はかなびたるこそは 夕顔12章15
原文 読み 意味
はかなびたるこそは らうたけれ かしこく人になびかぬ いと心づきなきわざなり 自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに 女は ただやはらかに とりはづして人に欺かれぬべきが さすがにものづつみし 見む人の心には従はむなむ あはれにて 我が心のままにとり直して見むに なつかしくおぼゆべき などのたまへば
04155/難易度:☆☆☆
はかなび/たる/こそ/は らうたけれ かしこく/ひと/に/なびか/ぬ いと/こころづきなき/わざ/なり みづから/はかばかしく/すくよか/なら/ぬ/こころならひ/に をむな/は/ただ/やはらか/に とりはづし/て/ひと/に/あざむか/れ/ぬ/べき/が さすが/に/ものづつみ/し み/む/ひと/の/こころ/に/したがは/む/なむ あはれ/にて わが/こころ/の/まま/に/とりなほし/て/み/む/に なつかしく/おぼゆ/べき など/のたまへ/ば
「しっかりして見えないのがかわいんだ。近寄りがたく言い寄ってもなびかないのは、まったく好きになれないふるまい方だ。わたし自身はきはきせず強引にゆけない性分だから、女は、ただ心やわらかで、うっかり男にだまされそうだが、それでいて実はとても慎みがあり、通ってくる夫の気持ちには素直に従うのがいとしいし、こちらの思い通りにし立て直して通うには慕わしく、思えるのでは」などとおっしゃると、
はかなびたるこそは らうたけれ かしこく人になびかぬ いと心づきなきわざなり 自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに 女は ただやはらかに とりはづして人に欺かれぬべきが さすがにものづつみし 見む人の心には従はむなむ あはれにて 我が心のままにとり直して見むに なつかしくおぼゆべき などのたまへば
大構造と係り受け
古語探訪
はかなびたる 04155
中身がないこと・頼りなさが外から見える様子。
かしこく 04155
畏れ多くて近寄れない、親しみを感じられない。
心づきなき 04155
好きになれない。
わざなり 04155
重要。「わざ」はある出来事・行為を言う。したがって、ここは光の女の好みを述べているのではなく、過去のある出来事・行為を念頭にすえて話しているのである。近づきがたく、言い寄ってもなびかなかったとは、まさしく空蝉である。こう説明すると、ひどく突飛な解釈だと思われよう。『夕顔』の帖が始まると、わたしたちは空蝉との恋愛はすでに過去のこととなり、もっぱら夕顔との恋愛ばかりに光はかまけているとしか見ない。しかし、物語作者は、『帚木』『空蝉』『夕顔』の各帖を独立した短篇として作ったのではなく、三つをセットに物語を構成しているのである。そうでなかれば、次回からつづく、空蝉や軒端荻との歌の贈答が、時間的に並行していたという程度の理由以外、この帖で描かれる積極的理由は少ないし、多すでに多くの論者が指摘している、『帚木』の出だしと『夕顔』の末尾の呼応関係もさしたる意味をもたないであろう。繰り返すが、二人は相反する性質を背負わされた作中人物である。その枠組みの中で、読み取りが行われるべきである。ただし、源氏物語の偉大さは、対立関係を物語りに取り入れた点にあるのではない。対立関係を背負わされながら、生き生きした個人を作り上げている点にあるのだ。光には、相手の全体像が見えない。光の見えない部分で女たちは苦悩する。それらの苦悩は、表層的に構造化されている対立関係のようには決して記号化されることなく、ひとりひとりの生としっかり結びついているところにあるのだ。それが単に幾人かのタイプを描きわけたのではなく、あらゆるといっていい女性のタイプを取り入れることで、どんな女性であれ、男にはわからぬ溝があるというのが、源氏物語の最大のテーマであろうと、わたしは思っている。
自ら 04155
光自身。
すくよかならぬ 04155
難語。「すくよか」はゴツゴツした感じで、山なら険阻、人なら無骨で、愛想のない、直截な、男おとこした感じを言う。すくよかならぬは逆に、女性的で、婉曲的、摩擦を避け、生硬で直接的なやり方をしない性格。ここでは、私でなく普通の男ならもっと無理やり空蝉を犯そうとしたであろう、自分はそういう性格ではないのだという言い訳が入りこんでいる。
とりはづして 0420155
うっかりすると、との訳があるが、「とりはづして」はうっかりした場合という仮定ではなく、うっかり騙されそうになるということ。普段からうっかりして見えるわけである。それでいて本当はそうでないというのが、「さすがに」。
ものづつみ 04155
とても慎しみがあること。具体的には、よその男に言い寄られても心を寄せないこと。
見む人 04155
夫婦関係ができてしまった男。よその男には冷たくても、夫にははいはい言うことを聞くのがいとしい(と、まあ男は勝手なことを言う)。