚であろう。

寄る 05-211

言い寄るという言葉だかの問題でなく実際に体で向かってくるの意味をも持つ。

波 05-211

光。ここでは何もしないの意味はこめられていない。

心 05-211

本心。表面では世話をしたいだなんだというが、要するに肉体が望みではないのということ。

わかの浦に 05-211

和歌になびくを掛ける。

玉藻 05-211

海松布の言い換えでやはり、女性器の比喩、女性の提喩(一部で全体をさす比喩)になる。

なびかむほどぞ浮きたる 05-211

歌でなびくほど浮ついた女ではないの意味。もちろん、紫の立場になって歌っている。紫は浮いた女ではないと詠んだのではなく、わたくし紫はそんな浮ついた女ではないと詠んでいるのだ。そう詠むことで二首は相聞歌になるのである。単にあの子は浮気な子でないという歌なら、「聞こゆるさまの馴れたるに」とはならない。

馴れ 05-211

馴れ馴れしいである。男女間で馴れ馴れしいとは、恋愛感情が仲立ちしているということ。すなわち、相聞歌として詠みあったのである。光の歌いかけに応えたのだ。諸注にあるように手馴れた詠み方というのではない。歌を通して心を許し合うことができたというのが「馴れたるに」である。この「に」は理由を表す。

すこし罪ゆるされたまふ 05-211

諸注は、光が紫に会わせないという罪をお許しになると考える。しかし、この解釈には問題がある。地の文で「れたまふ」という二重敬語は、光に使われることが普通ないからである。普通といったのは、光を主語にした用言すべてを確かめたわけではないからであるが、まあ、この前後で「れたまふ」などという表現はない。あればそれは「受け身+たまふ」である。整理すると、地の文で「たまふ」がつくのは、この場面では光のみ、少納言には付かない。また地の文で二重敬語は光には使われない。従って、ここは先ほどの公式「受け身+たまふ」である。光が罪をゆるされたとお感じになったのだ。なぜか、少納言と気持ちを許し合うことができたから。それは、互いに(エロティックな)歌を詠みあうことによってである。では、ここで言う「罪」とは何か。もちろん紫と性交渉することだが、「言ふかひなし」すなわち、まだセックスできる年齢でないのにセックスをすることが罪なのである。「かしこし」とまず少納言が言ったのは、荒ぶる神の姿を見たからである。それは神(光)と人(紫=少納言)との間にある境界に立ち会うことから生まれる感情である。この境界を犯すことが罪であり、神と神との越境である。紫はまだセックスできない年齢である、そのタブーを破ることが光の罪ということ。そういうタブーをかかえた光が、紫になっている少納言と言葉の上で、相聞歌を詠いあったことが、気持ちを楽にさせたのである。境界が薄まったのだ。

なぞ恋ひざらむ(なぞ越えざらむ) 05-212

「人知れぬ身は急げども年を経てなど越えがたき逢坂の関」(後撰・藤原伊尹)の「など越えがたき」を言い換えた表現である。従って、光の言葉は、単にどうして恋さずにおこうかとの意味ではなく、どうしてこの場は越えがたいことがあろう、かならず逢って恋を遂げようという意味で使われていることがわかる。気持ちの上で楽になったので、より積極的(和歌のもってまわった表現より直截であるとの意味)に恋を宣言したのだ。

身にしみて 05-212

体全体でぞくぞく感じること。こういう表現は感覚的に理解できないといけない。大事なのは何が身にしみたかである。もちろん、光の口ずさんだ言葉だ。貴公子の中の貴公子である光源氏が、どんなに苦労しようとこの恋を遂げようという発言したのだ。その積極性が、恋に恋している若い女房たち(この時代の女たちは恋をすること以外に興味がないように描かれている)の身にしみたのである。
おまけをひとつ。「身にしみて」を感覚的に理解するということはこう言うことだ、つまり、みるめがやわらかくなったということ。体のしんまで光の言葉にふるえたのである。太古からつづく破瓜(処女喪失)の恐怖感が描かれると同時に、貴公子に言葉が身にしみ通る若い女房たちを描くのが、源氏物語の世界である。

君 05-213

紫。

上 05-213

尼君。

臥したまへる 05-213

横になった状態で寝入ったわけではない。遊び相手の言葉にすぐ起き出せたのもそのためである。

直衣着たる人 05-213

「直衣」は男性貴族の普段着。この邸に出入りする者で直衣を身につけている人は父である兵部卿宮しかいないと、早合点したのである。

宮 05-213

父宮。

なめり 05-213

断定に推量がついたもの。

たりつらむ 05-213

「らむ」は推量。

思し放つ 05-214

距離をおくこと。

恥づかしかりし人 05-214

「し」とはっきりした過去があるので、「この若君、幼心地に、めでたき人かな」と思った思い出がこの言葉に結びついている。諸注の説明はそこまではいいが、立派な人だという訳文はいただけない。「恥づかし」の一般的用法は確かにこちらが気後れするほど相手が立派であるのだが、それは文脈のない辞書の説明にすぎない。男同士なら立派でよいが、それが男女の関係なら、立派だけでなくいろいろとニュアンスが出てくるのである。でも紫はまだ子供だと言ってはいけない。人形を光に見立てて遊んでいたのは、大人の恋愛でなくても好きだという感情が芽生えていると見るべきであろう。だから、気が引けたのである。子供なのに、ぽっとしたのである。それが「さすがに」にこめられている。「さすがに」は「聞きなし」にかかり、子供ながら相手が源氏だと聞き分けたと注にあるが、それだけでなく、「あしう言ひてけりと思して」にかかる。子供心に言い方を間違えたと感じたのである。父親と間違うことが光に申し訳なかったとの思いがあるからだ。その申し訳なさは、人違いした儀礼的な意味ではなく、光を肉親でも他人でもない、特別な人として異化しているからである。こうした前後の文脈があって、「恥づかし」の訳文は決定されるのだ。辞書は無数にある古文の例からオーソドックスな例を十例ほどみつけ、その公約数を当てているのである。文脈にとらわれずどこにでもだいたい当てはまることが狙いなのだ。言い方を換えれば、すべてがレディ・メードというかピンボケである。だから、文脈により自分で焦点を合わせることが利用者の心得である。巻末の冒頭に、そのくらい明記してほしい気がする。最近たばこのパッケージに吸い過ぎると死ぬなどと脅してあるが、辞書を無批判に使用するのは、言葉の文化を殺すことになる。

さればこそ 05-214

ですから以前より言ふかひなき御ほどだと申しているのですということ。眠いとむづかる紫の態度に対する言い訳であり、自分たちは本当のことを言っていたのだという弁明であり、紫の実際の幼さを知らせることで光の無理な懸想を思いとどまらせるための言葉。

世づかぬ御ほど 05-214

「世」はもちろん男女の仲。「世づかず」とは、精神的には好いた惚れたなどまだわからないということ、肉体的には初潮がないことを言うのだろう、そこまで具体的意味をここで読み取る必要はないが。

何心もなくゐたまへる 05-214

前に「膝の上に大殿籠もれよ」と光が誘い、乳母が「押し寄せたてまつり」とあって、ここで「ゐたまへる」とあるのだから、座っている場所は光の膝の上としか考えようがない。男性の膝の上に抱かれているというのは性愛行為である、なのに平然としているのが、「何心もかく」である。これが世づかなさを示している。

手をさし入れて探りたまへれば 05-214

説がふたつある。紫や少納言と光との間には御簾があり、そこから手を入れて紫の体をまさぐっているとの説と、髪の着こめられている衣の下に手をさし入れているとの説だ。状況からして前者には無理がある。少納言が押し出したところ、「ゐたまへる」とある先は、御簾から押し出して光の膝の上と考えるのが自然である。だからと言って後者の説が決定的とされないのは、「御衣に髪はつやつやとかかりて」とあり、服の上に服を着るのはおかしいとの常識的判断があるからだ。しかし、この矛盾は簡単に解消する。すぐ後に「霰降り荒れ」とあり、紫は「そぞろ寒げに思したる」とあるので、今は寒い季節なのだ。紫は、服の上に夜具をはおって寝ていた。父が着たと聞いて起き出したが、寒いので夜具をそのまま羽織って来たのである。夜具というのは、今の布団にあたるが、当時は綿入れなどのすこし厚めの大きな羽織みたいなものである。それをうちかけたまま出て来たのだ。その中に手を入れたのである。御簾の中に手だけ差し入れたのではない。たとえそうであっても、そんなことで光は我慢できなかったろう、御簾から自分の膝の上に引き寄せたはずである。

つやつやと 05-214

肌触りであって、髪の光沢が目に見えるわけではない。

末のふさやかに探りつけられたる 05-214

自然と手に探りつけられるなどと注があるが、意味がわからない。それは、紫の髪が大人の女性のように長くないため、その先まで手に届いたとの意味である。「られ」は従って可能である。「自発」ではない。ふさふさした毛先まで手に届く、そんな幼い髪型だから、「いとうつくしう思ひやる」となるのだ。

うつくしう 05-214

かわいいの意味。枕草子を思い出してほしい、「何も何も小さきものはみなうつくし」である。

やらる 05-214

距離がある場合につかい、全体で想像するほどの意味になる。やはり御簾越しであり、実際に見ていないので想像したのだと考えてはいけない。紫は膝の上なのだ。もちろん後ろから抱いているのであって、向き合ってふたりが抱き合っているのではない。だから近くても顔は見えない。それでも髪のなめらかな感じ、ふさふさして豊かな感じ、その短さから、まだ幼いけれどかわいらしい人であろうなと推し量ったのである。

手をとらへ 05-215

無理に手を取るのではなく、無理に手を押さえ込むというニュアンス。

うたて 05-215

思いとは違う方向に事態が進行してゆくときの気持ち。先に眠いと言ったところ、光から膝の上で休むように言われて、そうしようとしたのに、髪を触られるのみか、手まで捕らえられ、という予期せぬ事態の進行に気を悪くしたのである。「例ならぬ人」は光。

近づきたまへる 05-215

単に接近する意味ではない。その意味では「寄る」との表現が与えられている。ここは、馴れ馴れしい態度を取ること。具体的には体を触ることだ。

引き入り 05-215

紫が少納言のいる御簾の中に入って行ったこと。前回の話になるが、ここからも紫は御簾の向こうではなく、光の側にいたことがわかる。

つきてすべり入りて 05-215

光も紫に付き従って御簾の中へ入ったのである。

まろぞ思ふべき人 05-215

わたしが紫を世話する人だと解釈されているが、「思ふ」に世話するの意味は認めにくいし、なぜ「べき」が入るかも説明がつかない。わたしこそ、あなたが心に思うべき人だ、だから邪険になさらないでという意味。「君は上を恋ひきこえたまひて」という地の文が響いている。光自身はもちろん、話者の語るこの地の文は知らないが、話者は聞き手に語ってきた過去に支配されながら、物語をつむいでゆくところが古典にはある。ここが、近代の作品と古典の作品の違うところである。登場人物は話者から独立して存在していないのである。このように地の文が、登場人物の言動に影響する場合は多々あることなので、記憶しておくとよい。ただ、ここはその典型的な例ではないことを断っておく。

ゆゆしうもはべるかな 05-216

この「も」のニュアンスを汲み取りたい。直ちにゆゆしき事態ではないが、ゆゆしき事態だと言ってもよいという感じ。「ゆゆし」とは、タブーを侵犯すること。紫のようにまだ性的対象にならない年齢の少女を手ごめにするタブーと、近親者を亡くしたばかりであるのに性的交渉を持とうとするタブーの二点において、「ゆゆし」である。ただ、事態はそこまで進んでいないために「も」がついているのだ。

聞こえさせ知らせたまふともさらに何のしるしもはべらじものを 05-216

今から先のこと。これまで光がいろいろと手紙を書いて意中を紫に知らせようとしたことではない。いま、寝床のなかで、かき口説いても、紫には何の効果もないと言っているのだ。言葉を換えれば、何かしるしがあればそれは和合になるが、しるしもないのに強引な真似をすれば、それは恋愛とは違う強姦だ、とその言葉の裏から読み取るべきもの。この非難に対して光が答えたのが次の言葉。

さりとも 05-216

そうではあるがの意味。したがって、乳母の非難を受けると取っては後に続かなくなる。自分が手荒な真似をするように見えるがと、自分の行動をうけて、乳母が想像するような行動と見えてもの意味。

世に知らぬ 05-216

世」は男女。世間の男女が知り得ようもない愛情ということ。どういう愛情であるかは、次回以降のお楽しみ。

2020-05-24

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