道遠くおぼゆ十七日 夕顔10章10
原文 読み 意味
道遠くおぼゆ 十七日の月さし出でて 河原のほど 御前駆の火もほのかなるに 鳥辺野の方など見やりたるほどなど ものむつかしきも 何ともおぼえたまはず かき乱る心地したまひて おはし着きぬ
04118/難易度:☆☆☆
みち/とほく/おぼゆ じふしち-にち/の/つき/さし-いで/て かはら/の/ほど おほむ-さき/の/ひ/も/ほのか/なる/に とりべの/の/かた/など/みやり/たる/ほど/など もの-むつかしき/も なに/と/も/おぼエ/たまは/ず かき-みだる/ここち/し/たまひ/て おはし/つき/ぬ
道中まだかと遠くお感じになる。十七日の夜の立待ちの月がさしのぼり、六条の鴨の河原に出た時には、先払いの松明などでは心もとないにもかかわらず、鳥辺野の方を遠くお望になられる様子など、あたりの異様な不気味さも何ともお感じにならず、心中かきむしられるお気持ちのままどうにか目的の地に行き着きになられた。
道遠くおぼゆ 十七日の月さし出でて 河原のほど 御前駆の火もほのかなるに 鳥辺野の方など見やりたるほどなど ものむつかしきも 何ともおぼえたまはず かき乱る心地したまひて おはし着きぬ
大構造と係り受け
古語探訪
道遠くおぼゆ 04118
道中が怖いためとの注があるが、「ものむつかしきも何ともおぼえたまわず」とあるから、その解釈は間違いである。「鳥辺野の方など見やりたる」とあり、これは早く夕顔のもとに着きたくて、目的地の鳥辺野を遠く見やったのだ。そもそも「御前駆の火もほのかなるに」の「ほのかなるに」の原義がつかめていれば難なくここの解釈はできるはずである。火がかすかだから怖くて遠くを見たのではない。松明の火の届く範囲は知れているのに、それでも目的地が見えないかと期待して遠く望んでいるのである。前回説明したとおり、漏れてくる部分が少ないのが不満で隠れている部分に期待を寄せているのが「ほの」の原義。
河原 04118
鴨川の河原であって賀茂川の河原ではない。この川は北から南に流れるYの字の形の川である。現在の呼称は北西から合流点まで流れ来る部分を賀茂川、北東から合流点までを高野川、合流点以南(今出川通りのあたり)を鴨川と呼ぶ。光の居邸は二条院は二条東洞院(にじょうひがしのとういん)にあり、目的地の鳥辺野は六条東山にある。その行き方としては、二条通りを東にゆき鴨川に出て、河原沿いを南に下がるコースと、東洞院通りを南に下がり、六条から東に折れるコースがある。鴨川沿いはもちろん今のような堤防があって整理されているのではないから、ここにあるように「ものむつかし」すなわち、このうえなく不気味な場所である。当然あとのコースをたどったであろう。こちらのコースでは河原を一度横切ればいいだけであるからだ。ということは、「河原のほど」は場所として一点に絞られる。六条の鴨川の西詰(にしづめ)である。通りが豁然とひらけた六条の河原で目的地の鳥辺野を見やったのである。「鳥辺野の方など」とあるのは、もう鳥辺野は目の前であり、目の前に広がる鳥辺山の広範囲の中でここかあそこかと夕顔の亡骸の置かれている場所を見渡したのであって、鳥辺野とそれ以外の別の場所を見渡したわけではないだろう。「ものむつかしき」は周囲のとてつもない気味の悪さ。薄気味悪いといった程度ではない。「もの」はそのもののもの。気味悪さそのものといった感じを受けるくらいの気味の悪さ。あるいは、漠然とでなく気味悪さが物体化したらこうだろうと感じられるようにというニュアンス。
かき乱る心地 04118
夕顔を死なせたことに胸を痛めて。この部分の心情を整理する。早く夕顔のもとに行ってやりたいのにはかが進まない。六条の河原に出た時には、かすかな火ではっきり見えるでもないのに亡骸の眠る鳥辺野の方を見やり、周囲の気味の悪さなど微塵も感じず、夕顔へと思いをはせる。あれほど怖かったのに恐れを感じないのは、夕顔を死なせたことに対するすまなさで胸をしめつけられるばかりであるから。
前回は、恐ろしい道中にもかかわらず、死ぬ目にあって懲り懲りながらも、「なほ悲しさやる方なく」、怖さをがまんして出てきたとあった。ここでは、もう怖さを感じていないのである。恋人を亡くした悲しみとただただ早くそのもとへ着きたい一心である。こうした細部にある微妙な心情の変化を読み取らなければ、源氏を読んだことにはならない。源氏のよさはそうした細部に至るまでの神経こまやかな書きぶりにあるから、それを見逃すのであれば、源氏の世界は見えてこない。
おはし着きぬ 04118
着いたばかりと解釈するのでは、「おはしぬ」でも「着きぬ」でもいいわけで、道中たいへんであったがなんとかたどり着いたというニュアンスが、連語にすることで、すなわち、単独の言葉より長くなる、その長さによって、そのように感じられるのだ。