05若紫10

2020-05-24

若紫 原文 05-148/05-168

148藤壺の宮 悩みたまふことありて まかでたまへり 149主上のおぼつかながり 嘆ききこえたまふ御気色も いといとほしう見たてまつりながら かかる折だにと 心もあくがれ惑ひて 何処にも何処にも まうでたまはず 内裏にても里にても 昼はつれづれと眺め暮らして 暮るれば 王命婦を責め歩きたまふ 150いかがたばかりけむ いとわりなくて見たてまつるほどさへ 現とはおぼえぬぞ わびしきや 151宮も あさましかりしを思し出づるだに 世とともの御もの思ひなるを さてだにやみなむと深う思したるに いと憂くて いみじき御気色なるものから なつかしうらうたげに さりとてうちとけず 心深う恥づかしげなる御もてなしなどの なほ人に似させたまはぬを などか なのめなることだにうち交じりたまはざりけむ と つらうさへぞ思さるる 152何ごとをかは聞こえ尽くしたまはむ 153くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど あやにくなる短夜にて あさましう なかなかなり 
 154見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな 
と むせかへりたまふさまも さすがにいみじければ 
 155世語りに人や伝へむたぐひなく憂き身を覚めぬ夢になしても 
思し乱れたるさまも いと道理にかたじけなし 156命婦の君ぞ 御直衣などは かき集め持て来たる 
157殿におはして 泣き寝に臥し暮らしたまひつ 158御文なども 例の 御覧じ入れぬよしのみあれば 常のことながらも つらういみじう思しほれて 内裏へも参らで 二 三日籠もりおはすれば また いかなるにか と 御心動かせたまふべかめるも 恐ろしうのみおぼえたまふ 159宮も なほいと心憂き身なりけりと 思し嘆くに 悩ましさもまさりたまひて とく参りたまふべき御使 しきれど 思しも立たず 160まことに 御心地 例のやうにもおはしまさぬは いかなるにかと 人知れず思すこともありければ 心憂く いかならむ とのみ思し乱る 
161暑きほどは いとど起きも上がりたまはず 162三月になりたまへば いとしるきほどにて 人びと見たてまつりとがむるに あさましき御宿世のほど 心憂し 163人は思ひ寄らぬことなれば この月まで 奏せさせたまはざりけること と 驚ききこゆ 164我が御心一つには しるう思しわくこともありけり 165御湯殿などにも親しう仕うまつりて 何事の御気色をもしるく見たてまつり知れる 御乳母子の弁 命婦などぞ あやしと思へど かたみに言ひあはすべきにあらねば なほ逃れがたかりける御宿世をぞ 命婦はあさましと思ふ 
166内裏には 御物の怪の紛れにて とみに気色なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし 167見る人もさのみ思ひけり 168いとどあはれに限りなう思されて 御使などのひまなきも そら恐ろしう ものを思すこと ひまなし

若紫 原文かな 05-148/05-168

「イ」:や行の「い」/「エ」:や行の「え」

ふぢつぼのみや なやみたまふことありて まかでたまへり うへの おぼつかながり なげききこエたまふみけしきも いといとほしうみたてまつりながら かかるをりだにと こころもあくがれまどひて いづくにもいづくにも まうでたまはず うちにても さとにても ひるはつれづれとながめくらして くるれば わうみやうぶをせめありきたまふ いかがたばかりけむ いとわりなくてみたてまつるほどさへ うつつとはおぼエぬぞ わびしきや みやも あさましかりしをおぼしいづるだに よととものおほむ-ものおもひなるを さてだにやみなむとふかうおぼしたるに いとうくて いみじきみけしきなるものから なつかしうらうたげに さりとてうちとけず こころふかうはづかしげなるおほむ-もてなしなどの なほひとににさせたまはぬを などか なのめなることだにうち-まじりたまはざりけむと つらうさへぞおぼさるる なにごとをかはきこエつくしたまはむ くらぶのやまにやどりもとらまほしげなれど あやにくなるみじかよにて あさましう なかなかなり
みてもまたあふよまれなるゆめのうちにやがてまぎるるわがみともがな
と むせかへりたまふさまも さすがにいみじければ
よがたりにひとやつたへむたぐひなくうきみをさめぬゆめになしても
おぼし-みだれたるさまも いとことわりにかたじけなし みやうぶのきみぞ おほむ-なほしなどは かき-あつめもてきたる とのにおはして なきねにふしくらしたまひつ おほむ-ふみなども れいの ごらんじいれぬよしのみあれば つねのことながらも つらういみじうおぼしほれて うちへもまゐらで に さむにちこもりおはすれば また いかなるにかと みこころうごかせたまふべかめるも おそろしうのみおぼエたまふ みやも なほいとこころうきみなりけりと おぼしなげくに なやましさもまさりたまひて とくまゐりたまふべきおほむ-つかひ しきれど おぼしもたたず まことに みここち れいのやうにもおはしまさぬは いかなるにかと ひとしれずおぼすこともありければ こころうく いかならむ とのみおぼしみだる
あつきほどは いとどおきもあがりたまはず みつきになりたまへば いとしるきほどにて ひとびとみたてまつりとがむるに あさましきおほむ-すくせのほど こころうし ひとはおもひよらぬことなれば このつきまで そうせさせたまはざりけることと おどろききこゆ わがみこころひとつには しるうおぼしわくこともありけり おほむ-ゆどのなどにもしたしうつかうまつりて なにごとのみけしきをもしるくみたてまつりしれる おほむ-めのとごのべん みやうぶなどぞ あやしとおもへど かたみにいひあはすべきにあらねば なほのがれがたかりけるおほむ-すくせをぞ みやうぶはあさましとおもふ
うちには おほむ-もののけのまぎれにて とみにけしきなうおはしましけるやうにぞそうしけむかし みるひともさのみおもひけり いとどあはれにかぎりなうおぼされて おほむ-つかひなどのひまなきも そら-おそろしう ものを おぼすこと ひまなし

若紫 現代語訳 05-148/05-168

藤壺の宮がご病気になられて、里にお下がりになった。帝がご心配になり嘆き申し上げるご様子も、とても申し訳なく存じ上げながら、せめてこういう機会にでもと、心もそちらにばかり惑い行きて、どんなところへもいっさいお出かけにならず、宮中にいても自邸にいても、昼はあれこれと物思いふけりながらぼんやりと眺め暮らし、暮れると藤壺付きの女房である王命婦を責めたて追いまわしになる。
どのようにことを図ったのか、まことに倫(みち)ならぬ逢瀬であり、お抱き申し上げる間さえ現実とはお思いになれないことが、なんともやり切れない。宮も思いも寄らなかった最初の夜の逢瀬を思い出すだけでも、常に頭を去らない悲運の嘆きであるので、せめてその一度だけできっぱり逢うまいと深く決意なさっていたのに、今こうして再び関係を結ぶことがとても心苦しくて、そんな運命が空恐ろしく感じておられるご様子でありながら、つい心慕われる愛らしい感じで、と言って心許すのではないが、愛情が深く、見ている方が恥じ入てしまうほど立派なご対応が、何と言っても尋常の人と同程度ではおすましになれないのを、どうして凡庸な点が少しでも交じっていらっしゃらないのかと、つい恨めしくさえお感じになる。
夜明けのない暗部の山に宿りも取りたそうであるけれど、現実は憎みたいくらい短い夜だから、ただあきれるばかりで、かえって思いがつのる。
「見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな」
(こうして愛し合ってもまた
逢う夜はなかなかおとずれない
このお逢いできている夢のなかに
このまま我が身を
紛れ込ましてしまいたい)
と歌ばかりか、むせ返りになるご様子も、さすがに思いが激しいので、
「世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を覚めぬ夢になしても」
(後々までの語り草に
人々も伝えましょうか
たぐいなくつらい身を
覚めることのない
夢の中のできごとと致しましても)
お苦しみになるご様子も、至極当然でかたじけないものである。命婦の君が、脱ぎ捨てた君の直衣などをかき集めて持って来る。
二条院にお帰りになって、泣きながら一日寝てお暮らしになった。お手紙なども、いつも通り、ご覧にならないとの返事ばかりのので、いつものなさり方ながらも、つらくたいそう思いつめ放心なさって、宮中へも参内せず、二三日籠っていらっしゃると、また帝より、どうしたわけなのかと、ご心労なさるであろうと想像するにつけても、恐ろしいことだとばかりお考えになる。
宮も、やはりどうにも情けないこの身であることだと思い嘆きになるにつけ、ご気分もさらにひどくなられて、はやく参内なされよとの帝からのお使いがしきりに来るけれど、参内の決心はおつきにならない。まったくもって、お加減が、いつものような感じでもないのは、どうしたわけなのかと、人知れず思い当たることもあるので、情けなく、どうなることかとそればかりご心配になる。
暑い間はますます起き上がることもおできにならない。妊娠三ヶ月におなりになると、まったくその兆候がはっきりわかる頃であるので、女房たちはお体の変化をお見受けして不審に思うにつけ、思いも寄らなかった前世からの御宿命のあり方に、宮はつくづく身のつらさをお感じになる。まわりの者は思いもよらないことなので、この月になるまでよくまあ帝にご報告なさらなかったことだと驚き申し上げる。もっともご自身のお胸ひとつには、はっきりと思い当たることもあったのだ。
御湯殿なんかでも親しくお仕え申して、どのようなご様子でもはっきりと見て存じ上げている御乳母子(オンメノトゴ)の弁や命婦などは帝との間の子でないのではと思うけれど、お互い口にし合える筋合いのことではないので、やはりどうしてもお逃れるになれない前世からの御宿命であるのを、命婦はあまりのことだと思う。
帝へは御物の怪の紛れで、すぐには懐妊の兆候があらわれでなかったとでも奏上したのであろう。見守る女房たちもそのせいであるとばかり思った。帝はますますいとしくこの上なくお愛しになって、御使者などがひまなくやって来るのも、何事も天に見抜かれているように恐ろしく、運命をお考えになるばかりである。

若紫 注釈 05-148/05-168

いとほしう 05-149

第三者に対する同情ではなく、自分の行為に対する申し訳なさを言う。この場合は、光がこれから行う行為、すなわち、王命婦を手引きに藤壺に会いに行く行為に対して、申し訳なく思いながらということ。

あくがれ

心が肉体から離れて、藤壺のもとに飛んでゆくこと。こういう語彙を単なる大げさな常套句として読みすごすのではなく、平安人の精神構造をよく言い当てた表現として、リアルに受け止めるのが、物語に入り込む秘訣だと思う。蛇足をすれば、現代語の「あこがれ」が使われる場面とは比較にならない、激しい恋の熱情を想像すべきである。
病気のこともあり、これからは先を急ごうと思ったのだが、また長くなってしまった。しかし、原則、今後は重点な個所にのみ注をつけてゆく。重点とは、
一、他の注釈と解釈が異なる場合。
二、既存の注釈間で解釈が著しく異なる場合。(全部を調べ切ることはできないが)
三、古語辞典とは語彙の説明が違う場合。(今回の「いとほし」や「もの心細げ」の「もの」など。
四、引歌や省略などがあり、補足説明がなければ本文が十分理解できない場合。
五、読み間違う恐れのある個所。
逆に、一般の注釈書や古語辞典を引けば出てくる語彙は説明を省きたいと思う。訳文を読めばわかる場合も同様。省ける個所はなるべく省き、五十四帖すませたあとでまた、細部を埋めてゆきたいと思います。

いかがたばかりけむ 05-150

受けるものがなく、あたかも二人の内面を表すように宙ぶらりんで浮いている点に注意したい。

いとわりなくて 05-150

「見たてまつる」にかけず、「わびしきや」にかける。藤壺に寄せる情熱の理不尽さではなく、道ならぬ逢瀬を結ぶ今の状況をいう。

宮も 05-151

「いと心憂く」にかかる。

あさましかりし 05-151

過去になっている点に注意。今描写している逢瀬を過去として捉えているのではない。今の逢瀬は「心憂し」と現在形であるから、これはこの時より以前と読む以外にない。「あさまし」は予想もしてないことを驚きあきれること。

世とともの 05-151

四六時中。

もの思ひ 05-151

「もの」はこの場合、運命。自分の運命の拙さを嘆くのである。

さてだにやみなむ 05-151

以前逢った逢瀬一回切りで止めてしまおうということ。これも何度も書いたことだが、すでに光と藤壺は、今回より前に一度濡れ場を経ているのである。ただし、古今東西の古代悲劇文学がそうであるように、帝王たる者は一回の交わりで女を孕ませるものである。そこから考えるに、一度目はおそらく、藤壺の激しい抵抗に合い、挿入には至らなかったのだ。そこで今回は二度目であるが、挿入としては初回ということになり、古代の帝王の列に光も並ぶのである。むろん、そんなことはどこにも書いてないので、想像の域を出ないが、ま、そんなところであろうと思う。

憂くて 05-151

自分が情けなくなることだから、光に対してではなく、自分の運命に対しての感慨。

いみじき 05-151

この世らしからぬ感じ。運命に弄ばれた藤壺の人を寄せ付けぬいかめしさを言うのだろう。荘厳美。このあたりから、語り手は藤壺の意識から光の意識へと物語の焦点を移す。

ものから 05-151

逆接。そうでありながら。

さりとて 05-151

逆接。

心深う 05-151

愛情こまやかなの意味で、「御もてなし」にかけても、「似させたまはぬ」にかけてもさして変わらないだろう。

人に似させたはまぬ 05-151

ここだけ「させ」と「たまはぬ」の二重敬語を使う理由はないので、この「させ」は使役ととる。すると意味は、もてなしにおいて、そこらの女では真似させてはおかない、すなわち、とても真似のできないようなということ。「なのめ」は不足な点。「つらう」は人からの仕打ちに対しての感慨。ここは藤壺に欠点がなく、忘れようにも忘れられないため、うらめしいのだろう。

藤壺の初回の逢瀬

何も述べなかったのは、本当ではない。何としてもものにできなかった空蝉との逢瀬が、藤壺の初回の状況を匂わせている。近代文学なら、同じ女性で書き上げるところを、役割を分担させた描いているのだろう。ただし、証明できるものではない。

くらぶの山 05-153

鞍馬山ともそうでないとも諸説あり不明である。その名に示される暗がりのイメージから夜明けのない場所として想起されているようである。それが光の歌を呼び起こす。

あやにくなる 05-153

程度のはなはだしさに憎みたくなる気持ち。この場合、夜明けなどない場所に行きたいくらいなのに、実際は四月(初夏)のはなはだ短い夜を憎むのである。

あさましう 05-153

その短さにあきれて言葉もでない様子。

なかなかなり 05-153

かえって逢わない方がよかったとの注釈があるが大間違いだ。あまりに短い逢瀬ゆえ満たされぬ思いがさらに強まったこと。逢うことで気持ちが落ち着くはずであったという意識がその下には働いているわけだ。

見ても 05-154

性交渉をしても。

また 05-154

「あふ」にも「まれなる」にもかかる。限定しきらないのが歌の技巧。

逢ふ 05-154

逢瀬の意味と夢がかなうの二重の意味。

夢 05-154

寝てみる夢と希望の実現した瞬間の二重の意味がある。

まれなる 05-154

やはり二句に取り残され、「あふ」のが稀である意味と稀な「夢」の二重にかかる。稀な夢とは、いま藤壺と抱き合っているこの現実を夢の世界(二重性の両方の意味)におきかえ、その中にまぎれこんでしまいたいと望むのである。「くらぶの山に宿りもとらまほしげ」がここで生きる。現実には夜明けのない場所などないが、そんな夢の世界に行って、いつまでも藤壺と抱き合っていたいと言うのである。今あっているこの現実を夢(願望充足)だととらえている点に注意したい。

さすがに 05-154

現代語は肯定的な意味で賞賛する際などに使用するが、古文では否定的な文脈でつかう。ここも話者の非難の意識が反映していると考えるべきである。その非難は「いみじ」に対して、すなわち、感情が激しすぎる、すなわち光の藤壺への愛情が強すぎることを非難しているのだ。

むせかへりたまふさまも 05-154

「も」はその激しい歌ばかりかむせかえりお泣きになる様子までが激しいのだ。この激しさは、二人を破滅に導く恐れがあるからである。帝に知れる危険性があるし、人に知られないでも仏教的には執着の激しさを意味し、来世への悪因果となる。そこで藤壺は、光とは距離をおいた諭しの歌となる。「さすがに」をさすがに藤壺は感じ入ってと諸注は解釈するが、それでは藤壺の距離をおいた歌の真意は汲み取れない。

人や伝へむ 05-155

きっと人が伝えますでしょうという疑問をつかった肯定文。

夢になしても 05-155

この逢瀬を夢のできごとであると考えるにしてもの意味。先に注意したように、光はこの逢瀬を夢(願望充足)として捉え、またいつまでも続く夢(現実から遮断された世界)として捉えているのに対して、藤壺は現実と無縁な夢のできごとであって人の非難はまのがれないと「夢」の意味を読み替えるているのである。

殿 05-157

光の自邸である二条院。妻の実家である左大臣邸は「大殿」と呼ばれ区別される。

ご覧じ入れぬ 05-158

「入れぬ」の主体は命婦などの女房ではない。女房であれば「ご覧じ入れ申さぬ」など謙譲語が入る。なお、「例の」とあるので、これ以前から光の手紙を藤壺が読もうとしないことが習慣化されていることがわかる。

思しほれ 05-158

「思す」と「ほれ(放心する)」の結合語。

いかなるにか 05-158

光の病状再発を心配する帝からの言葉。

御心動かせたまふべかめる 05-158

きっとご心配なされるだろうという想像。実際に「いかなるにか」との言葉を帝からいただいたのではない。

なほ 05-159

やはり。

心憂き 05-159

自分が情けなく思われるとの意味で、具体的には、光を拒もうと思えば拒めたはずなのにという自分に対する責め。従って、この「なほ」は前回の逢瀬でもう二度と逢うまいと思い決めていたのにもかかわらず、また逢瀬を重ねたことへの後悔を表す。

悩ましさ 05-159

もともと病気を原因に宮中から里に下がってきている。わたしの説では、帝の子を身籠ったとの理由による。帰参せよとの使いがあることからすると、妊娠は誤認であったとの沙汰をすでに帝へ届けたことになる。あるいは、妊娠でないなら早く帰参せよとの使い。

人知れず思すこと 05-160

光との交渉による妊娠の心配。

三月 05-162

妊娠三ヶ月。光との性交渉が四月であるから、今は六月で晩夏。「しるきほど」は妊娠の兆候がはっきり現れること。すなわち、急にお腹が大きくなること。

とがむる 05-162

あれこれ口にして、どうしたのだろうと不審に思うこと。

あさましき 05-162

予想外の事件に対する気持ち。従って、後の「御宿世」は具体的には光の子を懐妊したことを表す。光との逢瀬は既存の事実であるから、何が予想外であるかとなると、光との性交渉の結果、光の子を宿してしまった、それが前世からの宿命だというのだ。

しるう思しわくこと 05-164

お腹の子が光との性交渉の結果であること。

御乳母子の弁 05-165

恐らく、母が藤壺の乳母子であり、その縁者(父や夫など)が太政官の弁官をしている女性。

命婦 05-165

光が藤壺に逢えるよう無理に手配させた王命婦。従って、命婦は光の子であることを知っている。御乳母子の弁は知らない。

あやし 05-190

帝との間の子であるなら、もっと早くお腹が大きくなっているはずだと、お腹の子の父が帝であることを疑ったこと。その相手を命婦は知っているが、御乳母子の弁は知らない。

御物の怪の紛れ 05-166

「御」は藤壺についた物の怪だから敬語が使われている。「御物の怪のまぎれ」とは、実際にはどういうことだかわからないが、当時そうした理由が一般的に通ったことを理解する必要がある。前に説明したことだが、桐壺を死ぬ間際まで側から離さなかった帝が、藤壺の里帰りを許した理由は、月経がないなど帝の子を宿したとの疑いがあったからであろう。それからお腹が膨らむまで、本来ならもう少し早くないといけないのに、それが遅れた理由として、御物の怪のまぎれによるのではないかと説明をつけたのである。物の怪は病気なども引き起こすとされていたのだから、合理的に説明できないことに関して、物の怪が持ち出されたことは想像にかたくない。この個所を「御物の怪」の一語で説明しつくすことに無理があるとする論者がいるが、上述のように、事実ではなくとも藤壺が帝の子を宿して里帰りしていたと読むなら、至極自然な筋の運びであることが理解できると思う。それはそれとして、帝は自分の子ができたと信じたのだから、藤壺が容態を悪くし宮中を離れる間際まで、ふたりの間には性交渉があったはずである。表面に描かれていないそうした事実を読み込むことで、帝に愛されながら、絶世の美男子に恋される藤壺の苦悩が具体的に感じられるのである。

ものを思す 05-168

自分の運命、自分の存在、この身、現世など、当時の王朝の語彙では表現しきれない、これと定義できないが、はっきりそこにあって存在感を示すものが「もの」であり、それがウエットでネガティブであるのは、当時の人生観・世界観がそうさせるのであろう、けっして楽観的には使用されない。ここからは、推測になるが、ここの文脈からすると、「もの」は「宿世」とのかかわりが強い語である。そこで「宿世」の意味だが、前世からの決まりで今世があるという意識であり、それは因に対して果が起こるという意識である。宿世には、前世の因の方に意味の重点がある場合と、今世の果の方に意味の重点がある場合とがある。さてここで、この文脈のみから、あえて「もの」を定義づけると、悪しき宿世の結果、今生にもたらされた悪果を「もの」というと定義できると思う。ついでに「物の怪」も見ておくと、今生の悪果である「もの」からにじみ出て、また「もの」に影響を与える不可思議な作用。ただし、注意したいのは、「宿世」は仏教的であり、「もの」「もののけ」は日本的な語である。それらは本来別々にあった語のはずであるが、お互い使用される場面が似通っていたため、意味に影響を与え合ったのではないかと想像するのである。少なくとも、この場面の「宿世」と「もの」を理解するには以上のような両者のつながりを理解する必要があると思う。別の場面での「もの」がこの理解でいいのかは、また別の話であるが、ある種の「もの」の意味はこの理解で間に合うのではないかと思う。

2020-05-24

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