宵過ぐるほどすこし 夕顔07章01
原文 読み 意味
宵過ぐるほど すこし寝入りたまへるに 御枕上に いとをかしげなる女ゐて 己がいとめでたしと見たてまつるをば 尋ね思ほさで かく ことなることなき人を率ておはして 時めかしたまふこそ いとめざましくつらけれ とて この御かたはらの人をかき起こさむとす と見たまふ
040077/難易度:☆☆☆
よひ/すぐる/ほど すこし/ねいり/たまへ/る/に おほむ-まくらがみ/に いと/をかしげ/なる/をむな/ゐ/て おのが/いと/めでたし/と/み/たてまつる/を/ば たづね/おもほさ/で かく ことなる/こと/なき/ひと/を/ゐ/て/おはし/て ときめかし/たまふ/こそ いと/めざましく/つらけれ とて この/おほむ-かたはら/の/ひと/を/かき-おこさ/む/と/す と/み/たまふ
宵を過ぎる頃、すこし寝つかれたところ、君の枕元に、正体の知れないひどく気になる女が座っていて、自分がとても大切にお世話申し上げている方を「尋ねようとお考えにならないで、こんな、どこにも値打ちのない女を連れていらして、ご寵愛なさるこそ、本当に目にあまる思いであり、ひどい仕打ちだ」と、この、君のおそばの女をかき起こそうとする、とごらんになる。
宵過ぐるほど すこし寝入りたまへるに 御枕上に いとをかしげなる女ゐて 己がいとめでたしと見たてまつるをば 尋ね思ほさで かく ことなることなき人を率ておはして 時めかしたまふこそ いとめざましくつらけれ とて この御かたはらの人をかき起こさむとす と見たまふ
大構造と係り受け
古語探訪
己がいとめでたしと見たてまつるをば 04077
この「己」は物の怪の自称と考えられている。「私が愛しくお慕い申し上げている」ほどの意味になる。意味的には、たしかにそれが自然であろう。しかしそれでは、「をば」が説明できない。「を」と「ば」が連続する場合の「を」は格助詞である。ということは、次の「尋ね」の目的語なのだ。すると前に補う言葉は「こと」は入らず、「人」を入れることになる。「己」が大切にお慕い申し上げる「人」を尋ねようと、の意味になり、人は六条御息所、「己」は光源氏と考えるより仕方なくなるのである。格助詞の「を」を無視して、「私が慕い申し上げているのに」と解釈したり、「私が慕い申し上げているのに、その私を」と無理な補い方をするのは誤魔化しである。格助詞「を」は事実であって否定できない。しかし、この読みには問題がある。発話者(物の怪)が御息所に対して、「たてまつる」と謙譲語(対象敬語)を使っているのに対して、光には「見」だけで敬語が使われていない。その後、「思ほさで」「おはして」「たまふ」と尊敬語を使用しているのに、この個所だけつけないのは、明らかにおかしい。しかし、この読み以外ないのだから、仕方ない。ここはアクロバットのつもりで結論を出す。この敬語の矛盾をなくす方法がひとつある。この部分を光自身の心中語と考え地の文とし、物の怪の発話は「尋ね思ほさで……つらけれ」と考えるのである。すると、「おのが」に対する説明も自然になる。この語は若い女は用いないとされており、これは物の怪だからいいのだと解説され、果ては、六条御息所の霊ではなく、この地に住む男の霊だ云々と飛躍してゆく根拠のひとつになっている。しかし、これは光自身の心内語だとすれば普通の用法である。夢の中だけに、自分の頭の中の言葉と登場人物の言葉との境が見分け難くなっている、それを見分けにくいままに描写したのではないかというのが私の考え。簡単な技法のように書いているが、実はこの技法はマラルメやジョイスといった、先鋭中の先鋭が二十世紀に入ってようやく作り上げた技法なのである。もっとも、日本語にはもともとどこまでが地の文で、どこからが発話か不明な場合が多い。ただ、作者はここで敬語を操り、意識的に意識の働きを書こうとしたのではないかと、考えたいのである。
めざましく 04077
予想もしなかった光の行動に対する非難。
つらけれ 04077
構ってもらえないことへ対する非難。冷たいということ。
この 04077
「人」にかかる。
この御かたはら 04077
光の側ということで敬語が使われている。ここは地の文になっている。