いとか弱くて昼も空 夕顔07章05

2021-04-23

原文 読み 意味

いとか弱くて 昼も空をのみ見つるものを いとほし と思して 我 人を起こさむ 手たたけば 山彦の答ふる いとうるさし ここに しばし 近く とて 右近を引き寄せたまひて 西の妻戸に出でて 戸を押し開けたまへれば 渡殿の火も消えにけり

04081/難易度:☆☆☆

いと/かよわく/て ひる/も/そら/を/のみ/み/つる/もの/を いとほし と/おぼし/て われ ひと/を/おこさ/む て/たたけ/ば やまびこ/の/こたふる いと/うるさし ここ/に しばし ちかく とて うこん/を/ひきよせ/たまひ/て にし/の/つまど/に/いで/て と/を/おしあけ/たまへ/れ/ば わたどの/の/ひ/も/きエ/に/けり

見た目にもひどく感じやすい様子で、昼間も空ばかり見ていたけれど、こんなことになろうとは申し訳ないとお思いになって、「わたしが起こして来る。手を叩けば山彦がこたえるのがとてもうるさい。ここにしばらく、もっとお側に」と、右近を引き寄せになり、西の妻戸のところまで出て、戸を押し開けになったところ、渡殿の火もすでに消えていた。

いとか弱くて 昼も空をのみ見つるものを いとほし と思して 我 人を起こさむ 手たたけば 山彦の答ふる いとうるさし ここに しばし 近く とて 右近を引き寄せたまひて 西の妻戸に出でて 戸を押し開けたまへれば 渡殿の火も消えにけり

大構造と係り受け

古語探訪

いとか弱くて 04081

非常にもろく、外からの影響をうけやすく見えること。(「か弱し」の「か」は見た目に明らかの意味で、少しの意味ではない)。これを病気で衰弱しての意味にとる解釈があるが、光とのやりとりの中でそのような描写はなく、受け入れられない。

昼も空をのみ見つるものを 04081

もの思いの表情であるのは諸注の通り。ただ、なぜ「見つる」対象が「空」なのかを理解しないので、「病者の空を見るは死相の一なり」などという旧注を引いたりする。空を見ていたというのは、実際にはそれまで住んでいた五条界隈の家の方を見ていたと考えるのが自然だ。夕顔は光を物の変化ではないかと思ったほどの脅えやすい質である。ほとんど略奪に近いかたちで、不気味な場所に連れ出されたのだから、身になじみあるもとの場所を慕うのは自然であろう。その読みの根拠はある。女の歌「山の端の心もしらでゆく月はうはのそらにて影や絶えなむ」である。その折りの状況で、女があまりに恐ろしく気味悪がっているので、光は「かのさし集ひたる住まひの心ならひならん」と理由を、元の場所とこの場所の違いに見ている。女にとっては元の場所がよかったのだ。だから、「いとほし」すなわち、すまないと続くのである。こんなところに連れ出したことを始めて後悔したのである。「見つるものを」は、(見ていたのに)それに気づかなかったという含み。光はこれまで夕顔が心を許さない、気持ちに隔たりがあるということばかりに目がゆき、相手がどれほどこの場所を恐れているかわからなかったのでる。なお、「もの思いの表情であるのは諸注の通り」と書いたが、もの思いは、古文では「ながむ」である。ここは「見つる」とあるので、対象をはっきり見ている。「もの思ひ」はこれという理由がないのに、ひどく心が沈むことである。理由がないことが、対象をぼっとしか見ない「ながむ」という表現に集約されるのだ。それに対して「見る」はぜんぜん違う。ここは望郷の思いで古里の空を見つめているのである。従って、確たる理由があるのだから、正確にはもの思いではない。では、「ふるさと」、住みなれた場所、旅などで後に残してきた家という古語があるのに、なぜ「古里」でなく「空」としたのか。これも理由がある。それは、やはり、女の歌「うはのそらにて影や絶えなむ」にかけているのだ。すると「そら」を見ることは、死の前兆でもあったのである。ただし、この歌が「言葉―事柄」構造の言葉になっているからであり、この歌がなければ空を見ることは、死の前兆にはならない。ちなみに、夕顔はもう一首「空」を詠んでいる。「光ありと見し夕顔の上露はたそかれ時のそらめなりけり」。光とのなれ初めからしてこうだ。よほど「そら」に縁の深い女である。虚なのか実なのか定かでない存在、それが夕顔なのである。
ちょっと無理なこじつけだと感じる方も多かろうと想像する。無理に感じるのは、説明のへたさ加減はおくとして、読むという行為そのものが、書かれたものを結果として後追いすることにほかならないから、一見それとわからないほど自然に書かれていると、すらすら読めてしまうので重層的な読みがしづらいものである。もっともキーワードを拾い出して行けば、作者の狙いはある程度見えてくるが。読む側の問題はさておき、書く側は書くことの孤独さから、いろいろ仕掛けたくなるものなのである。知己を後世に待って。ただ筆力がないと、どうしてもあざとくなる。この点、紫式部の筆力は絶無だ。無理がなさすぎて、目につかないのが難と言えば難である。こうしたコンテクストの絡み合いをできる限り解きほぐすこと、それは注釈の域を外れた行為からなのか、これまで着手する評釈者はなかった。蛮勇ながら、この講義が目指すところはそこにある。これをしないと、語釈だけでは、表面をなぞって終わり。そんなことに時間を割くのはむなしいことだ。私は真剣に格闘したい。だから……そうは進まないと言い訳しておきます。

ここにしばし近く 04081

「近く」は光の近くではない。夕顔の近くである。もっとお側に寄れということ。

妻戸 04081

寝殿の四隅にあるとの注釈があるが、間違いであるらしい。寝殿の東西に二箇所ずつ、計四箇所あり、妻戸を出ると簀子(スノコ、濡れ縁)が南北に走り、簀子を挟んだ妻戸の対面は渡殿(建物と建物をつなぐ渡り廊下)の入り口であり、そこを渡ると東の対、西の対に至る。妻戸が東西二つずつあるということは、渡殿も東西それぞれに二つずつあるのである。

渡殿の火も消えにけり 04081

火が消えると離れの建物まで真っ暗の渡り廊下を通ることになる。

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